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翻訳されやすく

 長く続けているといいこともある。このブログは私の日々の雑感を書き連ねているので、そんなに役に立つ情報はない。あくまで一人よがりの考えが並んでいる。それなのに時折、海外からのアクセスがあり、リアクションをいただけることもある。うれしいことだ。

 その方のサイトを訪問すると当然ながらその国の言葉で書かれている。英語ならなんとか読めるが、ロシア語やイタリア語、スペイン語になるとお手上げである。そこで機械翻訳を使うことになる。

 ラップトップのパソコンでブログを読むと、翻訳の提案が飛び出すので、それに従うと大体の意味は分かる。明らかにおかしい日本語は推測で解釈する。細かいニュアンスは読み取れない。これを割り切ればスペインの教育関係者のブログも読める。

 自分の日本語が機械翻訳でどのように訳されているのか心配になってきた。私の文章は多分に生硬、不明瞭なところがある。故意に曖昧な言い方をすることもある。これを訳せるのだろうか。

 そこで考えた。ときにはやさしい日本語を使い、極力機械翻訳でも誤訳されない文章を書くべきではないかと。今日の文章などはそれに当てはまるまい。本当は英語、イタリア語などで書ければいいにこしたことはないが、せめて分かりやすく書くことにしようかと思う。そういう文を書くときは断りを入れることにしよう。

 その前に誤入力、誤変換をなくさなくてはなるまい。老眼にはきつい作業であるが。

離れる

 時々は少し離れたところに行ってみることが大事なのかもしれない。日常の枠組みの中にどっぷりとつかっていると、世界はどんどん狭くなり窮屈に思えてしまう。それは錯覚なのだろう。

 現実世界は窮屈でもなければ閑散としてもいない。ちょっと離れてみればそれが分かるかもしれないのだ。私たちはそのことを思い出す必要がある。当たり前だがすぐに忘れてしまう。

 離れるために何をすればいいのかを考えよう。ただ、戻ってくることも忘れてはなるまい。逃げるのではなく離れるのだ、

殿戦

 ものごとの最後を完璧に終わらせるのは意外と難しい。どこかに失敗はつきものだ。殿(しんがり)は何かと傷が多い。

 私はそろそろ次の人生を模索したいと考えている。引退ではなく発展だとはどこかで聞いたフレーズだが、私もそうでありたい。まずは次なる収入の口を探すことが先決だが、同時に新生活への最適化を目指す必要もある。

 とりあえずは身体が動く限りは今の経験が活かせる職を探そう。コネクションも大切だが、自己開拓もしたい。そしてできれば起業が理想だ。そうはうまくいかないのは分かっているので、雇われの身となることに躊躇はない。

 殿の将としてはまずは名誉を守ること、そして次に生き残ることに全力を尽くすことだろう。何ごとにも呑気な私であるが、そろそろ大切な時期に入る。スリルを楽しむことにしよう。

あえて悪条件に

 物事が停滞し閉塞感が横溢する中にあっては一歩踏み出す勇気が必要になる。私自身が非常に憶病であり、いつもと違ったことをすることを避ける傾向にあるので、この方面については人に誇れるものがない。ただ、いつまでも同じ場所にとどまることはできない。ならば一歩踏み出すきっかけは何だろう。それが分かれば新しいことに挑戦できるかもしれない。

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 勇気のきっかけとして、差し迫った危機が契機になるであろうことは誰にでも想像できる。死活問題となれば動かざるを得ない。ただ、そういう状況はできれば避けたい。失敗すれば死というのは穏やかではない。また、そういう状況で変化したとしてもおそらく幸福感は得られないだろう。せいぜい生き延びて安堵するくらいしかない。

 ならば、それに準ずることを意図的にすることが必要だろう。あえて安住の領域から踏み出すことで小さな危機感を創出するということだ。例えばルーティンの中から何かの要素をあえて減らしてしまうことがある。それをやれば確実に成功率は上がるが、あえてやらず代替のことを考えなければらない状況を作り出す。例えば、のどが乾いたらすぐに自販機で買うのではなく、それがなくても渇きを満たせる方法はないか。スマホで調べなくても間違わずに目的地にたどり着く方法はあるのか。少ない予算で何かを作り出す方法はないかといったことである。

 こういう経験の繰り返しをしているうちに、新しいことを考える下地が出来上がっていくように感じる。物事が便利になりすぎると、それに依存しすぎて新しことに踏み出す勇気が失われる。条件がそろわなくてもやってやろうという気概が今の私には欠けつつある。そしてそれは私だけではないようだ。

人柄

 人柄というのは説明不可能なものかも知れない。理屈ではなく、オーラのようなものが訴えかけてくるのだ。

 福祉施設を見学して説明を受けた。いくつかの施設を回ったが、その一つのリーダーは素晴らしい人だった。何が違うのかと考えたがよくわからない。仕事の中身をよく伝えていただけたのがよかったのかもしれない。仕事を心から誇りを持って行っているのだろう。それが伝わってきた。

 自分もまた人からどのように見られているのか気になることがある。一朝一夕で変えられるものではないだろう。これまでの生き方が形になるはずだ。恐ろしいが、己のあり方にはせめて自分だけは評価しておこう。

読み聞かせ

 読み聞かせというと幼い子供に本を読んで聞かせることと考える。しかし、この方法は実は中高生や大人にも必要なのかもしれない。

 圧倒的な読書量がいわゆる知識人の教養を支えていた時代があった。ところが今はあまり本を読んでいなくても要領の良さで試験に受かってしまい、エリートになっているという人物によく出会う。国語の試験のような枠組みが決められた読書はできるのだが、自由に作品の世界を想像したり、作者のメッセージをくみ取ったりするのは苦手である。読書量そのものが減っているから、基本的な読解力が落ちているのかもしれない、

 そこで他人に本を読んでもらい、それを聴きながら作品世界を味わうという方法がある。読み聞かせられたテキストを頭の中で舞台を作り、心の中で映像化するのである。これは読書量が少ない人には有効な方法である。言葉によって形のないものを見えるようにするという試みは、想像する力をはぐくみ、情感豊かな人生を歩むための方法として有効だ。私も朗読の動画を見たり、音声のサービスを時々聞いている。

 読み聞かせなくては本が読めなくなった現代人の知識や感性の不足を補うものと言える。





















なんでも写すな

 学生の頃、指導教授の講義を徹底的にノートしたことがある。それこそ速記のようだった。一部に記号を使い、時間短縮した。細かい言い回しや余談までもれなく書いた。こういう方法は今の学生諸君には勧めない。

 ノートを写すのに熱中しすぎるとかえって大切なことを聞き逃すことになる。私が速記方式にしたのは先生の学説というより、お人柄、人間性、さらにはそこから滲み出る表現方法に心酔していたからであり、必要な情報を受容したいのなら、こういうノートは取るべきではない。どうしても記録したいのならボイスレコーダなりを潜ませればいい。きっと再生することは稀だろうが。

 おすすめするのは要点のみ箇条書きでメモし、その後に自分の感想や疑問点を書くことである。人の話を聞きながら、自分の考えを書くということになる。質疑応答の時間があればその場で質問し疑問を解消できる可能性がある。なくても授業や講演のあと、調査するきっかけができる。

 なんでも写すな。自分の考えを書けというのが最近の私のノートの取り方だ。

運動神経を補うには

 若い同僚と作業をしているとどうしても差がついてしまう。脳の働きにも運動神経は影響し、それが形になって現れるのだろう。ほんの少しの違いでも作業の量が増えれば、厳然たる差となる。これを補うにはどうすればいいだろう。

 まず、大前提として作業の速度は勝負ではない。数分の差に拘る仕事なら参加しない方が皆のためだ。大抵の仕事はそこまで時間には拘らない。大切なのは正確性だ。不適当なものをいかに減らすのかに集中すべきだろう。

 遅い分を何で補うかといえば、経験によるメタ認知を重視することだろう。場面ごとに過去の事例を思い浮かべながら、経験群から外れるものに注意していくという方法だ。

 逆に表現方法は違っても本質をついているものを見逃さないことも、単純作業能力優先組に勝つ方法だ。せっかくの逸材を逃さないのは経験者の役目だ。

 加齢とともに同僚から配慮されることが増えた。親切には心から感謝する。一方でどうしたら彼らに先んじることができるのかを常に考えている。往生際は悪いのだ。

不合格

 受験シーズンである。少子化が進んでいるとはいえ、人気のある学校への進学はやはり難しい。試験があれば当然不合格もある。

 私も不合格の経験は何度もある。苦い思い出だ。ただその中には合格しなくてよかったのではないかと思うこともある。万一合格してしまっていたら、いまとはまったく異なる人生を送っているはずだ。でもそれがかならずしもいいものとは思えないのだ。

 教育関係者としてはっきり言えるのは、今の入試の方法は理想とは程遠いということだ。短時間に説得力を伴った選抜をするならば今の方法は合理的だ。しかし、これは手際よさや無批判に物事を受け入れる気質には向くがそれ以外には不利なやり方だ。本人の能力を測りきれてはいない。

 不合格になった皆さんには声を大にして言いたい。試験はあくまで能力の一部を測るものであり、それかあなたの本質とは言えない。自分の良さを理解し得ない学校や組織はあなたから見切りをつけ、もつとあなたを評価してくれる場所を見つけるべきだと。

 これは私自身もいつも考えていることだ。自分は選ばれるだけではなく、自分が選ぶべきだと。

目覚め

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 目が覚めた瞬間、最近はスマートフォンの画面を見る毎日である。というのも、私はスマホにアラームをセットして起きるようにしているからだ。ささやかなピアノの音と、バイブレーションを同時に発動して起きるようにしている。それを止めるために画像を見る。よく考えてみればこの時点から私はスマホに侵されている。

 その画面には大体次のような文字が出る。おはようございます。今日は2月1日です。天気は晴れ、東京の最高気温は13℃で最低気温は-2℃。といった日付と気象情報だ。これを見ながら、私は時間軸と自分が置かれた位置や環境を把握する。

 おそらく同時にいろいろなことを思い出す。私は何者であるか、どのような人間関係にあるか、どんな気質でどんな性格なのかなど自分についての様々を瞬時に思い出すのだ。これは考えてみればかなり大変なことである。長期記憶を失った人が、毎朝自分の生きてきた生い立ちを録画したビデオを見て、自己を再認識するという映画を見たことがある。極論すればそういうことなのだろう。幸い私たちはどこかに長期記憶を蓄える仕組みを脳に確保していて、寝ても自分が誰だか忘れないのだと思う。

 ならば、長期記憶をおろそかににすれば、自己認識さえも危うくなり、自分という存在が保てなくなるということになる。記憶を機械に任せるのはその意味で危険だ。目覚めたとき自分を取り戻すためにも、いろいろなことを覚えることをあきらめないでいようと考えている。