月: 2020年7月

まぼろしの開会式

 まぼろしとなるのか。東京オリンピックの開会式の予定日がち近づいている。日本ではこの話題もほとんど出ていない。先の都知事選挙でも延期でなく中止を訴えた候補もいたが敗退した。というより争点にならなかったのである。

 オリンピックに関してはコロナ以前から盛り上がりに欠いていた。2回目の開催であり、国運をかけた民意発揚の機会でもない大会であるためであろう。話題になるのは開催経費や、閉幕後の施設維持をいかにするかといった競技以外のことが大半だった。あるいはこれを景気浮揚の策と考え、あるいは破綻の契機として警戒する声もあった。あまりスポーツそのものの話題にならなかったのである。

 恐らく競技としての関心を持つ前に自粛ムードとなり、思考が停止した状態になっているのだろう。まぼろしとなるのか、準備期間を与えられたのか。まだ分からない。

違う風景をみること

 外出が歓迎されない日々が続いている。政府は観光推進で国内産業を回そうとしているようだが、現状では国民の理解は得られそうもない。

 経済の問題とは別に精神衛生の問題として、外出ができないことは大きな問題がある。普段見ない風景を観ることから得られるインスピレーションが生じないことだ。決して絶景である必要はない。日常の時間には遭遇しない環境に身を置くとこが大切なのだ。

 いつになったらこの自由が謳歌できるようになるのか。私たちの眼前にある現実はあまりに厳しい。せめて細かい観察眼と想像力を鍛える日々としたいと思う。

ビニール傘

 日本には天候が変わりやすい季節があり、特に突然の雨で足止めを食うことがしばしばある。そこで安価なビニール傘が500円程度で売られており、そこそこの強度もあってよく使われる。しかし、強風などで折れたり曲がったりすることも多く、使えなくなってしまうこともある。それを路傍に捨てて帰る不届きものもいる。ゴミの不法投棄には自主規制をする気質の日本人だが、物によってはこの箍(たが)が外れることがある。迷惑だし、何よりも環境問題対策に逆行している。

 ただ、壊れた傘の行き先は不燃物としてのごみというしかない。何かに再利用できるといいのだが、思いつかない。ネットで検索すると傘のビニールの部分を上手に組み合わせてバッグを作る例が紹介されている。それを専業としている企業もあり、製品を見るともともと傘であったことが分からないほどのデザインのいいものになっている。作り方を紹介しているサイトもあるが、少々敷居が高い。ただ捨てるだけではないという可能性を示してくれているのはいい。

 傘の骨の部分は特に処理に困るが、ある人はうまく組み合わせて園芸用品にしたり、インテリアにしている人もいるようだがこれもかなり技能を要する。しかも一つあれば事足りるものばかりで、大量に廃棄されるものを処理するには向かない。

 使い捨て傘という概念をまずなくすことが必要だ。そして強度を強くすることと、逆に部品を分解しやすくするという矛盾する二つの問題を解決する必要があるように思う。再利用の方法をもっと周知させることも大切だ。身近な環境問題としてエコバッグよりも大事なものの一つがビニール傘の行く末に責任を持つことであろう。

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朗読劇

 密を避けることが義務づけられつつある社会情勢の中で、演劇は公演が制限されている。小劇場での感染も報告されており、厳しい状況が続いているのだ。その中で妥協点として考えられるのが朗読劇ではないか。

 向かいあわず接近しない。演劇の大半の要素を切り捨てた朗読劇は、それ自体で味わいがあるものだ。ただし、物足りなさが伴うのも事実である。いま、制約が設けられた状況にあってその欠乏感までもが効果的な表現方法になる可能性が出てきた。

 ソーシャルディスタンスなどという言い方もあるが、要するに触れあえない悲しみ、もどかしさを伴う状況にあるわけである。それが果たせないやるせなさを朗読劇の方法で表現できるかもしれない。

 久しぶりに脚本を書いてみようかという思いになっている。創作にはある意味こうした現状打破のエネルギーが必要なのかもしれない。

梅雨空続く

 雨が降り続いている。予報でも傘マークが並び、梅雨明けは持つ少しあとのようだ。ここ数日は気温も上がらす、ときに肌寒く感じることさえある。

 本来であれはオリンピック直前の時期であり、さまざまなプレイベントが行われていたはずだ。学校は学期を切り上げて夏やるべきことをいま行うはずだった。例えば部活動合宿は今ごろ行う手はずで宿も予約を済ませていた。

 降り続く雨の中でもマスクが外せない日が続いている。やるべきさまざまなことが流れ、それを悔やむ暇もない。押しつけられた新しい日常に心身の方が流されている。梅雨空はかえって諦めがつくきっかけかもしれない。

手触り

 バーチャルな時空が急速に広がっているいま、密かに渇望されているのは手触りなのではないか。そのときに一回限りで現れる感覚こそが大切な要素なのだと気がつくことがよくある。

 ここでいう手触りとは文字通りの皮膚感覚の介してのものにとどまらない。たとえ触れることができなくても、それに接しているという生の感覚が得られるものをすべて含めるとする。極めて主観的な感知であり、容易に定量化しにくい。

 しかし、対象と同じ次元を共有しているという思いは、実は結構大事なものであったのだ。その安心の中でいろいろなことが可能になってゆく。最近はこの感覚がないがしろになりつつある。

雨模様

 東京はしばらく雨模様の天気予報が出ている。今日も折り畳みではなく、普通の傘で出勤している。

 考えてみれば7月は梅雨のただ中で雨が降る日が多い。しかもかなりまとまった雨量になることがしばしばある。それなのに梅雨といえば6月を連想し、7月はそうでもない。それは7月末の強烈な暑さがまず想起されるからだろう。土用あたりの猛烈な暑さがこの月のイメージを圧倒してしまう。

 私たちの印象というものは単純化に向かう。イメージがどのように形成され定着するのかは考えてみなければならない。

 まもなく猛暑の期間になるはずだ。

見方次第

 最近、視力低下に悩んでいる。細かい文字が見えなくなったのは本当に困る。ときには腹立たしく感じることもある。

 加齢による宿命だと割り切ることはできる。同年輩以上の大半の人が同様の症状を訴えているのを見聞きすると、どういう訳か慰められたり、諦めがつきそうな気持になったりする。しかし、それでも残念に思う心の方が勝る。

 よく見えないことはいろいろな局面で不利益をもたらす。注意力とか推察力に負の要因をもたらすのはもっとも困った要素だ。日常のコミュニケーションにも目は口ほどに、いやそれ以上にものを言うはずなのに、それがうまくできない。

 ただ、よく見えないことがある種の恩恵をもたらしているのかもしれないなどと考えることもある。繊細な情報を削減することで精神的衛生を保てているのかもしれないからだ。最近はそう考えるように努めている。

選べる楽しみ

 私たちが思う贅沢の一つに選択の喜びがある。総体として高級感が今ひとつでもたくさんの選択肢が容易されているとそれだけで満足感が高まる。これは幸福感を考える上で大切なのではないだろうか。

 寿司は生魚を乗せた酢飯であり、料理としてはシンプルである。もちろんそれゆえに個々の作業が洗練され、店によって大きな違いが生まれている。ただし無粋な言い方を敢えてするなら、料理のやるべきことは限られている。

 それなのに寿司屋に行くと得られる豪華な感覚は自分で多くの食材の中からほしいものをその都度選べることにあるのだと考える。これは顧客満足度を上げる有効な手段なのではないか。

 このような選択度の提供は我が国のサービス業の随所に見られる。実はほとんど既成品でも最後の選択に自分が絡んだということが、魅力を倍増させるのであろう。

もう一歩前に

 我が国の現状を嘆く悲観論者の多くは国民の士気の低下に触れることが多い。士気という言葉はあまり相応しくない。別に戦っている訳ではない。格好つけずにやる気と言えばいいことだ。つまりは活力のようなものが欠けていると言いたいのであろう。

 国が豊かになると現状に満足する人が増える。本当は豊かなのかどうか分からない状況になっても、現状を維持した方がいいと考える方が優勢になる。敢えてリスクを取るよりは多少の不満を飲み込んだ方が賢明だと考えるようになってゆく。

 そういう保守的な思考は治安維持には貢献する。しかし、いわゆるブレイクスルーには向かない。何が何でも新境地を開拓するという意欲が削がれる。それが従前の士気低下ということになる。現代の日本を覆う大きな問題はここにある。