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名付けの効果

 ものに名をつけることは対象の分節化であるが、今回はその話ではない。つけられた名前が対象の捉え方に大きな影響を与えることを再認識したという話である。

 例えば植物名などが分かりやすい。特定の形状と生態をもつ花に、名前をつける行動は命名者の恣意的な選択によるものだ。しかし、それが認められ、権威を有するものとなるとその名を基準に対象が見られることになる。そしてそれが定着するともうその印象は揺るぎないものとなる。

 ある本で読んだが、日本各地にもっとも多く分布するウグイスは、小笠原諸島だけに生息するハシナガウグイスの亜種なのだそうだ。分類上は離島に棲む少数派の方が上位にあり、我々が普通春告鳥としてもてはやす雅語ともいえる鳥の方は下位に位置する。学名ではそれがはっきりとわかるのだが、通称では逆に思える。名付けというのはこんなふうに対象の見方を変えてしまう。

 だから対象を見つめるときには名前を頼りにしすぎてはならない。まずはそのものに向き合わなくてはならないということだ。当たり前のことなのにこのことを私はしばしば忘れる。

大丈夫ですか

 大丈夫というのは安心ができる安定した状態をいうことばと子どものころは思っていた。ただ最近は確認や拒否の場面で用いられている。むしろこの方が多い気がする。例えばレジ袋はいりますかと店員が聞く場面で「レジ袋は大丈夫ですか」と尋ねる。客は「大丈夫です」といえば拒否の意味になる。

 「大丈夫」という名詞の意味は立派な男子ということで、剛健な男子が安泰であることを意味にしたのだろうか。それが安定状態という言葉に活用され、副詞的に使われるようになった道筋は想像できる。それがなぜ確認の文脈で使われ、拒否の回答で意味をなすようになったのか。

 思うに日本語によくみられる婉曲の表現の一つと考えるのが最もわかりやすい。確認するのも、拒否も本人の意思がむき出しになりやすい。そこで、用件の許諾そのものではなく、人の心理状態の方に置き換え、意志の確認を是か非かではなく感情の問題にしていることがこの受け答えの背景にあるように思う。

 私自身は最近の大丈夫の使い方にはなじめずにいる。変な気遣い無用などといきがってしまう。これは彼らの使用の意図とは異なっているから、私の憤懣はお門違いなのは分かっている。ただ、大丈夫ですかといわれるとそこまで窮地には陥っていないなどと勝手に考えてしまうのである。

修正する機能

 私たちの脳には不思議な機能がある。それは文字の連続の中に意味を感じ取るこである。木当はただの線と点などの連続に過ぎない文字の羅列に意味を感じ取る。きらにその文字列に間違いがあつたとしても、勝手に脳が修正し、意味を解釈てきるようにしてしまうのだ。

 実は前段落に意図的に誤植をしてみた。気づかれた方が多かったろう。それが5箇所あることはおわかりだろうか。わからなくても仕方がない。それが脳の働きなのだから。

 不完全な情報に一貫した意味を感じることはおそらく長い時間をかけて人類が獲得した能力なのだろう。大抵の場合、手に入る情報は不完全かつ断片的であり、それを元に判断しなくてはならない。類推する能力が高ければ、危険回避の可能性は高まる。

 この類推する能力は最近のAIに接したときの人々の反応にも見て取れる。先日、生成型AIの講習を受けたとき、講師がチャットの回答はAIが単語の連続の確率で組み合わせているだけで、言葉の意味を理解しているわけではないと説明した。すると同僚の一人は回答文には感情が感じられるので、講師の言っていることは間違っているという感想を述べていた。これも類推の能力がなせるわざなのだ。

 AIの作成する回答に人情を感じ取るのは、文章を読むときの私たちの基本的な姿勢のせいなのだ。文字列の乱れを勝手に修正して読むように、実は確率的な語彙の羅列であっても、そこに意味を感じ、心まで読み取る。AIとの付き合いでこのことが余計にはっきりとしてきた。

 逆に言えばこの能力こそ機械にはできないものの一つであると言える。豊かな想像力とおおらかな推測力、矛盾を乗り越える何かは人間の生物としての能力なのだろう。

 

生物に託す思い

 昔から花鳥に思いを託す歌は数多い。鳥を歌うとき確かに表現されているのは鶯であり時鳥(ほととぎす)であり、雁であり、鶴であるかもしれないが、表現しているのは歌を作っている人の心である。作者が悲嘆にくれていれば雁が音は悲しいものであるし、幸せならば別に聞こえる。それより以前に実際には近くにいてもその存在を認知すらしないかもしれない。

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 犬や猫を飼っている人の話を聞くと、その愛玩ぶりを語りながらどこかにその人自身のものの考え方が透けて見える。ペットに自分の生き方の理想を見ていたり、現実逃避する際の方便として使われていたりする。犬猫の目を借りて自分の在り方を映し出しているのだろう。

 動物の場合はそれが分かりやすいが植物でも同じだ。植物も動物の一形態であることは誰でも知っている。そしてそれは大いに自己投影をしやすい存在であるということにもつながる。だから桜に移り気を感じたり、逆に微動ともしない潔さをみたりする。これも表現の手順から考えれば桜が潔いのではなく、そう見ようとしている人々が潔いことに価値観をもとめているのに過ぎない。多くの場合、現実には実現できない理想を生物詠を通して言語化している。

 犬を歌に詠むとき、それは犬自体ではなく実は作者の思いが歌われる。そのようにとらえなおして作品を読んでみるといい。面白い発見がたくさんある。

自己表現の機会

 おそらく多くの人にとって欠けているのは自己表現を存分にできる機会だろう。自分が表現したいことを自由にできるという機会は少ない。機会が与えられても勇気が出ずに実行できなかったり、他人の評価が気になりすぎたりする。

 自分の思うことや感じたことを表現する機会は大切だ。もっとも簡単なのは友人とのおしゃべりだろう。ところがそれができる存在が少なくなっている。なんでも聞き、適度にうなずき、適度にリアクションし、適度に聞き流す、そんな存在がいる。ソーシャルメディアの「ともだち」はこれができない。過剰に同調するか逆に反論を展開するか、場合によっては冷たい罵詈雑言を並べ立てる。もしくはなしのつぶてで存在を無視されるのだ。

 色々な意味で自分の話を聞いてくれる人がいなければ自己表現はできず、その手の満足感も得られない。だから、心的な不満は高まるのだろう。それが社会の中でいい影響をもたらしているのではないか。

 この手の問題はかつて地域の町内会などで解消されてきた。それが機能しないいま、どうすればいいのか分からなくなっている。参加型行事を気楽に行える環境を作るべきだ。

富士山の見え方

精進湖から見る富士山

 個人の富士山のイメージは絵に描くと分かる。山頂部に水平な部分があって、台形のような形と考えている人は多いだろう。しかし、実物はかなり違う。

 例えば山梨県側から見た富士山はより急峻で野性味を帯びている。山頂部も傾いており、溶岩を流した跡が残っている感がある。現にその形跡である青木ヶ原樹海が溶岩流の広域さを推量する証となっている。

 私たちが富士山に対して漠然としたイメージをもっているが、それは現実の富士山とは程遠い。人生という単位、もしくは人類史というスケールでも収まりがつかないほどの長大な時間をかけて造形されたものは複雑であり、言語でも映像でも捉えることはできない。ごく一面をしかも省略したり誇張したりしてようやく表現できるのだ。

 私たちの目にするもののすべてが実はすべて物事の一面に過ぎないことを考えるべきなのだ。

直喩の積み重ね

 何かを表現するときに比喩はもっとも一般的なレトリックの一つだ。比喩にもいろいろな手法があるが、その中でももっともわかりやすいのは例えるものを明示する直喩という方法だ。「ような」「みたいな」などを使って話すことである。

 何に例えられているのかが分かりやすい直喩の方法はイメージを掴みやすい。そして例えるためにはいろいろな言葉のイメージを把握しておくべきだろう。

 直喩を積み重ねることで言いにくい何かを次第に浮かび上がらせる。それが言葉の持つ力なのだろう

絵画の見せるもの

 美術館の展示を観るといつも思うのは人が何かを描くという行動の意味である。なぜ絵を描くのか。そして本物ではない絵を観て何らかの感動をするのはなぜかということだ。

 絵を観るとまず単純に何が描かれているのかを確かめ、その色彩や構図、対象物の形などを観る。それが既知のものなら自分の知識や経験と比較してその差を考える。未知のものも類型から推測することを始めていく。

 その後、なぜこの絵を描いたのか、どうしてこのような絵にしたのかを考え始める。解説を読んで大づかみに把握して、その後は勝手に考える。結局分からないことが多い。

 絵を描くには相当の労力がいるはずなので、なぜその対象を描くのかは画家の思い入れがあるはずだ。それは何が。何が絵筆をとらせたのかを考えることが

 そしてその対象を画家がどのように捉えたのか。それをどう表現したのかに思いをめぐらす。写真ではない絵は何をどのように描くのかは画家の価値観や人生観が反映されているはずだ。

 その絵に盛り込まれたものを私たちは観に行くのだろう。いかに本物に近く描かれているのかではなく、本物をどのように捉えたのかを知りたいのだ。芸術にはこの筋が欠かせない。

だいじょばない

 「だいじょばない」は大丈夫ではないの意味で使われている俗語だ。不調を表す言葉を敢えて文法破りで表現することで戯けた雰囲気を出す。大丈夫ではないと言い切るより多少気が楽だ。こうした感情の朧化表現はいくらでもある。

 この場合の「ない」は打消の助動詞であり、未然形に接続する。「走る」に「ない」をつけると「走らない」になるように、「だいじょうぶ」という名詞を動詞にしてそれを未然形に活用して、「だいじょうば」とし「ない」をつけたあとで「う」を脱落させて言いやすくしたのだろう。

 ならば「だいじょぶ」はバ行五段活用の動詞であり、連用形は「だいじょび」となるから、「だいじょびます」となり、仮定形を使って「だいじょべば」とか命令形の「だいじょべ」、意志の「う」を後置して「だいじょぼう」とかがこの後登場する可能性がある。

 そもそもNo problem の意味で「大丈夫」が使われ始めたときからこの語の変貌は始まっていたのかもしれない。

 因みに「だいじょべ」という命令形はどんな場面で使われるのだろう。そら恐ろしくも感じる。

自分を描く

 小説のなかの「私」は自分のことではない。少なくとも読者はそのように考える。自分のことを「私」と語る架空の人物である。それを作者が創作し、読者はその創作の文脈に乗っ取って読む。

 随筆になると「私」は筆者のことではないかと考えられる。たとえそれが真実ではなくても、文章の中ではそれは紛れもない筆者の体験の記録だと考えるのだ。読者の読み方がそのようになる。

 ただ割り切れないこともある。随筆の中にも限りなく小説に近いものもあり、明らかに真実とは異なると直感できるものもある。こうなると随筆の「私」は筆者とは言い切れない。ただ、この筆者の経験が言動といった可視のものに限らないとすればどうだろう。例えば筆者が頭の中で考えたこと、妄想したことなども筆者の体験ともいえる。ならばそれを記したものは立派な随筆ではないか。

 でも、そう考えると小説にも当てはまる。小説の中にも自分の経験を素材して書かれたものはいくらでもある。ならばそれは随筆ではないか。でも随筆という分類でその作品を読み直すと明らかに違和感がある。おそらく、創作性というものが切り落とされるような気がするからだろう。

 作品の中で自分を描くのは実は結構難しい。ありのままの自分を描くことはできない。そこにはどうしても幾分かの物語化が起きるし、そもそも自分のことを自分が客観的に描くこと自体が難しい。日記やこのようなブログもそうだ。毎日書いているブログも自分のことを書ききったと実感することはほとんどない。自分を描くことは難しい。