月: 2019年11月

人のスペック?

 自己肯定感が低いのが日本の学生の特徴であるとは、昨今の世論調査の示す事実のようです。どうせ私はと考える人が多いのは商品同様に人材もコモディティ化しているかのような錯覚を与える社会になっているからかもしれません。

 コンピュータの性能を表すスペックという数値があります。CPUの演算能力やディスプレイの解像度など、パソコンを選ぶ時の基準となる数値です。最近、これを人間にも当てはまる表現をしばしば目にします。身体的なデータに加えて、就職先、年収、結婚歴などが数値化されてスペックと表現されているのです。ある種の企業にとってはこれが選抜の基準になるのかもしれませんが、実はこれも自己肯定感損失の大きな要因になっていると考えます。

 他人と比較する数値において特別に目立つ存在になることはかなり困難です。そして自分よりも数値が上の存在を知ることで得られるのは失望が大半とあれば、何もいいことはありません。私も含めて多くの人は凡庸であり、それゆえに社会が成り立っているといっても過言ではありません。

 問題なのは凡庸な数値を持つ私たちが等閑視されてしまうことです。実は個々人が別々の背景を持ち、積んだ経験も少しずつ違うのにも関わらず、あたかも同じような人、その他大勢のような扱いを受けてしまうのです。それでは自己肯定しようもなく、むしろ無力感に覆われるばかりです。

 私たちは個々人の個性を認められる環境を作らなくてはならないし、その意味で人材を生かさなくてはならない。ダメな人たちではなく、ダメだと思われている人たちの本当の輝きを見つけなくてはならない。自信を失った人たちに役割を与えなくてはならないのです。

 あまりにも単純な人間の扱いが現在の危機を招いているというのが私の考えです。私たちは自らの持てるものをもっと活用することを考えなくてはならない。それが生き残るための最低条件です。

読み込む

 来年度から始まる大学共通テストへの批判が続出しています。英語の外部委託試験は延期されましたが、国語の記述式問題のアルバイトによる採点もやり玉に挙げられています。

 学習塾や予備校の実施する模試や、通信添削などはすでにたくさんのアルバイトが使われており、人選についても簡単な操作しかなされていません。これまでに示されているモデル問題では、記述式といってもかなりの程度形が誘導されており、多様な解が出ないように工夫されています。もはや記述とは言えない域なのかもしれません。

 問題文や資料、設問数も時間に対して多すぎであり、読解力というよりは情報処理の手際よさを試すものになっているのも残念です。これはAIなどにもっとも代替されやすい能力であり、優先順位は下位にあるといえます。

 作品を深く読み込み、自己の経験と照らし合わせて解答する問題の作成は確かに難しい。ですが、問題数を削ってもその方面を追求すべきです。社会の要請に見合った試験方式への変革はさらに続ける必要があるのではないでしょうか。

投資

 昨今のソフトバンクの活動を見ていると、投資会社の存在感が今後ますます注目されることが予感されます。ソフトバンクは通信分野の会社としては後発であり、シェアも小さく、決して満足度も高くはありません。にもかかわらず世間の耳目を集め、存在感を日ごとに高めているのは孫氏を中心とする徹底的な投資実績にあります。

 これからの時代は働かされるものと働かす者、そして働かす者に出資して分け前をもらう者になるという話を読んだことがあります。投資家はあくどいという先入観を捨て社会の現実を知るべきだと。そんな言説に触れたのは一度や二度ではありません。

 投資は新興企業の応援につながり、イノベーションを支援するというのも事実でしょう。私も非常に少額ですが、クラウドファンドに関わったことがあります。子どもの小遣い程度ですが。

 ただ、投資が単なる金儲けの手段と考えられたとき、労働の意味が変質してしまいます。まずは生業を持ち誰かのために働くことが基本になければならない。投資家に求めたいのは働く人の応援者であるという立場を忘れてほしくないことです。

視点を変えれば

 スポーツの試合結果を知りたいときに、見出しだけを見ると同じ結果でも全く違ったものに感じることはよくあります。快勝なのか、苦戦なのか。接戦だったのか、消化試合だったのか。同じ試合でも見方が変われば全く印象が変わるのです。

 結果だけを見ると大差がついている試合は、一方的にどちらかが試合を優位に進めていたかのように感じます。ところが、実際に観戦した人に聞くと、点数には表れていないけれども実力差はそれほどなかったという感想があることもあります。得点と試合経過とは異なり、また見る人の印象がどこに重きを置くかによって印象は大きく変わるのです。

 スポーツだけではなく様々な場面でこのことは言えます。結果を数値で表すことはその現象の一面を表現しているのに過ぎないのであって、それがすべてではないということです。私たちは結果ではなく経過を出来事として認識します。そして経過の印象は視点によって異なります。同じものを見ても別のものを感じるのが私たちの本質であることを思い出さねばなりません。

出る杭は

 閉塞的な雰囲気の漂う我が国の社会、経済にとって必要なのは発想の転換だと言われます。また、それを成し遂げることができる人材を発掘することも急務です。

 最近読む教員に関する書籍の多くに、既存の価値観を変更しなければ新しい考え方は生まれないという言説が展開されています。出る杭は打たれる式の均質なエリート育成を目指すのではなく、個々人の持てるものを活かして型にはまらない才能を発見し、支援するのがよいというのです。出る杭を伸ばす、という方法です。

 理想としてはよく分かります。多くの論者の教育に対する見通しはそれぞれ論の通った慧眼であり、敬服しています。ただ、現場に立つものとしては具体的な方策が難しい。出る杭は誰なのか。どのように伸ばすのか。杭が他の杭の上に被さっているときはどうするのかなど、考えなくてはならないことが山積しています。

 教員人生の末期に入ったいま、これを考えたいと考えています。

やってみせる

 やってみせることが大切をと感じさせられました。ある教育法の紹介です。

 その方は子どもに勉強しなさいとはあまり言わないそうです。ただ英検、数検、漢検にはこだわりがあってすべてを2級以上取得することを勧めているそうです。それだけならよくある話なのですが、この方の場合はご自分も検定に挑戦して子どもとともに勉強していらっしゃるところです。

 あと2点足りなくて合格できなかったと悔しそうに、そしてその割には楽しそうにお話していました。漢字検定の準1級に挑戦していらっしゃるのです。子どもに2級を勧めた以上、その上に挑戦する姿を見せたいというのが最初の目的だったとか。漢検準1級は普段あまり使わない漢字が多数使われ、マニアの域に入るなどといわれます。受検数も合格率も低い。そこに敢えて挑戦していらっしゃる訳です。

 率先垂範の精神に他なりませんが、ご本人自身もまるでゲームの攻略か一種のスポーツのように楽しみながら検定に挑戦されていることに感銘を受けました。やってみせることも大切だと実感したのです。

失敗

 大きな失敗をして思い切り落ち込んでいます。

 普段からいろいろと抜けていることは多いのですが、今回はかなり大きな失敗になってしまいました。自分の不注意が原因なので弁解のしようがありません。とにかく被害が少なくて済むことを祈るしかありません。

 何気なく過ごす日常の中にさまざまな落とし穴があることを忘れないようにしなければなりません。

みんなで作る

 個人の幸福が尊重され過ぎた代償として私たちは公共の福祉についての価値を下げてしまいました。社会が縮小化するいま、改めて共同体の幸福を考え直す必要があります。

 個々人が幸福を追求することは現代社会の常識であり、条件でもあります。個人の幸福が保証されているからこそ、私たちは安心でき、明日を生きる活力が得られます。ただ、さまざまな閉塞感が漂う昨今の情勢においては、個人の利益追求だけでは立ちゆかなくなっていることも事実です。一人ではできない段階に入っています。

 誰かが成功してもそのために多数が不幸になるという悲しい現実も情報化社会にあってはすぐに顕在化します。それが環境問題など地球規模で影響を与えるものとなると一層深刻です。誰か一人が幸せになるということが難しいのです。

 このような現況にあって必要なのは人間が集団の生物であるという再認識です。一人では生きられない人間は幸福の基準を個ではなく集団に置くべきなのです。そしてその集団が成り立つためにはより大きな環境が保全されなくてはならない。そうした基本に立ち帰ることが不可欠なのでしょう。

 人のために何かをする尊さを先人は語り続けてきました。この話はそれを別の表現で述べているのに過ぎません。まずは自分の近くにいる人を幸福にするために何ができるのかを考えていくべきなのです。未来はみんなで作るものなのです。

差異を越える何か

 細かな差異が気になる状況においては様々な先天的要因が顕在化します。

 いわゆる差別というものを忌避するように私たちは教育されています。これは社会生活を営む人間の叡智であり、大変尊いふるまいです。ただ、非常に細かいことが気になる状況においては、わずかな相違が気になることがあります。

 差別が発生しないための条件として、先に述べた社会的教育の成果は大きい。さらには、細かな差異が問題にならないような環境づくりも必要になります。色々な局面において余裕を作ることが重要なのです。

 これからの多様性の溢れる社会の在り方が、差異を越える何かを見つけ出していくのでしょう。

立志の作家

 田山花袋というと暴露型の文学のシンボルのように考えられがちです。私も深く研究した訳ではありません。ただ、間違いなく言えるのは花袋はかなり意図的にこの作品を上梓し、人生自体を小説化しようとしていたということです。

 花袋は上京後に知り合った柳田国男や国木田独歩のような人々に影響を受け、欧州の自然主義文学の作品化を考えるようになったらしい。故郷を離れて文士として身を立てるために必死であったようです。その中でたどりついたのが『蒲団』の世界だったのでしょう。人には言えない心の弱点を暴露することはそれまでの日本文学が題材とし得なかったものであり、開拓者としてのリスクもあったはずです。変人扱いで終わってしまう可能性もあり得ました。

 花袋を評価してくれたのはまずは上京後交友関係にあった仲間たちであり、さらにその影響下にあった人々だったのです。結果として日本の自然主義文学の方向性を決める作品という評価を得ることができました。自己の人生を世に晒すことになっても文士として生きていきたいという野望がこの作品にはあったことになります。

 高校生の頃に読んで何がいいのかさっぱり分からなかった小説ですが、もう一度読み直したくなっています。