西日本の大雨はまだ続くようで心配だ。この時期の天気ではない。
降り続く雨量が記録的なものになりつつある。一部地域では年間降水量の半分が1週間て降ったという。異常という域を超えている。
天災は避けられない。ただ、被害を軽減する努力は必要だ。また、困ったときは助け合う。それがこの国に住む者のさだめだ。
日々の思いを言葉にして
タグ: 自己啓発
西日本の大雨はまだ続くようで心配だ。この時期の天気ではない。
降り続く雨量が記録的なものになりつつある。一部地域では年間降水量の半分が1週間て降ったという。異常という域を超えている。
天災は避けられない。ただ、被害を軽減する努力は必要だ。また、困ったときは助け合う。それがこの国に住む者のさだめだ。
京都をはじめいつくかの地方で送り火の行事が行われる日である。この状況だから実施は難しいだろう。ただ、行事の意味は考えておきたい。
盆行事の中核は先祖の霊魂を招き、時間を共にすることであるという。遠来の祖霊をもてなした上で今度はまた送り返す。それが日本人の考えの基底にあるのかもしれない。
そう言えば東京オリンピックの開会式や閉会式もこの考えに沿って考えると分かりやすくなる。死者への鎮魂というモチーフが何度かあった。なにしろ盆踊りまであったのだから。
祖霊を祀ることは現在の生活の反省でもある。私自身この盆に何もできていないことを反省している。それが何かの歪みをもたらしているのではないかと。
梅雨末期の天候にいきなり戻り、気温も低下している。決して低くはないのだが、これまでの異常な高温と比較すると寒冷にさえ感じる。私たちの体感はあくまでも相対的なのだ。
これは人間の宿命なのだろう。何かと比較することでしか表現できないのだ。基準をどこに置くかで見え方はまったく変わる。自分が目にする風景が必ずしも万人に共有されている訳ではない。
天気の話は分かりやすいが、世の中の多くのことはもっと複雑だ。相対的に物事を考えるのは体感温度と似ている。恵まれている人が少し不自由になると、不幸を感じる一方で、努力してようやく勝ち取った何かを幸せに思うこともある。それが些細なことであっても。
今を基準にして未来を考えること自体は悪いことではない。ただ、ときには生活の地平から離れて冷静に自分を見つめる必要もありそうだ。
私たちはスポーツをしたり、見たりするときに不思議な気持ちになっている。それは、自分が置かれている現実のかなりの要素を無視して直前の現実にのみ集中できているということかもしれない。
草野球でもなんでもいい、バットを持ったときはただ打つことだけに集中する。そしてヒットを打てば単純に喜び、掠りもしなかったときは悔しがったり、相手の投球の凄さに感心する。そういう素直な反応はスポーツという枠組みの中においては素直に行える。
それが社会生活ではどうだろう。様々利害関係の中で、自分の行動が如何に評価されるかということをいろいろな方向から考えてしまう。様々な言い訳と、その後の対策について考える。失敗が許されず、失敗した人に手を差し伸べることもしない。それが現実社会だ。
オリンピックのような高度な競技レベルでなくても、私たちはもっとスポーツをするような気持ちを持つべきなのかもしれない。勝つこともあれば負けることもある。負けてもまだ次がある。そういう考え方ができれば救われることがいくつもあるのかもしれない。
相手に敬意を払うということは自尊心がなければなかなかできないことなのだろう。相手を罵倒したり、自分の優位ばかりを主張する人が増えているような気がするが、どうもその背後には自分の存在に対する自信のなさや他と比較されることへの恐れがあるように感じられる。
いわゆるヘイト的行為を繰り返す人に共通するのは自尊心のなさだ。何らかの集団に帰属していることをみずから確信している。つまり、自分は一人ではない、もしくは自分と同じような考えを持つ人が多数いて当たり前だと考えているようだ。
敬意を持てというがそれはまずは自分の今の位置を顧みることから始めなくてはならない。自分の置かれている環境が分かれば、他者を無根拠に軽蔑することはできないだろう。
インターネットでの誹謗中傷の事例を見るたびに、人間はまだ情報社会に対応できていないことを痛感する。Society3.9くらいの存在なのだ。
人類は情報という目に見えないものに振り回されており、いまだ使う方にまわっていない。使われている。メディアの影響力について理解していないし、理解していない存在が他人を傷つけているという事実も判断できない。隣りにいる人に接するようにメディアの先のひとに接し、リアルとバーチャルの区別ができない。
語弊がないようにしたいが、かくいう私も同じだ。先の例えで言えば私は情報社会に全く適応できていない。3の前半にいる。ただ人間はいずれはこの状況に対応していくのだろう。何を言われてもされてもそれが本心からなのか、それとも感情に任せた戯言なのかを瞬時に見分ける能力を獲得するのだろう。
あるいはその能力を獲得しないという進化を選ぶのかもしれない。つまり、人を信じないという方向だ。これは困る。私たちの身体的な進化はかなり限界に来ているのかもしれない。大脳をこれだけ発達させた人類に残された可能性は、情報を理解する能力を向上させることだろう。
ITがどんなに発達したとしても、それが道具であることに変わりはない。そのことを忘れると道具の道具にされてしまう。
私たちの知っている大工道具や文房具と比べると、電子化された道具はかなり容態が異なる。人工知能のような道具になるともはや人格さえ感じる。カズオ・イシグロの『クララとお日様』のラストシーンの決まり悪さはもう道具が道具と見えないことによるものだ。
でも、もう一度考える必要がありる。私たちは道具を使っているのであって、道具に使われてはならない。当たり前なことなのだがいつの間にか忘れられてしまっている。
道具を使いこなすのは身体だけではない。それを使う精神も健全でなければならないのだ。
野球観戦に行くと独り言を言うおやじさんが必ずいる。興奮すると独り言のボリュームを忘れてしまうようで周囲の人も巻き込むことになる。何でここでカーブを投げるんだ。俺なら絶対ストレートなのに。その声のもとをみるとスポーツには無縁の姿がある。苦笑いが周りに起きる。
他人事のように書いたが、当事者になったこともあるはずだ。興奮すると記憶は曖昧になるし、その場で消えてゆく音声はもうもとには戻らない。
ところがいまは少し厄介だ。同じような独り言をソーシャルメディアに書き込む輩がいる。しかも自分の顔を晒すことなく言い続けている。書かれたものは時空を超えて残り続ける。しかも出来心なのか誠心の叫びなのかあとから区別は難しい。本人は書いたあとにいくぶんのカタルシスを得られるかもしれないが、言われた方は永久のダメージを受ける可能性がある。
ソーシャルメディアへの書き込みが実は書き手の遡及可能であることを技術者は打ち明けた方がいい。ネットというメディアが手続きを踏んでメッセージを送っている以上、どこからどこに送信されているのかは分かるはずなのだ。恐ろしいことだがすべては記録されてしまう。近年のコンピュータの発達を考えると、いままでは不可能と考えられていたことができてしまっているというしかない。
たわごとを言うならば周囲に気をつけるべきだ。ましてネットに書くべきではない。あなたは過去にこのような発言をしていますと秒単位のログとともに指摘されることになる。
もちろんこのブログも同じことだ。だから、少なくともここ数年は直接他人に言えないことは書かないようにしている。
光を表現することは実は難しい。光そのものは色はないし、物質としての実感もわかない。だから、光そのものは描けず、光によって投影された物体を感知するだけだ。反射する光の種類によって色彩が現れ、形として見える。光とものとの織りなすライブが私たちの世界だという。
ブラスを表現するにはマイナスを取り上げればいい。それも伝統的な手法だ。闇の中に差す一条の光は分かりやすい。ないところにあるものは感じられる。
光を表現することに私はもっと関心を持ちたい。比喩的な意味も含めて光を表現することを最近諦めている気がする。光は当たり前ではなく、特別なものでもない。ただ、その正体に関心を持つことはこれからもっと大切になりそうだ。
目の前にあるものを表現するのはかなり難しい。非定型だし、常に変化をしていてとらえどころがない。どこかに価値の物差しをおいて、そこに引っかかるものだけを描くしかない。たいていの場合それに絶望し、表現すること自体をあきらめてしまう。
芸術家と呼ばれる人はこの点についてストイックであり楽天家でもある。自分のアンテナで捉えたものを表現することに躊躇しない。だから、多くの場合難解であり、その中のいくつかは多くの人の心を捉える。おそらく芸術作品というのものはそういうものなのだろう。
私が持っている貧弱な概念と言葉でいうならば、俳句的な表現で世界を描くことを目指していくべきだと考えている。俳句の伝えられる情報量は少なく、自ら表現の方向性を閉じてしまっている部分がある。季語の扱いなどはその典型だ。実に窮屈であり、扱いにくい。これは人間の思考の仕方と同じだともいえる。限られたメモリの中で、かたよって狭い視野に、ゆがんだレンズを使って世界を見ている。それが人間の生理的な問題であり、歴史であり文化であり、様々な要因があることはなんとなくわかる。
それを前提にしながらあきらめずに表現するしかないのだろう。目に見えること、感じられることを愚直に表現しつづけられること。それが芸術につながると考える。