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何とか切り抜ける力

 効率よく最短距離でが推奨されるご時世だが、どうも私には親和性がない。失敗を繰り返し、たまたまうまくいって何とか切り抜けるというスタイルの方が私にとってはやりやすい。

 こういう考え方は効率性への逆行と考えられがちだが、果たしてそうなのか。あるいは寄り道の上、出口を見つけた経験こそが大切なのではないか。何もかも上手くいかない状況の中で、必死に出口を模索できたことが何よりも貴重な出来事だったのではないか。

 物事を効率的に行うことに関して人工知能に勝つ見込みは少ない。かのシステムは過去のデータベースを引用して、今日の問題に提言をしてくるのだから、そうそう勝ち目は無さそうだ。

 ただ、不確実で法則性が見いだしにくい状況の中で何とか答えを見つけ出すのは人間の得意分野である。状況に対応してその場で解決策を見出すのは進化の過程で、獲得したスキルでである。これを大切にしなくてはならない。失敗することは避けられない。それでも続け、やり通すのは人間に残された最後の最強の能力なのであろう。

失望の果て

 失望の果てにたどり着くかものがある。どうしてもやりたかったのにできなかったことを数えれば果てしない。

 ただ、限りない幸運がないのと同様、どうしようもない不幸も長くは続かない。すべてはかつ消えかつ生まれる。

 慌てるのは今だけにしよう。やがてときは移りゆく。変わりゆく未来に身を委ねるしかない。

 この記事は下書きに残しながら出すのを忘れていたものである。

初めてのことのように

 細かいことを気にするなという言葉がある。確かにそれは処世訓としては的を射ている。ただ歳を重ねるとその金言は時に害悪になる。細かいことを気にするべきだろう。

 小異を捨てて大同につけというのは大抵の場合正解だ。些細な違いに気を取られて本質を失うのは愚かである。でも高齢者にとってはこの言葉は毒にもなる。歳を重ねると物事の分節化がかなり概括的になる。過去の経験知からこれはこのようなものだろうと決めつけてしまう。おおよそそれは間違いではないから、ますますその傾向は強くなる。でもよく考えみよう。同じことは二度と起こらない。そしてたとえ似ていたとしても背景の要素がまるで変わっている。

 だから、私の最近の金言はこれまであったことを初めてと考えよということだ。私のいまの経験を大切にして過去の経験知を敢えて後ろに回せということなのである。これには相当のかっこ悪さがある。でも、要領よく無難に切り抜ける代わりに何も得られないよりは、失敗があってもリアルタイムに現状と向き合える方がよほどましなように思えるのだ。

 おそらく、こんなことを言ったら、それは余裕がある者の意見であり、本当に困窮したらそんなことを言っている暇などないと一喝されそうだ。その点には異論はない。ただ、何もせずに暮らすよりは、何かをした方がいいのかもしれないいう形に人生を捉え直したい。真新しい明日を生きるために。

今日に至ることができた幸せを喜ぶ

人生にもさまざまな区切れがある。いま私にとってはそれを体験している。体調、気力、その他さまざまな面に不如意なことが増えた。でも、加齢を嘆いていても何もならない。寧ろいましか感じられないことを愚直に表現していこうと思う。この時の思いはその時にしか分からないものだろうから。

 今年を何とか無事に過ごせたことをよしとしよう。そして来年がもっといい年になることを、予祝してしまおうと思う。

 好き勝手なことを時流に阿ることなく記しているブログを読んでくださる方々に深く感謝する。さち多からんことを。来年もよろしくお願いします。

今より不便だったころ

 今より不便だったことを思い出すことができるのか。それが現代を生きる鍵になるのかもしれない。

 いまは何でも効率的なことが求められる。少しでも無駄のないように徹底的に計算される。そうせざるを得ない現実があるから躊躇がない。

 でも、今に至る前の時代は必ずあり、その時代を生きていたはずなのに、すっかりと過去の思い出を忘れている。これは老化とか人生の問題とは違うようだ。加齢がもたらす記憶系の不思議な振る舞いである。

 いま私は時代の先端にいて、その流れに乗っていることになる。当然さまざまな矛盾を抱え、場合によっては崩壊し始めている要素もあるのだが、いちいち検証することはない。過去の経緯を思い出さないことに加えて、少し後のことも考えない癖がついている。それが恐らくいま求められている効率的に生きることなのだろう。何かが違うとしか言いようがないが。

 試みに10年前とか30年前のことを思い出してみる。インターネットが普及する以前のことを考えてみる。そのときに感じていた何かを忘れてはいないだろうか。いまを見つめ直すためにはこういう脳内作業も必要だと思う。

とにかく書くこと

 自分の考えをなんでも書き出すといいという意見に時々出会う。私にとってのこのブログなどはその目的で続けている。質より量というか、継続である。自分で言うのもむなしいが、ほとんどがどうでもいい記事である。ただ、私の場合は毎日何とか続いているので、過去にこのようなことを考えていたんだということを思い出すよすがにはなる。

 これは悪いことではないらしい。私たちの思考は言葉によってなされるが、それがまとまった文章になって初めて思考というものが形成されるようだ。あれこれ思っていても形にしなくては定着しない。だから、無理やりにでも言葉にすることには価値があるというのだ。思いつくまではもやもやとして何も始まらないが、ノートにメモしたり、キーボードをたたき始めると意外にも次から次へと言葉がつながることがある。これは言葉のもっている文法というか自然の流れというものが、思考を育てる手助けをしてくれるからなのかもしれない。

AIが生成したイメージ

 作家とか文筆業の人の中に多作の人がいるが、この最初の思い切りができる人なのだと思う。あいまいでゴールが見えていないのに、書き始めると自然に次の道が見えてくる。それが達人の技なのだろう。とにかく行ってみるのが冒険家だという話をどこかで聞いたが、文章家もそれに近いものがあるのだろう。もちろん、いろいろと調べたり、経験を積んだりすることが必要なことは言うまでもない。それがなければ語る内容が薄くなるはずだ。でも、経験豊富であれば文章が書けるというものでもない。やはり最初の一歩を踏み出す勇気があるかどうかなのだと思う。

 とにかく書くことが大切なのだが、日々を忙しく過ごすうちに日常の路線から少しでもはみ出ることにためらいを感じてしまう。それが新しい考えをすることを拒み、日常の繰り返しに甘んじることにつながっているのだろう。これは加齢もある。年齢を重ねることは経験を豊かにするが、同時に失敗を恐れる臆病さも獲得してしまうのだ。なんでも思いついたことを書くノートは常にカバンの中にあるが、最近何も書けないことが多い。もう一度考え方を改めて、最初の一歩をたくさん踏み出したい。このブログもそのための一つだ。

言葉と経験

 聞いてもわからないものがある。見てもわからないこともある。本当に分かるということは自分でそれが説明でき、再現できるということなのだろう。そのためには言葉の運用力が必要であるし、それを裏付けるさまざまな経験の蓄積というものも要る。

 自分のことをいえば、最近はこの方面の努力を怠っている。自分で説明できなくてもとにかく使えればいいとか、その場をしのげればいいと安易に考えてしまう。そしてそういった情報は無数にあり、検索すれば比較的容易に抽出できる。

 仮にその場をしのげたとしても、理解のない知識は応用が利かない。蓄積も難しいから、常に初期状態のまま進歩しないといってもいい。それでは新しいことはできないし、そもそも他人の言ったことを引用するだけでは何も生まれない。

 上滑りの知識を弄するだけの人生にならないためにはやはり言葉と経験を豊かにするしかない。そのどちらかではなく、どちらも必要だ。人によってできる程度は差がある。ならば私は自分のできる範囲でものを語り、偏らない経験を積んで知の幅を広げるしかないと考えている。それがこれからの私の課題である。

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書き込むこと

 原稿用紙なりノートなり手帳なりに自分の考えを書き込むことがやはり大切なのだ。デジタルデバイスの普及で私自身もノートや手帳を広げる機会が減っている。

 紙の上に書くのは、現状ではデジタルよりも曖昧で自由な情報がこめられることにあるのだろう。字の大きさや濃淡、不規則な線や、直感的な図など、完全に言語化しにくいものまでを紙面では実現できる。それが表現の多様性を確保しているのである。

 作家の創作メモを文学館などで目にすると、細かいことまで設定しようとしていることが分かることがある。見たこと考えたことを言葉にして書き付けておくことが創作に繋がるのだ。

 私も実は小さなノートをいつも持ち歩いている。ただ、広げても何も書けないことが多い。自分の考えを言葉にしきれないでいるのだ。もう一歩前に進まなくてはならない。

別の物差しがある

 自分らしい表現の仕方ができないと実力が発揮できない。他人の決めたやり方に沿って物事を進めるのは、許容範囲にあるものならば楽でよい。いちいち何をやるのか決めなくてもいいからだ。

 でも、それが自分のやりたいことなり、適性なりから大きく外れているときにはかえってその人の存在を小さくしてしまう。いつもあの人は消極的だとか、能力的に劣っているとか言われている人も、やり方を自分で選べるようになるととたんに才能を発揮することがある。

 やりたいことと、取るべき方法と、その結果とはなかなか良いふうには組み合わされない。なすすべはない。が、少なくとも一つの物差しだけで自他の能力を評価することはよしたほうがいいようだ。見方を変えて違う自分を、別の他人を見つける方がいい。

ありがとう、さようなら8月

 まもなく8月も終わる。台風でかき乱された月末になった。まだ当面暑い日が続きそうだが、8月が終わったことはやはり大きな区切りになる。そこで私なりにこの季節に対して送別の言葉を述べておくこととする。

 とても暑い毎日、猛暑ということばが陳腐となり、最近は酷暑ということばも刺激が少なくなってしまった。最高気温が31℃という予報が出ると今日は少し涼しくなるなどと感じてしまっている。35℃以上が続くとそういう麻痺が起きる。また、そのように暑い日は出歩かず、冷房のもとで過ごすことも当然のようになった。かつては冷房にあたりすぎると体を壊すといって無理にでも日光に晒されたものだが、その勇気がくじかれてしまったのである。

 暑い日々は睡眠時間を奪い、集中力を搔っ攫っていった。ただでさえ、深くものを考えなくなっている最近の自分に、より刹那的な思考パターンを定着させている。このままではいけないと思い、思い立って読書をしたり、文章を書いたりしたが初志貫徹は難しかった。

 それでもとにかく何冊かの本を読み、社会のことを考え、未来について少しだが思いを馳せることができた。それは何はともあれ評価しておくべきだと思う。わずかな悪あがきだが、何もしないよりははるかにいい。そしてこれは続けなくてはなるまい。

 最近の8月は暑すぎて能率がさがる期間になっている。教員にとっては授業がないので、比較的自由に仕事ができる毎日だった。やることを自分である程度選べるということはいい。どこかに行ったわけではないが精神上は自由であり、いろいろなことをやってみようと思えた。これから仕事に追われる日々が来るが、その中でも8月の自由な精神を思い出すことを忘れないようにしよう。

 思えば、夏休みを特別な時間と思えるのも、今の仕事を続けている時までのことである。まもなく、それも終わる。きっと数年後には夏休みに過剰な期待をしていた日々を懐かしく思い出すときが来るのだろう。ありがとう8月。さようなら8月。私はまだ前に進まなくてはならない。一年後に会えることを楽しみにしている。