月: 2019年11月

西向く侍

 気がつけば11月も最終日です。小の月を覚えるのに西向く侍という覚え方がありますが最近は知らない人も多いかもしれません。

 小の月を並べてみると二四六九と十一月になりますが、最後の十一という漢字を縦書きにしてくっつけると武士の士に見えることから、侍と読んで語呂合わせをしたものです。侍が西を向いているという状況に無理はなく、何らかのストーリーさえ感じられますので覚え方としては上出来なものです。

 小の月は何か一日損をした感じになることがあります。もう一日(2月ならばもっと)あるはずなのにそれができないという感覚です。逆に得したと思うこともあります。月俸制の人にとってはプレゼントのように感じるでしょう。何ごとも考え方次第です。

 小の月のつごもりの翌日は時計のカレンダー合わせの日でもあります。日付表示機能のついている腕時計はこの日に竜頭を回します。もっとも最近の時計はカレンダー調整を自動でやってくれるものが多いのでこの作業は減りました。

 月の長さが一様ではないことは、私たちの生活が単純には割り切れない自然の摂理に基づいていることを思い出させてくれます。これは意外と大事なことなのかもしれません。

寒さ加速

 今朝は氷点近くまで気温が下がっています。放射冷却の朝が始まりました。

 久しぶりの日射しは乾いて冷たい空気を照らしています。その眩しさの割りにはエネルギーが足りないのか温もりは限定的です。コートを着けても寒さがしみ通る感じがする体感です。

 この寒さのせいか私は少し体調を崩してしまいました。風邪でもなく咳も出ないのにとても不思議です。ここは確実に回復しなければと考えています。

改札はなくなるのか

 JR東日本は現在のようにSUICAなどのICカード型乗車券を認識するための方法をタッチ式ではなく、通過するだけで認識する方法を開発しているそうです。いちいちカードやフェリカを鞄から出さなくても通過するだけで認識できる方法になるとか。最終的には改札はなくなる可能性すらありそうです。

 かつて改札と言えば駅員が鋏を入れてくれる場所でした。常に鋏の音を響かせているのは昔の駅の当たり前の風景であり、切符に入れられる鋏の切り跡は駅によって形が違いました。その後スタンプになり、今のような無人改札になったわけですが、昔を知らない若者にはおそらく想像がつかない風景でしょう。

 JR東日本が進めるさらなる展開は、人口減少による人手不足や人件費削減策としておそらくすぐに広まっていくでしょう。すると改札は通過するゾーンというだけになりそうです。顔認識システムなどが組み合わされて無賃乗車は「指名手配」される時代がくるのかもしれません。

期待感の演出

 私たち教員にとっては毎日必ずしも理想的な生活ができているとは限りません。メディアで報道されているほどブラックな職場ではありませんが、残業や休日出勤が当たり前の職場環境であることは確かです。ただ他の業界と少々異なるのは強制されてやるというよりは自主的に行っている人が多いということでしょうか。もちろんそれは私の職場だけの現象かもしれませんが。

 そんな中で生徒諸君に君たちの未来は明るいぞというのにはちょっとした覚悟と工夫が必要です。先生になりたいという人がどんどん減っているのは、教員の仕事がいかに大変かを目にしているからであり、ある意味なりたくない職業の手本となってしまっているのかもしれません。教員だけではありません。働くこと全般に対して、人生を考えることに対して現在の日本社会では悲観的な側面で語られることが多いような気がしてなりません。

 それでも教育者たるもの、やらねばならないことがある。それが期待感を演出することです。生徒に勉強をさせるための手段は数々ありますが、もっとも有効なのは自分の将来に今の学習が何らかの形で役立つという実感でしょう。今はやりたくない宿題をやっていても将来はそれが基礎となって役立つときがくる。そう実感できたときにやる気のスイッチは入るのです。そのスイッチをいれるのは教員の大きな役目なのでしょう。

 私のように数学が苦手で、中高時代には苦しみぬいたものでも、いま成績処理やちょっとした表計算ソフトの関数などを組み立てる時に数学的な思考が利用されていることを実感します。もう少し数学的思考ができれば人生の損失も少なかったのではと思う場面も多数あります。論理的に物事を考えるということに数学は必要です。英語はいまだによくできませんが、職場でも英語話者と仕事をするようになり、必要な時には使う場面があります。これももう少しやっておけばよかったと思うことが多い。なによりも英語が理解できれば、英語でしかとらえることができない世界をもっと受容できたはずだったと思うと無念ですらあります。そのほかの教科についても同様のことがいえます。

 このような後悔を生徒に話すのも手だとは思いますが、それに加えて将来に学習がどう結びつくのかを具体的に示すことも大切だと思います。普段から、日常生活の各場面において過去の勉強がどのように役立っているのかを言葉として子供に示すことが大切なのでしょう。私たちは自分のやっていることをいちいち分析はしませんので気づかないことが大半なのですが、たいていの活動は中学生くらいの知識をベースにして行っているのだと思います。このことを大人はもっと子供に語る必要がある。これは教員でなくてもできることです。

 われわれといまの中高生との大きな違いは、将来の職業観に決定的な差があることです。昭和世代の学習目標はよい大学にいけばすばらしい人生が待っている、ということに集約できました。学歴がかなりの度合いで人生を決めていた時代だからでしょう。でも、いまの若者は常日頃から次のようなことを聞かされています。「今ある仕事の大半はなくなる」と。

 AIが発達し、やがてシンギュラリティが訪れるといまある常識はほとんど通用しなくなる。勉強することも意味がなくなるのではないか。無理して漢字を覚えなくても、英単語を学習しなくてもいい。計算練習なんて無意味だ。みんなコンピュータがやってしまうのだと。

 そういう時代が来るのは避けられないとしてもやはり基礎的な学習はしなければならない。精巧なロボットができてもそれを操るのは人間でなくてはならない。操られる側になってはいけないんだという危機感を生徒に伝えなくてはならないと考えるのです。期待感というよりは危機感になってしまいますが。

 整理します。生徒の学習動機を促進させるさせるために教員や親、社会の人々全体で、子供たちの未来への期待感を演出していく必要があるというのが今回の趣旨です。大事な後継者を育成するためにも大人がへこたれていてはいけない。いまある基礎学習を大切にして、次の時代きり開く叡智を生み出すきっかけにしてほしいというメッセージをさまざまな形で出し続ける必要があるのです。

曇止め

 今朝はかなりの冷え込みです。これから気温は上がらないようで、ほぼこのまま夜を迎えそうだということです。風邪やインフルエンザの流行も間近でしょう。

 マスクを着けると眼鏡が曇るのが厄介です。曇りにくいマスクというものも売っているようですが、いつも用意できるとは限らない。そこでネット検索してみると警視庁の推薦する方法がヒットしました。

 マスクの上辺の折り込むかティッシュを挟むという簡単なものです。折り込み式は曇りの度合いを軽減しますが完全には防げません。ティッシュを使う方法はものぐさの私には向いていません。いずれにしても大切なのはうつむかないことです。水滴となった吐息を眼鏡のレンズが受け止めないようにすることが肝要なのです。

 昨年までは眼鏡をかけなかったので気にならなかったのですが、これからの季節はちょっとした対策と姿勢を正すことが必要だと分かりました。

減らして増やす

 労働時間の短縮に関しては行政の指導もあるため、強制的に進められています。ただ、単純に仕事量を減らすのでは全体的な利益が減ってしまう。それでは現状維持ができなくなるのが問題です。

 私たちが目標にするのは決して現状維持ではありません。むしろ発展の方法を模索し続けなくてはならない。エントロピーの法則に抗うためには常に生産の方法を考えなくてはなりません。短時間で効率をあげるためには、仕事の内容を厳選するか、働き手の技能を上げるか、もしくは機械の補助を活用するかでしょう。おそらく、そのすべてをやらなければ達成できない。

 とりあえずは退勤時刻の30分後にすべての業務を終えることを目標にします。私の仕事の場合、これはかなり困難ですが少なくとも自ら制御できる項目については強制終了の時間を考えていきます。

 働くことに生きがいを感じる人にとってはこのやり方はかなりの苦痛も伴います。しかし、パラダイムシフトがなされなくては時代に対応できません。

人に頼らず楽しめるもの

 最近読んだ本の中で楽しみは一人でできるものを持っていた方がよいというのがありました。一つの真理ではあります。

 誰かのために何かをするというのが人間の究極の喜びであるとの考えにも接したことがあります。集団で生きる人類にとって他人への奉仕はいわば生物の遺伝的な幸福感の一つと言えるのかもしれない。そう考えさせられる言説でした。しかし、自己の幸福感を他者との関係に求めすぎるとたいていはうまくいかない。自分の思い通りに他者が動いてくれることは稀ですし、そう願うこと自体が他者にとっては迷惑になるときもあります。すると自己の幸福追求が他者にとっての不幸の始まりになってしまう。

 だから自己の幸福を追求する際に他人の反応を求めなくてもいいものを持っているべきだということになります。他人がどうであろうと自分が幸せを感じ、楽しみとなるものがあるのがよいというわけです。他人に迷惑を掛けず、結果的に他人にも幸せを感じさせるものであればなおよい。芸術活動の多くはこの枠に収まることですし、一部のボランティア活動もそれに含まれるかもしれない。いちいち他者の反応を気にしなくてもよい趣味的な活動があるといいというのでしょう。

 私にとってそれは何だろう。幸せを感じるほどのなにかを見つけなくてはと考えています。実はもうあるのかもしれませんが、具体的に意識していることはないのです。

やはり役に立つ

 シンギュラリティはいつかという話題の中で、果たして今のような教育は必要なのかという議論は必ず出ます。そして誰もそれに答えられません。まだ、起きていないことを前提に議論はできないからです。

 英語を勉強してどうするんだ。英語は自動翻訳機がやってくれるからもう必要はないんだ。英単語を必死に覚えなくてもいいだろう。意味のない勉強はやめよう。そんな話が出てくることがあります。これが暴論だと思う人は多いでしょう。では、古典文学はどうでしょうか。例えば漢文の分野などに話を移すと旗色は変わります。今さら漢文になんてやってどうなる。返り点を習っても中国語はできない。そもそも論語や孟子は紀元前の思想であって現代に通用しない。ほとんどの中国人は読んだことさえないはずだ。だから、漢文は不要だ。これが正論だと考える人はきっと多いはずです。

 英語も漢文もその学習が不要だという人の根拠は、実生活で有益か否かの基準で話していることなります。そしてその際の利益とは表面的なものであって、私たちの思考の方法に基づいていません。私たちが物事を考える際には、考えたことをまず言語化し、それを組み合わせて論理を形成します。さらに複雑な文法に当てはめて初めて言葉になります。機械ができるのは最後の段階であり、自分の思考や感情を言葉にするという段階は機械にはどうしてもできません。思考や感情を形成するのは言葉の学習を繰り返した末にできます。国語はもちろん、様々な外国語学習によってそれは鍛えられていくのです。

 だから中等教育程度の学習はやはり必要です。必要でないという人はとにかく自分の意志は放棄して効率よく機械の勧める何かに従って生きようという方針でいくしかなくなります。つまり、自分も機械の一部になることを目指す人は無駄な学習はしない方がよい。私はそうはなりたくありません。

初外套

 冷え込みが激しくなりました。今朝は今季初めてコートを着て出勤しています。1月並みの寒さだとか。

 気温が低いのは結構耐えられるのですが、問題は乾燥です。喉の渇きはすぐに風邪を導きます。インフルエンザも流行り始めているらしい。いろいろ用心がいります。

 コートを着ると服の重さを感じます。これだけのものを着て歩かなくてはならないのかと少し憂鬱になっています。でも慣れてしまうのも早いはず、毎年の繰り返しですから。

その人にしか見えないもの

 その人にしか見えないものがあることを私たちはなかなか気がつきません。何かのきっかけでそれが分かったときに深い感動を覚えることがあります。

 例えば絵画や写真を見ることはそのきっかけになります。同じ場所を見ても見えているものがまったく違うということを画家の創り出す作品は端的に教えてくれます。色合いや大きさ、中心にあるものなど、こういう風に見ていたのかと感じさせられます。写真は客観的な現実の切り取りのような体を装いながら、実はカメラマンの視点が強く反映されています。どの瞬間を現像するかの選択は撮影者の創意が形になったものなのです。さらに加工が加わればより複雑なオリジナリティの表現になります。

 対象がどう見えているのかを確かめることを一つの目的とすれば、芸術鑑賞の楽しみが増えます。そして、芸術作品に関わらずすべての現象が同様にいろいろな方法で捉えられているということを意識しておかなくてはならないのでしょう。