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「む」の話

 文語文法の必須の知識に助動詞の「む」がある。これには意志、勧誘、推量、婉曲、仮定の用法があると学ぶ。そして主語が一人称のときには意志、二人称なら適当・勧誘、三人称なら推量であり、文中で使われるときは推量の意味は弱く、その意味が弱い婉曲かわずかにその意味が残る仮定の意味になるという。受験生としてはここまで覚えていれば完璧だ。

 ただ、同じ語がどうして一見離れた意味を表すのかを考えるのは難しい。意志は「しよう」であり、推量は「だろう」で勧誘は「のがよい」である。これらを一語で言えるはなぜなのだろうか。

 思うに、「む」は対象に対して気持ちが向かうということなのだろう。私が主語のときには、その対象に対して気持ちが向かうので、意志の気分になる。それを自分ではなく話相手に対象に対して向き合うことを求めると勧誘になる。その度合いが弱いと適当になる。三人称ならば対象に向かう気持ちは確信が持てない。だから、推量という形になる。

 文中の連体形の「む」が婉曲の用法になるのはなぜか。基本が対象に向かう気持ちならば、意志や推量の気分が強くなるはずではないか。これが大きな疑問である。ただ、どうもこれは日本語のもっと大きな文法によるものらしい。日本語では物事の確信的判断というものを避ける傾向にある。「なり」「たり」といったいわゆる断定の助動詞を使った表現も、確信というよりも現状追認という意味の方が強いように思える。「なり」や「たり」に含まれる「り」は「あり」の短縮で、そのような状況で存在しているという現状追認と思う。話者の判断による断定ではなく、そうなっているという報告なのだろう。

 ならば「む」が連体形で用いられるとき、そこに話者の判断はなされず曖昧な推量がなされることになる。結果として推量の意味が極めて弱い表現としての婉曲が成り立つことになる。

 かなり恣意的に話を進めてきたので識者からみれば反論はいくらでもあるはずだ。批判を受け入れる用意はある。というより、この疑問を解いていただけるならば幸甚極まりない。

 ただ古典文法を技能として教えることに疑問を持ち始めてしまった者に対する救済を求める次第である。

説明過剰

 歌人のエッセイを読んでいてなるほどと思ったことがある。現在の文芸は大概が説明過剰であり、それゆえに詩歌の入り込める世界が小さくなっているとのことである。文学的な表現として説明し過ぎないという基本的な約束がある。文学で求められるのは分かりやすさではなく、表現の中にどれほどの情趣を盛り込めるのかということである。目指しているものが違うのに、最近の文学はとにかく分かりやすいというのだ。うべなるかな。

 分かりやすさを求めるのはビジネスの場面では当たり前である。多義性を極力排し、一読すればすべてが分かるというのが理想とされる。そこに含蓄は要らない。その発想が文芸にもそのまま援用されているのだろう。きわめて分かりやすいが、その分薄っぺらい出来具合になってしまう。

 この傾向の背景にあるのは、やはり読み手の読解力が低下しているということにあるだろう。分からなければ読まないという姿勢は、読解への挑戦心を削ぎ、いつしか本当に読めなくなってしまう。面倒なことはしない。非効率的だからというビジネス文書の読み方と同じになってしまうのだ。

 書き手の方もそういう読者を慮ってとにかく分かりやすく書く、技巧は最低限にして話の展開も単純にする。複雑な時は文中に注釈を入れてしまう。読者に嫌われるくらいならばその方がいいと考えてしまうのだ。こうした動向は日本語のレベルを下げることに繋がることを認識しなくてはならない。

 私は日本の事情しか分からないので、この先は推論に過ぎないか、恐らくどこの国もおおかれすくなかれ同様の背景があるのだろう。説明がなくても読み取れる教育をすることが求められている。

作り話は難しい

 作り話は面白い。ただ、嘘はいけませんという言葉を何度も浴びているうちに自由な創作ができなくなってしまった気がする。

 小学生の頃、ノートに書いた話は宇宙船に乗って知らない星に行くという内容だった。たどり着いた星は地球そっくりで出会う人もどこかであったような人ばかりだ。違うのは自分がまったく別の扱いを受けることで、実際は地味なのにひどく英雄扱いされるといったようなものだ。オチはなくそれだけだ。

 当時よく読んだ星新一のショートショートや松本零士の漫画などの二番煎じだが、それでも書くこと自体が楽しかった。中高生のときも書いたが何か暗い内容だった。それでも作り話に興じることができたのは、ある意味恐れを知らなかったからだろう。

 それがいまはいちいち自己点検が入り、書くこと自体に夢中になれない気がする。どこかで書くことは無駄なことだ。そんなことをしてもなんにもならないという考えを持ってしまうのだ。

 創作は基本的には自分勝手であらねばならないのだろう。それが期限内に他者の要求にも沿う形で実現できる人がプロの作家になれるのだ。私にはその才はないがせめて駄作を臆面もなく書けるようにはなりたいと思っている。

読解力が導く新しい世界

 後に大家と呼ばれる作家のデビュー作の中にも酷評を受けたものが多数あるという。読むに値しない作品だ、などというのはまだいい方で、作家の人間性を傷つけるような行き過ぎたほとんど誹謗中傷というものまである。

AIが生成したこの記事のイメージ

 これにはいくつかの要因があるようだが、その第一は読み手としての受け入れ方法が見つからなかったことにある。新しい表現法、新しいテーマ、新しい視点といったものは新奇性というより、奇異性の方が先行する。結果としていかに読めばいいのかわからないのだ。

 時代を変えるような作品の中にはそれを受容する側の能力との釣り合いが求められることがある。その均衡が図られるまでは作品が評価されることがないのかもしれない。作家が先行しても読者がいなければ作品は浮かばれない。

 物差しのない中でその作品の価値をなんとなく見抜くのは実は才能なのかもしれない。よく分からないけれどなんだか凄いと感じる。そういうことができる人が現れてくると新しい作品が生まれる。こうした読解力を持った人が真の読者というべきなのだろう。

 小説の話で書いているが、これはどんな方面にも当てはまる。新しいもの、今までになかったものにどういう評価を下し、どんな価値を与えるのか。それには奇異と映るものを粘り強く受け入れることが要求される。そしてそれが達成されることで新しい世界が始まるのだ。

デッサンの力

 水彩画を鑑賞してつくづく思うのはデッサンの能力が大切ということだ。目前の対象を2次元に変換することは容易にできるものではない。デッサンの文法とでもいうべきものを理解し、さらにその上の飛躍を狙わなくてはならない。

 私は絵画を観るのは好きだが描く方はからきしである。それでもなんとか自分らしい表現はしたいと思い、稚拙なスケッチを繰り返している。その種の指南書も買ってなんとかしようとしたが今のところ、なんともなっていない。

 おそらく、対象との向き合い方が足りていない。趣味の程度と考えている時点で真剣味が欠けている。本当に絵画で何かをしようという思いが圧倒的にない。画家の作品を観るとそれを痛感する。彼らの作品には人生のかなり多くの比率の凝縮したものがある。

 デッサンというのは対象に対する画家の解釈を表すものだ。世界をどのように捉えたのかという解答のようなものだ。鑑賞する者はその解釈を通して世界を見る。そこに共感できれば表現は倍増する。

異郷を描くこと

 見ず知らずの場所に行ったときそれをどのように表現すればいいのかとまどうことがある。それまでの経験に照らし合わせ、「~のような」という比喩の表現を使って何とかつかみ取ろうとする。絵もそうだろう、以前描いたなにかのバリエーションとして眼前の対象をとらえて何とか描きとろうとする。当たり前だが初めて見るものをそのまま表現する方法はない。

 以前大伴家持のことを研究していた時、越中国守時代の旺盛な歌作を分析したことがある。そこに読まれる地名やその地の風習と思われるものの描写などを注目した。でも、一方でどこまでも平城の官人としての世界観価値観が感じられ、本当に越中のことを描いているのだろうかと疑問に感じたことがある。たとえば眼前の花を歌っているように見えて、実はそれは奈良でみた似た花の印象を言葉にしているのではないかと。あるいは望郷という感情が越中の風物を題材として語られているのではないかと。

 これは別に万葉歌人だけではない。現代の旅の文学も含めてありのままを描くことは実は困難だ。その人物の持っていた既存のフレームで異郷の風景を修正して描写しているのではないか。西洋に渡った画家たちの描くその地の風景の中にどこか日本を感じてしまうのもそれが原因かもしれないと考えている。

 私は異郷を描くことがそれほど作者の心の営みに影響されているということを確認したいだけだ。これは優劣の問題ではない。芸術作品というものが純粋なデジタルデータと違うのはそこにあり、それこそが芸術の魅力だと思う。

冗長を厭わず、嫌悪を嫌わず

 冗長を嫌わず、とにかく思うことを綴ること。それが私の最近の方針である。どうも昔のように整理してから発信するという芸当ができなくなってきた。昔はそういう無駄なことをする輩を嫌ってきた。しかし、今はそういういう余裕がないことに直面している。若い人にはひそかに聞いてほしいことである。

 科学的ではないが、加齢の弊害の一つに短期記憶の低下というものがある。昔は何ともなかった記憶のポケットがとても小さくなってくることを痛感する。これは少しずつ着実に進むから具合が悪い。行ってみれば短期間の記憶喪失が頻発するということなのだ。これは脳科学者ならば適切な説明ができるはずだ。

 とても残念なことにこの現象は多岐にたわって様々な問題を起こす。私たちの生活の大半は短期記憶に支えられており、それで人生の大半を乗り切っている。その最も基本的な能力を奪われてしまうと、打つ手はなくなっていくのだ。

 そんなことは例えば特殊な病に侵された人だけの話だと思う若者は多いだろう。私もそうだった。残念ながらこれはほぼすべての人が味わう老化現象なのだ。このことを伝えなくてはならない。言いたいことは本人の意思に関わらず、加齢により脳の老化は確実に起こり、その一つに短期記憶の低下があるということだ。私自身が大変悔しく感じていることの一つだが、これはどうしようもない。

 前置きが非常に長くなったが、短期記憶衰退のわかりやすい現象の一つとして話の冗長性がある。さっき同じ話をしただろうと聞き手は思うかもしれない。しかし、高齢の話し手はすでにさっき話したことは忘れているのだ。そのことを若い世代は理解できないかもしれない。単に耳が痛い話を永遠に繰り返す嫌味な奴だと思うかもしれない。

 高齢の助言者は無視していいのか。少なくてもこの国で生きていく以上は先輩の発言は無視しえない。科学的根拠は劣ることがあっても、経験的な正当性は高く。それを参考にしない手はない。先輩はやはり立てるべきなのだ。ただ。盲従する必要はない。皆さんが手本としている先輩は日本の歴史という尺度で考えれば、ごく最近の学習者に過ぎない。そこから役に立つすべての情報を引き出せるはずがない。

 その上で言いたい。あなたの近くにいる目標とすべき先輩の存在が無意味なのかといえば、それは違うといいたい。人生は思った通りには全くいかない。様々な条件がそろっていてもうまくいくとは限らない。私たちの人生が偶然に満ちたものであることは過去の歴史から容易に推測できる。

景をもって

 風景を歌うことで心情を表すのは俳句などでは基本の考え方だが、それ以外のジャンルにおいても、あるいはいわゆる文学的な表現が要求される場面ではなくてもそういう感性は大切だと考える。

 これには喜怒哀楽や人情の機微を景から感じ取る力が必要になる。それには感性のアンテナを高くして、いろいろな経験を積むことが必要だ。優れた叙景詩や風景画をなす人たちがしばしば高齢であったり、若くとも特殊な経験を持っていたりするのはそうしたものの見方が培われてきた結果なのだろう。

 景をもって情を写す。古来から言われてきた境地をほんの少し分かりかけてきた気がする。

自分の言葉で表現しろという前に

 最近よく耳にするのが理解するためには自分の言葉で表現することというのがある。用語や公式を断片的に覚えるのではなく、自分の言葉として捉え直せるかが肝要だということだ。この点については同感である。

 ならば、言語表現力を高めなくてはならない。自分の言葉が貧弱では表現できる範囲が限られる。基本的な言語操作能力を向上する必要がある。そのために家庭での会話を疎かにすべきではない。伝えるべきことは言葉で伝えることを日頃からやるべきなのだ。

 ただ家族には言葉でなくても伝わることが多い。いちいち言葉にするとかえって関係が悪化することさえある。次に注意すべきなのが学校の教員たちなのだろう。教えることが一方通行にならないよう学習者の反応を引き出し、その内容や表現の仕方に注目していく必要がある。場合によっては何と答えたかより、どう答えたかの方を評価すべきなのだ。

 自分の言葉で言いなさいという前に、表現の仕方についてもっと教えるべきだろう。それが初等、中等教育の教員の役目であることは間違いない。

和製英語

 アメリカの野球中継を見ていると知らない言い方がたくさん出てくる。ヒット・バイ・ピッチやベースィズローディドなどは早めに覚えたが他にも意外なものがある。野球を通して英語を覚えたつもりだったがデッドボールもフルベースも英語圏では使わないらしい。

 和製英語と呼ばれるものは他にもたくさんある。コロナの頃にはしばしば耳にしたピークアウトはいかにも英語のようだが日本人が作り出した言葉らしい。外国語まで和風にしてしまうのはこの国の人々の得意な才能と言ってよい。

 野球の言葉がたくさんの和製英語でできているということは、それだけこのスポーツが日本で愛好されてきた証拠だ。ナイターを観に行くなどというのはおかしいと言う前に、ナイターという日本にしかない夜の試合を表す日本語として使い続ける方がいいのかもしれない。