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速読と熟読

 普段の読書を通して速読と熟読は意識して行うべきだと思う。それが間違っていると本を読むこと自体が面白くなくなる。

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 速読というのは別に必要以上に速く読むということではない。かつてパラパラとページを送るだけで内容を理解できるというような本が売れたが、これは少なくとも私のような一般人には無理だ。そうでははくて、多少分からないことがあっても大筋をつかむように読むということである。

 説明的な文章には常套的な構造があり、多くの場合は問題提起、分析、結論という順になっている。だから、最初と最後に注目すればある程度の内容はつかめるのだ。この方法に従ってざっと通読してしまうというのが、ここでいう速読だ。小説の場合はそれほど単純ではないが、場面の変わり目に注目して読むと同じようなことはできる。ただ、創作的な文章の場合、速読は勧めない。

 熟読は分からない言葉に出会ったら、それにこだわりながら読む方法である。たいていの場合、抽象的な表現のあとに「つまり」などの言葉で説明が入るが、中には読者へのサービスがよくないものもある。その場合は辞書も引きながら読むという方法である。そして、メモを取りながら読むこともする。

 速読と熟読は目的が異なる。楽しみながら知識を増やしたり、引き出しの数を増やしたりするのなら速読がよい。一方で読書を通してその内容を習得する場合は時間をかけて読むべきだ。本が嫌いな人はこの方法を間違っていることが多い。概要をつかむ読み方と内容を理解するのとでは違うと考えた方がいい。

戦争の残すもの

 「戦争は女の顔をしていない」というドキュメンタリー作品を読んでいる。第二次世界大戦においてナチスドイツと戦ったソ連の女性たちの戦争体験を聞き書きしたものである。かなり大部であるが、惹きつけるものが大きすぎて非常に印象的だ。

 ソ連軍には多数の女性兵士やその支援部隊がいた。あまりにも多くの犠牲者がでたソ連軍は女性の動員もせざるを得なかったのだ。ただ、この作品を読む限りかなりの女性は自ら志願して戦地に赴き、中には最前線で戦ったという人もいる。多くは死に、生き残った人たちもその心身が傷ついた。悲惨さは文章からは完全にわからないはずだが、それでも心に迫るものがある。

 女性たちを戦地に向かわせたのは家族を殺された憎しみもあるが、当時の指導者の国民の洗脳も大きい。国家のために戦うことを子供の頃から教えられ続ければ、兵士になるのは当たり前だ。このあたり我が国の歴史に共通するものがある。

 生き残った女性たちの証言は様々でそれが戦争の悲劇を多方面から証すのである。男以上に戦果を上げた兵、同僚の命を何人も救いながらも、同時に多くの死を看取った衛生兵、敵に辱めを受けても屈しなかったパルチザンもいれば、敵兵を憎みながらも怪我の治療をした人もいた。

 戦争はさまざまな悲劇を同時多発的に発生させ、憎しみの連鎖を巻き起こす。敵国だけではなく同胞の仲間からも排除されることもある。だから、やはり戦争は避けなくてはならないのだ。

 この作品の当事国であるロシアがいまも戦争をしていることは大きな皮肉というしかない。現在も多くの悲劇を生産し続けている国があることを傍観するしかないのだろうか。

古典作品を読むことは現代を考えること

 古典を読んでいるといろいろ気づくことがある。セネカの「人生の短さについて」と列禦寇の「列子」を読む機会があった。どちらも社会情勢の混乱期にいかに生きるべきかについて語ったものである。学生のころ読まされたはずだが、ほとんど忘れていた。読み直してみるとこういうことだったのかと思い当たることが多い。

 古典、しかも1000年以上前の作品を読むときには、そこに述べられていることに臨場感はない。あくまでそのエッセンスを読み取ろうとする。一種の寓話として読んでいるともいえる。でも、私たちの想像力により、どんなに古い内容であっても現在の生活に生かすことは可能である。

 例えば「朝三暮四」のエピソードのように、語られることは単純であり誇張されている。荒い設定が逆になんにでも当てはまる懐の深さを生み出すのである。そして述べられている主張が今日にも当てはまることもあり、そうでないときもある。その対照によって結局は現代を考えていることになる。古典を読むことは現実社会を考えることに他ならない。

 過去のことを知ってどうするのだ、日進月歩の時代に振り返りはいらないなどという前に、まずは自分の立ち位置を考えるべきだ。もしそれができれば画期的な新しいことも生まれるはずだ。なにも新しいことを追いかけるだけが前に進む方法ではない。

インプット

 ある時期は情報を集めるばかりでものが書けない時期があった。本もかなりのスピードで読んだ。そのうちのどれだけ身についたのかは別の話だがとにかく入力過多になった時期がある。

 ところが最近はアウトプットばかりで入力ができていない。ここで考え方を変えていきたい。少しデタラメを書くのはやめよう。無理に絞り出さずにまずは先人の教えに従おう。知らない本をあえて読んでみようと思う。中断している読書ブログを再開することにする。

 歳を取ると本を読むのも大変だ。小さな字は見えないし、気力が尽きやすい。若い人には言いたい。後で読めばいいなどと思っていたら永遠に読めない。今日少しでも読むのがいい。

読書促進

 最近の子どもは本を読まないと嘆く人は多い。でも、そういう大人も読書量が少ない。最後に読み終わった本は何ですかと問われても即答できる人は少ない。

 国語の教員としてはなんとか読書量を増やしてほしいと考える。読書量を増やす策はあるかとよく問われるが、いつも答えているのは自分が本を読んでいる姿を見せるということだ。恐らくそれしかない。

 可能ならばその内容を子どもに話したり、子どもの読んでいる本を自分でも読んでみて感想を語り合うとなおいい。自分は読まないくせに子どもに要求しても効果は限定的だ。読書する楽しみを感じさせることが最善の読書促進の方法だ。

読むのを見せる

その本おもしろい?

 読書をしない子どもたちが増えている。読解力がとんでもないことになっている。そういった話は世上に溢れている。そして、現実にもそういう人に出会うことが多い。何とかならないかという話をされることもある。

 国語のテストである程度の点数を取るための技術ならばある。しかし、それは生きるための読書力かと言えばあやしい。難関大合格者の中に国語は要領ですよとコメントするのを読んだことがある人も多いはずだ。そういう人の大半は読書を作業と捉え、学び取る力に欠けているように感じられる。筆者に対する敬意も、批判する精神も薄弱だ。

 普段から読書をし、他者の意見を受容し、ときに吟味して批判する人になるためには、やはり子どものころの読書習慣が影響する。子どもに本を読ませるにはどうすればいいのだろう。これも長年の課題の一つだ。

 もちろん課題図書として課すというのは一つの手だろう。しかし、自主的に本に親しむ環境を大人が提供することの方がより大切である。提案したいのはまず大人が読書する姿を見せることだろう。率先垂範はこの話題にも当てはまる。できれば読んだ本の話を聞かせるのがいいが、ただ読んでいる姿を見せることだけでも効果がある。

 電車に乗るとほとんどの大人はスマホを見つめ、そのうちの大半はゲームをしている。次にソーシャルメディアを読む人がいてほぼそれで終わりだ。スマホで読書もできるが、できれば紙面の本で読むのがいい。子どもはそれを見ている。

 

共通体験の担保

 世代による共通の体験というべきものを探すことが難しくなっている。こんなことを見た聞いたやったという共通の経験は少ない。その意味ではここ数年、マスク生活になったことは稀有なことかも知れない。

同じ本を読む経験も必要だ

 もちろんこれはある意味喜ばしいことでもある。生活が多様化し、様々な価値観が並列する時代にあるといえるからだ。選択肢が多数あるからこそ、共通の経験を持つ者の数が減るわけだ。

 読書経験についても同様のことが言える。同じ本を読む経験が減るのは、読書以外の楽しみがあるからだということだ。

 ただ、ある程度は共通の教養がなければ様々な困難が発生する。同じ思考の根本にある読書経験がバラバラだと共感したり協調したりすることが難しくなってしまう。あの話のように、という比喩は使えなくなる。それは結構困ることだ。

 学校の国語の授業で全員に同じ話を読ませるのはその意味では共通体験の担保をしているのだとも言える。それがどんなに退屈な経験であっても、それに触れたと言う経験は一定の意味を持つ。

 よく、無理やり同じ話を皆に読ませても無意味だとか、関心のわかない読書をさせるべきではないという人がいる。一理あるが別の見方をすれば、それなりの役割を果たしていることに気づくはずである。

読み直し

 学生時代読んでいた古典作品をもう一度読んでみたいと思うようになった。私の場合は古典といっても文学なのでまさに趣味的な世界である。

 最も興味があるのが江戸時代のあたりの人物伝であり、いわゆる奇人伝と呼ばれるものだ。奇人と言うと精神異常者のように考えられるが、それだけではない。強烈な個性の持ち主ということになる。何か一つに秀でたものは他の方面では異常者のように見えることもある。それを描いたのが奇人伝のジャンルである。説話がさらに進化したものであるが、関心が人物そのものに向かっているところが中世のものとは異なる。

 もちろん昔の変わった人の話を読んでも何の益もないかもしれないが、日常の価値観を逸脱して自由になるためにどのような方法があるのかを考えるきっかけとしてはいいのではいだろうか。江戸の文学を読むための十分な知識は私にはないのでかなり恣意的な読みなるがそれもいいのではないかと割り切ることにした。

軽薄な知の活動

 本を処分するときに様々な痛みを感じることはなかなか理解されなくなっている気がする。たまにしか読まないものに容積を譲り渡すのは愚かだとさえいう人もいる。そして反論がどんどんしにくくなる。

 書籍もデータベース化されると物体としての本の価値は消滅するかのように思える。しかし本当にそうだろうか。書棚の前に立ち背表紙のタイトルに関心を惹かれることには意味がないのだろうか。いつか読まれることを待っている本に私は大きな意義を感じている。

 おかしいのだろうか。

本を

 読書の習慣を身につけるのは現状ではかなり難しい。読書よりも楽しいことはいくらでもある。その断片はネットで検索できるし、要約したり、映像化したものまで溢れている。読解力を総動員して理解せねばならない読書はハードルが高い行為のようだ。

 それでもやはり読書の必要性はなくならない。むしろ、細かな知識や全体の文脈を知るためには欠かせない。私は教員として読書を推進する立場にある。押しつけではなく、自然に本を開く行動を促す工夫をしていきたいと考えている。