月: 2021年6月

財産の使い道

 美術館の大半は財団の運営によるものだ。財を成した経営者が社会還元という名目で美術品を買い、それを美術館という形で一般に開放する。それはそれでありがたい。もし芸術が一部の権力者や財産家に独占されていたとしたならば、世の中は面白くないものになるだろう。

 財産の使い道はいろいろあるが社会還元という視点は欠かせないと思う。私には分けるべき財はないので、せめてささやかなボランティア活動でもしてみようと思う。もう少しで退職の時が来るだろうが、大切なのはその後だ。世の中のために何ができるのかを考えてみたい。

 もし私に財産があるとしたら、そういう思いになれることくらいだろう。

軽薄な知の活動

 本を処分するときに様々な痛みを感じることはなかなか理解されなくなっている気がする。たまにしか読まないものに容積を譲り渡すのは愚かだとさえいう人もいる。そして反論がどんどんしにくくなる。

 書籍もデータベース化されると物体としての本の価値は消滅するかのように思える。しかし本当にそうだろうか。書棚の前に立ち背表紙のタイトルに関心を惹かれることには意味がないのだろうか。いつか読まれることを待っている本に私は大きな意義を感じている。

 おかしいのだろうか。

剪定

 実家の垣根の剪定を少しだけやってきた。椿やみかん、笹などが伸びすぎている中には棘のある蔓草もあって厄介だった。ほとんど手つかずになったのが寂しい。家は主とともに姿を変えてしまう。

激しい雨

 午前中に短時間であったがかなり激しい雨が降った。梅雨時の降り方ではない。雷雨の通り過ぎるのは真夏の天気のようだった。考えてみれば梅雨のような曇天が長く続き、かといえば真夏のような陽気になったこともあった。

 このような雨は異常気象の現象なのだろうか。短絡はできないが、今夏も一筋縄ではいかないようだ。

 マスクをはずせない2回目の夏となるが、穏やかであってほしい。

 葛は万葉集に秋の七種に数えられたのが縁で秋の季語である。ただ、強い生命力で斜面を覆い尽くすような繁殖力が目を引くのは今頃の季節であり、梅雨空の救いにもなっている。

 古典和歌の時代から観察し続けられてきた葛は、様々な表現方法があるがそれ以外のものがないかと探したくなる吸収力がある。蔓草のちなみで言えばその歴史にぶら下がり、さらなる蔓を伸ばしたいと思うのだ。

 毎日見る緑にも様々な魅力がある。

答えはない

 答えがすぐに出ない問題に対して向き合う余裕は大切である。最近は何でも即決即答が良いことのようにいうが、その類のものは実はどうでもいいことなのかもしれない。

 定説のない大問題や、根本的原理に関わる問題はすぐに解決できるとは限らない。できたと思っても別の可能性が立ち上がることもある。時間をかけてしかも不断の関心を持ち続けることでようやく端緒にたどり着く。そんな問題もある。

 私がかつて目指していたのはそういう問題だったはずだ。立ち位置を見直してみたい。

遺伝子

 遺伝子の解析により沖縄で発見されていた港川人は日本人の先祖ではないという結果が出たという。先日メディアが紹介していた。

 港川人は新人としてはかなり古い時代の地層から発見され、縄文や弥生の時代の列島人の祖先と考えられていたが、DNAの性質からどうも違うようだ。人類のグレートジャーニーの中で先に列島にたどり着いたものの、あとから来たものに住人の地位を譲ったことになる。それが自滅か、平和的な移行か、あるいは暴力のはてなのかは分からない。遺伝子情報が物語ることが正しいならば出会いすらなかったのかもしれない。

 考古学的な時代について考えるとき、いつも思うのは現在のあり方は偶然によるものだという当たり前の事実だ。私がこのような姿形をして特定の生活文化を持っているのも偶然の積み重ねの果てのことに過ぎない。だからこそかけがえがないのであり、他との優劣を論じるものでもない。

 骨格しか残らない港川人が先祖ではないとしても、更にその前の時点では繋がっていたという。この事実も時々思い出したい。

バラ咲き

 バラのような多重の花びらを持つドクダミを見つけた。十薬と言う別名がある通り、4弁の花がドクダミなのに、オフホワイトはそのままでバラのように花びらが並んでいるように見える。この植物は繁殖力が強いため通常は雑草扱いだ。しかしその雑草でさえも変わり咲きを集め園芸種にしてしまうのが人間のたくましさというものだ。もっとも植物の方は人の好みに合わせているように見えてしたたかに生き残っているだけなのかもしれない。

読解の教え方

 国語の教員として現代文の読解の方法を型で示すことがある。よく、現代文は勉強の仕方が分からないと言われるが、型を意識する読み方を学習すればある程度の成績の向上が見込める。だからこれは二項対立だとか、弁証法だとかいろいろな名前をつけて説明する。

 しかし、本当に大切なことは筆者は何かを訴えたいと思って文章を書いているということを意識することに尽きる。文章でもスピーチでもそれが実のあるものならば必ず言いたいことがある。言いたいことの大半は今まで他の人が考えていなかったことや、内容が他と同じだとしても表現の方法にオリジナリティがあると筆者が信じているものだ。だから、よほどの独りよがりの文章でない限り、言いたいことの説明をしようとする。だから、主張なのかその説明なのかという区別さえつけばたいていの文章は読める。用語が難解であったり、文が長すぎたりすると骨が折れるのは確かだが。

 だから、型で読むことを教えるのは、主張部分と、それを成立させるための説明部分との関係をおさえることと同義だろう。難しく考えすぎないように、単純化した方がいい。特に本を読むのが苦手な人には「いいたいこと」と「そのための説明」を分け、それらがどういう順番で出てくるのかをその都度意識させるのがいいようだ。フリクションなどの修正可能な色ペンでそれらを分けさせる方法は効果があるだろう。本文のコピーを取って配るのもいいし、デジタル環境があるならば、ハイライト機能などを使わせて提出させるのもいいだろう。

 読解力が低下していると嘆く識者は多い。読書量が減っているのも事実だ。ただ、読み方の教え方についてもっと研究をしなくてはならないことも事実だろう。

自戒

 若い頃は酒を飲むと調子が出た。本当は違うのかもしれないがそう考えることができた。それに比べて今は明らかに飲むだけで調子が落ちる。特に寝酒はだめだ。

 飲酒には様々な苦い思い出があるが、それよりもいい思い出のほうが数十倍多い。だから、つい習慣的に飲んでしまうものだ。最近、外食ができないせいもあり、家で缶チューハイのようなものを飲む機会が増えた。飲むときは楽しいが翌朝かなり調子が悪い。おそらく体力的に酒を受け付けなくなっているのだろう。

 習慣を変えることは難しい。悪いとわかっていても続けてしまう。だから、自戒をしたことを他人に話して自分を追い込むしかないことになる。このブログの読者の皆さんは私が今日誓うことの証人になっていただきたい。酒は週1回までにする。いやもとい。2回までにする。週2回の飲酒を超えないということをとりあえず宣言する。