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脅威の価値

 北米大陸を中心にインフルエンザが大流行し多くの死者が発生しているようです。中国発の新型肺炎よりも致死率は高いようですが報道は控えめです。

 アメリカで流行しているインフルエンザはウイルスとしては新しいものではないようで、対策のワクチンも存在するようです。ただ皆保険制度が存在しないアメリカではインフルエンザにかかっても医療機関には行かない人が多いために流行が把握しにくく、対策が後手に回るようなのです。

 アメリカのインフルエンザは非常に脅威ではありますが、さほど報道されず、コロナウイルスばかりが注目されています。これはニュースの価値が実情以上に偏向しているといえます。事実をどのように伝えるのかはジャーナリストの責任でもあります。またそれを読み取る側の能力も試されています。

 雨の日曜となりました。少し乾燥していた空気を潤す恵みの雨と考えています。

 コロナウィルスのニュースが次第に過激化してきています。中国での死者が急速に増加したことに加え、その対策に不安があること。さらには日本でも死者が出てしまったことなどが不安を掻き立てているのです。

この病だけで死に至るのではないことはほぼ明らかになっています。ただ、他の疾病と併発したり、高齢者などの体力低下がある人は注意が必要ということです。

 東京ではすでにマスクが手に入らなくなっていますが、実際に電車に乗るとマスクなしの人もたくさんいます。マスクは予防効果よりも拡散防止の意味があるのだとか。動画サイトには手作りマスクの作り方が公開されています。私もそろそろ作ってみようかと考えています。

 雨はウイルス騒動を少しだけ忘れさせてくれます。その意味でも恵みです。

大麦

 コンビニで買うおにぎりの中にスーパー大麦が入っているものがあります。私はよく食します。

 スーパー大麦はオーストラリアで開発された大麦の品種です。食物繊維が豊富で悪玉コレステロール低減の効果が期待できるそうです。白米に混ぜて使われる。米飯のアクセント的な食材です。

 最近、この時期にありがちなのですが体重増加の傾向にあり、さしたる対策もできていないのでせめて食べるものだけでも考えてみなければなるまいと考えているのです。

弱みなのか

 困った人がいたら手を差し伸べたくなるのは人間の弱みなのか。考えてみるといろいろな答えが見つかります。

 自分の周囲に何らかの問題を抱えている人がいると認識した場合、私たちにはなんとかしてあげたいという気持ちが起きることがあります。多くの場合、その気持ちを実行できず、できなかったことに様々な理由をつけます。ただ惻隠の情が起きること自体に意味があるのではないでしょうか。なぜそのような感情が立ち上がるのか。

 識者の説明でこれは人間の歴史と関係するという言説に触れたことがあります。集団で生き残る選択をした人類にとっては集団の維持が死活問題であり、その記憶がいまも作用するのだとか。証明不可能な意見ですが確かにそういう面もありそうです。

 一方で自己本位で利益を独占しようとする営みを私たちはし続けているのも確かです。歴史で学ぶ社会変化の主要因は富や権力の集中が影響しています。利己的な動機が格差を生み出し、混乱のもとになっています。

 相反する言動を繰り返しながら私たちは生きているのかもしれません。緊急事態では同情心が発動し、平時は利己的になることを考えるに、私たちは集団の生き物という意識を忘れたときに自己中心的になるといえるのかもしれません。これは人の弱みなのか。それとも強さなのか。考えていきたいです。

集中できる場所

 自室では仕事ができないという人の気持ちはよく分かります。生活のための空間という位置づけができてしまうとそれを変えるのは難しいのです。

 仕事をする上で図書館やカフェにわざわざ出かけてやった方が能率が上がるという人がいます。私もそうでうるさくて仕方がないはずのコーヒーショップの方が読書が捗ります。恐らくいまはこれをやるときという割り切りが場所の移動によって自覚できるからでしょう。場所と意志とは連動するのです。

 わざわざ金をかけて他人の空間を借りるよりも、遥かに高い家賃を払っている自宅の方が使用されるべきであることは理屈では分かっているのです。しかし、気分というものは簡単ではありません。

 自分が集中できる場所を探すことが何かを成し遂げるには不可欠であるとつくづく考えているのです。

立春

 今日は立春です。太陽が冬至から春分にいたるちょうど中間に達したという意味らしいのですが、「春立てる日」は日本では古代から注目されており、『古今和歌集』の冒頭歌は年内立春を詠っています。春の気配を感じる時ということで、季節の変化を心待ちにする人々の心理が現れる時期でもあります。

 この春は新型コロナウイルスの発生により大変慌ただしいものになってしまいました。東京では報道されているほど神経質ではなく、一部の量販店ではマスクのまとめ売り商品が在庫切れしたようですが、7~10枚ずつ売るいつもの商品は潤沢にあり、そもそもマスクをしていない人も多数います。日本国内での感染拡大はおそらくこれからであり、おそらくその頃にはこんなに大騒ぎしなくなるはずです。

 それよりも恐れているのは毎年のことながらスギ花粉などの飛散がもたらすアレルギー性鼻炎です。もう何年も患いそれなりの対策もできるようになっているのですがやはり気になるところです。このように春は健康上の問題が発生しやすいのがちょっと残念です。

 でも、梅の花は間もなく咲き始めるでしょう。近くの園芸のお好きな方の庭先には早くも白薔薇がいくつも咲いています。冬に咲く薔薇はありますが、暖冬でないとうまくいかないとか。今年はおそらく記録的な暖冬ということになりそうです。今日からは暦上の春ですが植物はそれとは無関係に気温に反応しているようです。明後日あたりに寒波が戻ってくるそうですが、もう旬が過ぎているだけにあとは変わる季節に身をゆだねるばかりです。

差異

 資本主義の大原則は人々の間に何らかの差異があることだといいます。持てるものの格差が利益を生み出すのがすべての根源にあるそうです。

 格差が無くなりそうになると既得権を持つ人は様々な差を生み出す仕掛けを用意してきます。儲けが続くためには皆が同じものを持っていてはならないのですから。利益を得る人が常に同じであるとき、社会格差が発生します。それが場合によっては社会不安を生み出すきっかけにもなってしまうのです。

 すべての人が同じものを所有し、同等の価値観で生きるという考え方はこの格差をより決定的なものにしてしまいます。実際には多様な生き方があり、求める目標も違うはずなのに社会的同調圧力が巧みにかけられ続けているのです。

 人とは違う生き方、別のゴールを持つこと、それらは現代社会では堅持しにくい目標と言えます。人々を同じ価値観に誘導し、その上で格差を設定するのが現代社会なのでしょう。この頸木から逃れるためには、自分なりの生き方を貫くしかありません。他人からは敗者に見えても自身では幸福だと思えることが大切なのです。

嵐の中で

 発熱はありませんが、咳が止まらす寝不足気味のまま出勤することになりました。昨日よりはましな感じはあります。

 風邪をひいてしまうと思考の糸が何本か切れてしまうような気がします。大切なことが置き去りになっています。動けなくなっているのは身体だけではありません。

 心身が同一の船に乗っていることを改めて感じています。荒れた海の上では冷静な判断が難しいのです。

 いまはこの嵐から脱することに専念する他ありません。

マスクを着けて

 僅かな喉の痛みを覚えてマスクを着けることにしました。インフルエンザなどの予防の意味もありますが、喉の保湿の方が目的です。

 中国で新型の肺炎をもたらすコロナウイルスが発見され、日本にもすでに入っているとの報道があります。いわゆるパンデミックをもたらすような感染力はないとのことです。グローバル時代では水際作戦はほぼ無意味です。最新の情報を手に入れ、対処するしかありません。

 マスクが万能ではないのはよく知られています。気休め程度という人もいます。ただ、少しでも日常生活に穴をあけないように、無駄な抵抗をやってみたいと考えています。

すべて一期一会

 自らの体内組織が刻々と変化している現実を考えるならば、感知した現実もまたその時限りのものということになります。すべてのものが一期一会なのです。

 自分という視点が不動の座標軸の原点であると考えることができれば、かなり単純な数式で世界が捉えられるかもしれません。また日常的にはそのように考えています。時空を目盛において起きた現実を同一の平面に投影しようとします。大体のことはこれで事足りるのです。

 ところが実際は原点自体が常に移動しており、揺れながら対象を見ているのです。手ブレを補正するカメラのように巧みに対象を見続けてもその限度を超えるともはや同じものを見ているともいえなくなる。私たちの見ている世界はこのように変動的なのです。

 変わってしまうことを前提として物事を捉える視点を私たちは常に忘れてはなりません。昨日そうだと確信しても明日は違うかもしれません。そういう心の余裕と、世界観はこれからの現実を生きる上でかなり重要だと感じるのです。