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ゲルマニウムラジオ

 中学生のころ「初歩のラジオ」という雑誌を時々買っていわゆる電子工作をした。色々なキットが売っていて、理科系に進む以前の中学生でも始めることができた。

 最初に作ったのがゲルマニウムラジオだ。おそらく多くの人がここから始めている。このラジオは極めて少ない部品を繋げるだけで電源もないのにラジオが受信できる。イヤフォンから聞こえるたよりない音はそれでも十分に感動できた。

 私にとって幸運だったのは父がそこそここういうことに興味があったようで、工具箱の中にはんだ付けをするための道具が揃っていたことだ。回路の意味は分からなかったが、雑誌の通りに部品を揃えてはんだ付けすれば音がなった。それなりの達成感が生まれ、他にもいくつか電子工作をした。そのまま続けていればエンジニアへの道もあったかもしれない。私にはそれはなかった。他にもやりたいことが山ほどあったのだ。

 理科系は理論の学問なのに、工学は実践を伴い、個人的な努力が反映される。私にとっては興味の糸口はは十分にあった。でも、それよりももっと興味が惹かれたものがあったために、それ以上の深みにはたどり着けなかったのだ。人生はほんの少しの差で大きく変わる。

 ゲルマニウムラジオで受信できたときの感動を今一度思い出したい。驚愕と歓喜と幾多の好奇心の虜となったあの日のことを。

進化の不思議

 生物学者のエッセイを読んでいると実に不思議な気持ちになる。生物はいつも環境に適応するために自分の身体を変化させ続けているというのだ。世代という単位では気づかないことも多いが、そのスケールを少し拡げるとすぐにその変化に気づく。寿命が極めて短い種の場合はそれがかなり早く起きる。

 人間も同じだ。今の学説ではホモサピエンスはアフリカ大陸にいた共通の祖先から世界中に拡散したという。地球上の各地に拡散するグレート•ジャーニーの途中で各地の気候や地理的な要因に適応した人類は、その形を次々に変えていったことになる。東アジア人の顔が凹凸に乏しいのは、寒冷な気候を過ごすうちに体表面の面積み減らして体温の発散を減らすためだという。

 実は進化の要因は複数の要素の複合の結果であり、単純な説明ができない。それを遺伝子とか進化論とかで何とか理由づけしているのだ。その意味で後付けの説明であって未来のことは分からない。

 ただ、私たちの身体そのものも自然の一部で、適応し子孫を残すために今後も形を変え続けるということだけは確かだということだ。今の姿が過去に遡れる訳ではなく、未来もこのままであるはずもない。

いまの笑顔が未来もそうだとは限らない。これは人工知能に作らせた笑顔のイメージです。

法則を見つけたがる本能

 人間らしさの一つに物事の関係性を考え、そこに一定の法則性を求めると言うことがある。普遍的な法則があることを期待してそこに何らかのルールがあると考えるのだ。これは人間の癖というしかない

 本当に自然界にルールがあるのかは分からないが私たちは自分たちの利益のために、何らかのルールを作り、それに従おうとする。法則性を発見すればものごとがスムースにすすみ、失敗がなくなると言うのだ。科学の基本もそういうことにあるはずだ。

 人間の能力で考え出したもっとも可能性の高い考え方が、数学の方法を使って法則という形にまとめられる。科学者の解くそういったものは現代社会を作り上げている根本的な要素だ。絶対的なものでその意味では神に近い。

 ただ、哲学者や一流の科学者はそれを認めた上でさらに俯瞰的立場で語る。現在、絶対的なものと考えられているものも様々な条件下に限定されたものであり、実は違う姿をしているのかもしれないというのだ。その立場では暫定的にいま法則として成立しているものを我々は前提にしているのに過ぎないということになる。

 本当は何があるのか予測もつかないのが真実のあり方かもしれない。素数の分布がいまだに数式で表せないのと同様に、この世の中の大半はそんなに簡単にはまとめられない。でも、仮にまとめてみることでカオスの恐怖を乗り越えてきたのだろう。

経験という財産

 私たちが何かを考えたり、行動したりするとき、その裏にこれまで経験した事柄が必ず裏打ちされている。経験の種類が多ければそれが豊かなものになるし、なければぎこちないものになる。私たちは色々な意味で経験を蓄積するべきなのだ。

 経験がなくても知識は増えていく。見たことがないものでも見たつもりになれるし、いったことがない場所についても語ることは可能だ。それらを組み合わせればかなり現実的なものになるし、他に応用もできる。現代人の知識というものの大半はこうした経験に基づかないか、その補強が弱いものだ。これができるからこそ、未知の領域を探求できる。

 でも、やはり根本的な経験のない知識は危ういと思う。平和について語るとき戦争を経験していない私の世代の考えることはやはりどこか薄っぺらい。死を語るときはもっとそうだ。ただ、戦争は経験してはならないし、死は経験すらできない。でも、他人の死について経験することはできる。その経験の積み重ねで自分の死を考えることができるのだ。その意味でも経験を積むことは不可欠だ。

 なんでも検索すれば答えが出たり、検索すら放棄して生成型AIにプロンプトを投げかければそれなりの答えが得られる時代に、やはり経験は欠かせない。何が本当で何が間違っているのか。正解であっても最適解であるのかを判断するのは自分の経験から得られるものしかない。

 ならば、教育の世界では何を求めるべきなのか。正解を採点するだけではない。それに至る思考の段階で、どれだけ経験が利用されたのかを確認し、足りないときはそれを補強する機会を提供するべきなのではないだろうか。

副操縦士

 マイクロソフトは生成AIを組み合せてIT業界のゲームチェンジャーになろうとしている。WordやExcel、PowerPointなどのソフトウェアに生成AIを組み合わせることで画期的な事務系ソフトウェアを作ろうとしている。しかもその名はCopilotという。

運転手は君だ? 車掌は僕だ?

 副操縦士を意味する言葉を商品名に置いたのは、あくまでも主体は人間であり、AIはその補助役だと言いたいのだろう。ただし機長の座は安泰ではない。副操縦士が優秀すぎるのだ。

 Excelで自動作業をしようとすれば、これまではマクロとかコンピュータ言語の知識が不可欠だった。それが将来的には日本語で指示するだけでプログラミングしてくれることになりそうだ。もうこうなるとソフトウェア自体がブラックボックスだ。箱に入れるだけで見事に求めるものを出してくれる。ただ箱の中身で何が行われているのかは知らない。

 そういう時代がすでに始まっている。便利だが説明できないものに囲まれる環境に覆われつつある。シンギュラリティは近い。

 私たちは機長席を死守すべきなのだろうか。安全で無事故率が限りなく100に近いなら、副操縦士の昇進を祝うべきなのか。

 私としては少なくとも自家用セスナにおいては機長であり続けたいと考えている。その結果墜落死しても構わない。いつまでも飛び続けますがどこに行くのかは教えませんというよりましな気がする。おかしいだろうか。

フレーム

 美しい絵画をみると感動するが、その中には額縁の存在もあることをつい忘れてしまう。額縁は作品を引き立てる大切な役目を果たしている。

 昔の絵画の中には絵の中に縁取りのような模様が描かれているものもある。それは中央の絵画とは付かず離れずの関係にあり、テーマをまさに側面から支えている。宗教画なら天使や悪魔、妖怪などが図案化されている。絵画世界を俯瞰しているかのような存在だ。鑑賞者はさらにその上から見ていることになるから、重層化した世界を見ているような感覚になる。

 普通の絵画でもフレームは創作と現実の境界として機能する。囲まれた世界は例え偽りであっても受容することができる。創作であることを示す目印と言える。

 パーチャルリアリティにしても、拡張現実にしても今のところはコンピューターの画面というフレームに収まっているから目印がある。しかし、恐らく近い将来、画面を飛び出した非現実が現れるだろう。そうなると私たちは自分で目に見えないフレームを作り出さなくてはなるまい。それを忘れると思わぬ悲劇が始まる可能性がある。

高層マンション

 近隣で高層マンションが建設中である。土地の利用という点において高層住宅は効率的であろう。ただ少し心配になる。

 耐震免震の技術は進んでおり、よほどのことがなければ崩壊することはない。その規模の大地震ならば高層建造物でなくても壊滅しているはずだ。思うに電力などのライフラインが途絶する事態になったときにどうするのかということだ。先の大震災でも被災地から離れた地域でもエネルギー確保に深刻な状況が続いた。

 こういうもしもの事態に対して建造物の住民はもちろん、地域の住民も含めてシミュレーションをしておくことが必要だと感じるのだ。

 いかに科学的な裏打ちごあったとしてもそこで暮らすのは人間である。巨大な長屋であることを考えなくてはなるまい。

彗星

 北の空に周期がかなり長い彗星が接近しているという。今日最接近というがあいにく曇り空だ。

 5万年という周期は人間にとってはとてつもなく長い。5万年前にはネアンデルタール人がまだ活動していた。ホモサピエンスはようやくアフリカからの壮大な旅に出た頃だ。

5万年後に今の人類が地球に存在している可能性はどのくらいだろうか。環境破壊か戦争で自滅してしまう可能性がある。あるいは自ら作り出したAIに支配されて無力になった末に絶滅する可能性もある。種として5万年の持続は何もなくても難しい。そんな生き物にとっては長すぎる時間も、天体の運動にとってはほんの一瞬なのかもしれない。

 夜空を眺めると広大な宇宙と人生の小ささを痛感する。彗星はそのきっかけの一つだ。

IT産業の苦境

 アメリカのハイテク産業が不景気の波に飲まれている。アルファベットやマイクロソフトなどが大規模な人員削減を行うというニュースが流れている。私は強い違和感を覚えている。

 ITを牽引している技術者の皆さんは省力化のために新しいシステムを立ち上げ、実現してきた。少ない人数でも経営できるための手段を切り拓いているのだ。しかし、他ならぬその成果のために、自分の職が奪われている。100人で動かせる会社を10人で運営可能にすれば、90人は不要になるのだ。

話を単純化しすぎているが、一面の真実は捉えているはずだ。人を幸せにするための科学技術が人を疎外する。何か理不尽を感じるのだ。

機械に話そう

 AIの発達により、人間の言語に近いコミュニケーションができるシステムが完成しつつある。日常会話ならば機械に話しかけると自然に感じる程度の返事をする。映像やロボットなどと連動させれば、あたかも機械と会話しているかのような気分になれるらしい。

 規則性のあるものや、パターンが決まっている文章作成能力はあるようで、ビジネス定型文章や分析を中心とする文章は得意で、論文も書けるとの報告まである。

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 無料で試せるオープンチャットを試してみた。これはテキストでのチャットの形で行われている。英語版だったので、拙い英語で問いかけてみた。すると長めの答えをしてくる。例えば、AIは人類にとって有益なのかと聞けば、多くの利点があるが、場合によっては人間に危害を与える危険性も含んでいると答える。また日本の文化について知っているかと聞けば、歌舞伎や寿司、漫画とアニメなどがあるなどと答える。検索して答えるのと違うのは、AIが選んできた答えを、話しかけられるような形で得られるということだろう。

 このシステムは従来の検索システムを凌駕するともいわれている。資料がただ提示されるのではなく、AIのアレンジが加わっているからだ。利用する側からすれば便利である。一層、考えなくてもよくなるからだ。

 ただ問題点も大きい。現時点ではAIは意味の世界まで踏み込んではいない。聞かれた質問に対してもっとも可能性の高い回答を多数の検索データの中から抽出しているのに過ぎない。だから、表面的には整っていても根本的な間違いを犯していたり、正解であっても人道的道義的には許されないといった不文律のようなものは反映できないのだ。

 機械に話しかけるというと実に寂しい人間のようだが、これからはそれが当たり前になる。そのうちの脳波を読んで先回りして答えてくれるような技術が生まれるのかもしれない。ただし、意味とか価値観といったものをどのように機械が獲得していくのか。今後に注目したい。