タグ: 自己啓発

忍耐力は若者に必要なスキル

 最近の若者は話をよく聞かないと言って嘆く人がいる。まず自分の話が面白くないことを反省すべきではないか。根本的な思い違いをしている年配者に反省を促したい。

 最近の若者を取り巻く環境を考えると、巧みな話術や話題の豊富さに溢れている。そこにつまらない話をして聞く態度がなっていないと嘆くのはいかがだろう。まず話し手としての自分の能力が衰えていることを省みるべきだ。

 若者をコンテンツづけにしておきながら、自分の話を聞かないということは大きな自己矛盾だ。相手がグレードアップした分、自分もそれ以上を目指さなくてはならない。そのことを忘れているいい大人はやがてより悲しい結末を見ることになるだろう。

宿題のことなど

 夏休みの宿題には色々な思い出があるが、残念ながら細かいことは忘れてしまった。計画的にやればいいものを結局8月の終わりにまとめてやることになって焦り、家族にも叱られたことしか覚えていない。

 宿題は実は何でもいいのだが、形にして残すことが大切だと考える。できれば自ら課題を見つけ、それに対して何らかの考察をし、一定の結論を得ることが夏の宿題にとっては大切だと思う。私は一時期自分が調べたことをもとに自説をまとめることを仕事にしていたので、夏はそれを行う大切な時期だった。最近はそれをすっかり忘れて与えられた仕事をこなすことばかりしている。そこで今夏は自分に宿題を課すことにした。

 まずは自分と同じような仕事をしている人に向けて自分の経験をもとにした助言をまとめてみようと考えている。役に立つかどうかは今考えずにおこう。それが今の自分を見直すことにもつながるかもしれない。それをかならず、文章にまとめることを宿題にしたい。宿題だから期限があり、完成度が低くても提出しなくてはならない。それを8月末日としてみよう。

 宿題をやらなくてはならないと思うと気が重いが、同時に若い頃の焦燥や達成感が戻ってくると思えば楽しみな感じもする。

何があるかわからない

 予測がつかないのは今に始まったことではない。未来予想のほとんどは外れてきたし、これからも外れ続ける。コンピューターの精度が上がって天気予報は外れにくくなったが全く外れないわけではない。むしろ期待値が高まった分だけ、外れた印象は大きくなっている。

 自然現象でさえそうなのだから、人間が作り出したものの行く末など分かるはずがない。自分のことなら分かるだろうなどと考えても無駄だ。自分のことがこの世の中で最もわからないことだと言える。

 何があるかわからないのなら、焦らずにその場で状況に対応するしかあるまい。その方が実はもっとも効率的だ。最低限の備えは必要だが、それ以上を持っていても結局使えない。必要なのはものではなく、冷静に対処できる判断力であり、スキルである。いらないものを捨てて、必要なものを大切にすることをもう一度考え直したい。

 私の世代は物質的欲望に踊らされすぎた。本当に必要ではないものを無理に買わされてきた。本当は価値などないものに魅力を感じるように誘導されてきたのである。それは本当にいるのか、なくてもいいのではないか。逆に他人には魅力がないものでも大切な物はあるのではないか。再評価をすることで次の段階が見えてくる気がする。

 何があるかわからないのだから、何をするかはせめて自分で決めるべきだ。

脳の仕組みを活かす

 よく目にするのが脳科学による学習の方法の見直しという論調である。この方面には全くの門外漢なので言われたことをそうかも知れないと信じるしかない。その意味で科学と言いながら私のレベルではオカルトと変わらない。

 最近気に入っているのが独り言による自己暗示である。ネガティブな発言が続くと心が不調になり、結果としていいパフォーマンスができない。これを防ぐためにわざとポジティブな発言をするルーティンを作れというのだ。何かで読んだが、「だけど」の白魔法はいいらしい。弱音を吐いてしまったとき、すぐに「だけど」をつけて内容を逆転する。例えば「とても疲れた」と言ってしまったら、すぐに「だけど、いい経験ができた」などと内容を好転させる言葉をつけるといいのだという。実際にはいいことがなくてもこれを言うことで脳が騙されて良い行動ができるようになるというのだ。

 苦しいときこそ笑顔でいたほうがいいとはよく聞く話だが、これを一歩すすめて言葉で自分を騙すというやり方だ。いいとことを聞いたと思う反面、私たちは何とも危うい地盤の上に立っているのだと再認識している。何事も気持ち次第というが、論理とともに感情が思考や行動をいかに影響を与えるものであるかを痛感する。

 ブログ記事もときにこの手法を取っていることがある。本当はそれほど大したことでもないのに大仰に書きたてるのは自分を励まそうとしているもがきであると寛大な目でご覧いただきたい。

ふんばりどころ

 加齢という現実に直面している。一番困っているのは老眼だ。このブログは通勤電車の中で立ってスマホで入力することが多い。変換する際、細かい字が読めず、誤変換してしまうことが増えている。濁点と半濁点、句点と読点の区別は特に難しい。

 老眼というのは結局、筋力の衰えなのだという。毛様体筋が弱くなるからレンズの調節ができなくなるというのだ。この筋肉は40代頃から自覚的に衰退を感じ始め50代で多くの人はかなり弱まってしまうらしい。残念だが全ての人に共通する。

 ただ、少しでも退化の速度を遅らせるためには、その筋肉を鍛えるしかないという。いろいろあるが、要するに近くを見るのになるべく自分の目を使うことが大事らしい。老眼鏡を使わない時間を増やさなくてはならないということだ。

 そこで、私はこのブログは眼鏡なしで書き続けることとする。だから、いままで通りミスタッチが続出するだろう。こっそりあとから書き換えるのもこれまで通りだ。

不調かな

 いろいろな理由で今日は何をやってもうまくいきそうもないと思うことがある。私は最近、それを感じることが多い。その原因を自分の中に探すのはどうも賢明ではないようだ。

 気持ちの揺れは生き物として当たり前であり、すべては寄せては返す波のごとしという。調子が悪いと感じるのは過去に良いことがあったときの印象を基準にしているだけのことであって、実はそれほど悪いわけでもない。

 天候とか周囲の環境とかも調子の良し悪しの判断に影響する。生き物である以上当然だ。また他人との比較で感じることもある。自分だけなぜできないと思うと不調と感じる。ただ、この自分だけというのは大抵過剰反応で自分ができないことは多くの人にとってもできないことだ。

 調子がいいというのも悪いというのもこのようなバイアスのもとに感じていることを冷静に思い直す必要がある。

インプット

 ある時期は情報を集めるばかりでものが書けない時期があった。本もかなりのスピードで読んだ。そのうちのどれだけ身についたのかは別の話だがとにかく入力過多になった時期がある。

 ところが最近はアウトプットばかりで入力ができていない。ここで考え方を変えていきたい。少しデタラメを書くのはやめよう。無理に絞り出さずにまずは先人の教えに従おう。知らない本をあえて読んでみようと思う。中断している読書ブログを再開することにする。

 歳を取ると本を読むのも大変だ。小さな字は見えないし、気力が尽きやすい。若い人には言いたい。後で読めばいいなどと思っていたら永遠に読めない。今日少しでも読むのがいい。

調子の良し悪し

 少し時間がすぎるとなぜこんなことにこだわっていたのか分からないと思う経験は何度もしている。細かいことにこだわっていた自分が不可解な存在の様に思えてならないこともある。なぜなのだろう。

 私たちはものを考える際に身近な環境の影響を受けやすい。目につくものを基準にして物事を考えていく。だから、そのときにどのような環境に置かれているかが、判断基準に大きな影響を及ぼすことになる。

 その環境と呼んだものは刻々と変わるもので、常に揺れ動いている。だから、それを基準にした価値判断もまた非常に不安定なものと言える。その時は正しいと思っても、実は見方を変えればまったく別物に映るということもしばしばある。最初に述べたことは、このように価値基準が変わった後に過去を見返したときに起こる。

 このようなことを書きながらも、私は日常を超越することなどできず、その都度悩み、その都度苛つき、その都度落ち込んでいる。とても残念なことだが、この繰り返しからは抜け出せそうもない。ただ、少々馬齢を重ねたお陰で、わずかながらメタ認知ができるようになっている。

 このところ不調が続いており、いろいろな行き詰まりを感じている。それも本当は錯覚かもしれないと考え直すことにしている。自分が考える調子などというものほど怪しい感覚はない。だめだと思うときも、絶好調と思うときもどこかで考え直す必要がある。

漢字練習

日本語にとって漢字は不可欠だ。恐らく漢字がなければ貧弱なコミュニケーションしかできない。漢字はもともと古代中国の文字だから、日本語は外国語に支えられていることになる。

字を書こう

これは別に日本語だけの現象ではない。ヨーロッパな言語の多くも、自国語以外が発祥の語彙が多数含まれ、文法までも他言語から取り入れている。日本語の場合はそれが文字という目に見えるものだから分かりやすいというだけだ。ちなみにひらがなもカタカナも漢字の省略から生まれている。

さて、漢字を書けることは日本語話者にとっては重要な課題だが、この能力が少しずつ低下している。その原因の一つが、デジタル化によって漢字を手書きする機会が減ったということがある。複雑な字形の漢字は、つねに形を確認しておかなくては忘れてしまう。そして確認の方法が書いてみることにあるのだ、

例えばいまこのブログはiPhoneでフリック入力している。仮名で入力すると漢字の候補が挙がる。その中から相応しいものを選ぶのだが、この際に漢字の字形はほとんど瞬時に見るばかりで、詳しく確認していない。万一、少し違う文字をそれとなく紛れ込ませていたならば、それを選んでしまう可能性は十分にある。

 こうした生活を繰り返していると漢字が書けなくなっていく。書けないと漢字を使う機会は減るから、次は読めなくなることに繋がる。

私自身の問題として漢字を書く機会を確保しなくてはならないと考えている。それには積極的に手書きの文章を残すことがいい。その中で漢字を極力使うことにしよう。人に言う前に、まず自分の言語世界を守らなくてはならない。

ほめられたい

 昔は人に褒められたいと思う気持ちが強かった。いまはなぜか褒められると残念な気持ちになる。褒められるくらいのことしかできていないのだと考えてしまう。

 かなりひねくれているのは承知の上だが、人と違うことで成功したいという気持ちが高まっている。だから、自分の価値は簡単に分からないものになりたいなどと考え始めるのだ。

 これは独善という言葉の言い換えのようなものかもしれない。ただ、もし許されるならば唯一無二を目指したい。簡単に褒められることはないような。人様に迷惑はかけまい。安易には流れるまい。