通勤電車からいつも見る風景にいわゆる雑草が線路沿いに生えているものがある。あまりに当たり前の光景なので大半は視界に入っても意識には上がらない。
過酷な条件と思われる線路際にも結構いろいろな植物がある。過酷と書いたがたまに保線の際に草刈りが入ること以外は、人の出入りが禁じられており、むしろ植物にとってはサンクチュアリのようなものなのだろう。
あらゆる場所で適合し、命を伝えていく動植物の力には改めて感動せざるを得ない。
日々の思いを言葉にして
タグ: 自己啓発
通勤電車からいつも見る風景にいわゆる雑草が線路沿いに生えているものがある。あまりに当たり前の光景なので大半は視界に入っても意識には上がらない。
過酷な条件と思われる線路際にも結構いろいろな植物がある。過酷と書いたがたまに保線の際に草刈りが入ること以外は、人の出入りが禁じられており、むしろ植物にとってはサンクチュアリのようなものなのだろう。
あらゆる場所で適合し、命を伝えていく動植物の力には改めて感動せざるを得ない。
人工知能が何でも代替するようになればますます貴重になるのが一回限りの仕事の成果だろう。一点物の価値が重要になる。
かつてはブランド信仰があった。有名ブランドさえプリントされていれば価値があると考えられていた。しかし、ものが出回り消費者の目が肥えると、結局大量生産されたブランド品を持つことに価値があるのか疑問視する人がでてきた。ブランドの魔法が解けた人には何が残るのか。それが手仕事による一点物の価値だ。
生産者の腕がいままで以上に要求されるとともに消費者の目利きの力も大切になるはずだ。これはいい傾向ではないだろうか。
私たちの身の回りのものはすべて人間の平均的なサイズに合わせて設計されている。だから平均から遠ざかるととても不便だ。その範囲内で生活しているとなかなかこの事実に気づかない。
ところがその意味に突然気づかされることがある。私はここ数年老眼が進んで小さな文字がよく読めない。説明書の類はほぼ難しい。この障害はゆっくり始まって、漸増していく。私は通勤電車のなかでスマートフォンでこのブログを書くことが多い。細かいデジタルキーをタップできるのもいつまでだろうか。
急性のものもある。最近、左膝に水がたまり歩行に痛みを覚えるようになった。幸い医師の力を借りてかなり回復したが、それまでは大変だった。時に階段の昇降は辛く、あまり使わない駅のエレベーターのお世話になり続けた。こうなるとちょっとの段差が越えられなくなる。
ものごとを考える際、思いやりの気持ちが大切だとはよく言うことだが、こうした身体的な条件の違いを考えるべきだろう。実際に起きてしまうと厄介だから、せめて想像の力を発揮して自分とは別の条件の存在を考えるべきだ。
ありもしないこと、常識を破ることを考えるのは無意味だと考える向きもある。それよりは実効性があるもの、効率性の高いものを目指すべきだというのが時代の流れだ。なにしろ無駄なく近道をすることばかりを求めすぎる。
確かにそれは大切なことだろう。無駄なことを繰り返すより、意味のあることを集中的にやった方がいいのは当たり前だ。ただ、それだけではない。無駄、無意味は実はそうではないこともあることを思い至らなくてはなるまい。既定の仕事に関しては人工知能の発達により自動化されていくはずだ。ならば、これからは想像力のほうに注力した方がいい。
大切なのは想像力だと思う。その意味で文学や芸術といった領域は復権すべきではないか。作り話ができるのが人間の特権ならばそれを使うことが必要なのではないか。
高名な科学者の話を伺う機会を得た。後世まで称えられるべき発見をした方である。その方のお話は身近なところから疑問点を見つけ、それを追究することの重要性を説くものだった。大変参考になった。
詳細な話はいろいろあったが、専門的なことになると分からない。ただ、その大学者が論語などの古典を引いて学問とは楽しむものであり、そこに至らないうちは本物ではないとおっしゃっていたのが印象的だった。綿密な科学の研究をしている人は、逆に人間的な感性というものを身につけるらしい。学びの基本を思い出すきっかけを与えていただいた。
宿題を出し、試験を課し、点数の悪いものを注意する。そういう教育の仕方は一般的だ。試験に合格しなければ意味がないとでもいうような教育の仕方を私自身もいつの間にか毎日の仕事としてしまっている。でも、思えば私が学生だった頃、何かの役に立つこと目指して学習していただろうか。褒められたり、賞金が出るから学問をしていたのではない。単純に学ぶことが面白く、知ることで新しい世界が見えるような感覚になることが楽しかったのではないか。そういう大切な感動というものを最近は失っている気がする。
ならば、学ぶことの楽しさをどのように伝えればいいだろう。今はそれを考えるべきだ。
同じものでも色が異なるだけで気分が変わることがある。図案や造形が加わればもっと効果が大きい。私は結構見た目で左右されている。
ならば身の回りにあるものにデザインを施してみよう。といっても画才はないので既成のものを貼り付けるだけである。シールもいいが色紙を貼るだけでも変わる。毎日使っているノートに千代紙を貼れば親しみが湧いて手に取る回数が増える。それだけで効率が上がるとは言えないが何かに変化が起きることは確かだ。
散財しなくてもデザインの魔法はかけられそうだ。いろいろ試してみたい。
美術館の大半は財団の運営によるものだ。財を成した経営者が社会還元という名目で美術品を買い、それを美術館という形で一般に開放する。それはそれでありがたい。もし芸術が一部の権力者や財産家に独占されていたとしたならば、世の中は面白くないものになるだろう。
財産の使い道はいろいろあるが社会還元という視点は欠かせないと思う。私には分けるべき財はないので、せめてささやかなボランティア活動でもしてみようと思う。もう少しで退職の時が来るだろうが、大切なのはその後だ。世の中のために何ができるのかを考えてみたい。
もし私に財産があるとしたら、そういう思いになれることくらいだろう。
答えがすぐに出ない問題に対して向き合う余裕は大切である。最近は何でも即決即答が良いことのようにいうが、その類のものは実はどうでもいいことなのかもしれない。
定説のない大問題や、根本的原理に関わる問題はすぐに解決できるとは限らない。できたと思っても別の可能性が立ち上がることもある。時間をかけてしかも不断の関心を持ち続けることでようやく端緒にたどり着く。そんな問題もある。
私がかつて目指していたのはそういう問題だったはずだ。立ち位置を見直してみたい。
遺伝子の解析により沖縄で発見されていた港川人は日本人の先祖ではないという結果が出たという。先日メディアが紹介していた。
港川人は新人としてはかなり古い時代の地層から発見され、縄文や弥生の時代の列島人の祖先と考えられていたが、DNAの性質からどうも違うようだ。人類のグレートジャーニーの中で先に列島にたどり着いたものの、あとから来たものに住人の地位を譲ったことになる。それが自滅か、平和的な移行か、あるいは暴力のはてなのかは分からない。遺伝子情報が物語ることが正しいならば出会いすらなかったのかもしれない。
考古学的な時代について考えるとき、いつも思うのは現在のあり方は偶然によるものだという当たり前の事実だ。私がこのような姿形をして特定の生活文化を持っているのも偶然の積み重ねの果てのことに過ぎない。だからこそかけがえがないのであり、他との優劣を論じるものでもない。
骨格しか残らない港川人が先祖ではないとしても、更にその前の時点では繋がっていたという。この事実も時々思い出したい。
若い頃は酒を飲むと調子が出た。本当は違うのかもしれないがそう考えることができた。それに比べて今は明らかに飲むだけで調子が落ちる。特に寝酒はだめだ。
飲酒には様々な苦い思い出があるが、それよりもいい思い出のほうが数十倍多い。だから、つい習慣的に飲んでしまうものだ。最近、外食ができないせいもあり、家で缶チューハイのようなものを飲む機会が増えた。飲むときは楽しいが翌朝かなり調子が悪い。おそらく体力的に酒を受け付けなくなっているのだろう。
習慣を変えることは難しい。悪いとわかっていても続けてしまう。だから、自戒をしたことを他人に話して自分を追い込むしかないことになる。このブログの読者の皆さんは私が今日誓うことの証人になっていただきたい。酒は週1回までにする。いやもとい。2回までにする。週2回の飲酒を超えないということをとりあえず宣言する。