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東京はこれから

 コロナウイルスの影響がなぜ日本で少ないのかというのが話題になっています。潜在的保菌者数は多いのかもしれませんが、死者は少ないのは事実です。学校閉鎖やテレワークの呼び掛けはある程度奏功しているかもしれませんが、どうもそれだけはない。

 東京の街は実は人で溢れています。マスクをする人は多いですがマスクの在庫がすでになく入手困難です。手づくりと思われる柄入りのかえっておしゃれなマスクをする人もいますがそれも限られます。そもそもマスクの防疫効果に期待できないことは多くの国民は知らされており気休め程度です。なぜ人混みの東京で感染爆発は起きないのか。

 握手、ハグなどの身体接触が少ない文化のせいだという人、花粉症に弱い身体性からマスクをつけることに抵抗がないこと、手洗いなどの習慣が子供のころから身についていることなどを指摘する人もいますが、それらも決定的な要因とはいえない。原因は分かりません。

 これから感染爆発が起きる可能性は十分にあります。悲しいことですが犠牲者も出続けるはずです。ただ、東京は簡単に封鎖はできない。おそらくは少しずつ感染してゆき、免疫を集団として持っていくという流れになるのではないでしょうか。

 文化的にも外来の要素をうまく取り込むことに長けた東京ですが、それが身体面にも応用できるのかは未知というしかありません。

何かが見えたら

 何かに見える一瞬を逃さないことが大事なのかもしれません。それは一瞬の出来事のことが多いようです。

 日常の光景の中に時としていつもと違った輝きを見せるものがあります。違和感という言葉で処理されてしまうのですが、この違和感こそが何かを見つける糸口になるのかもしれません。細かな変化を見逃さないことが大事です。

 ただ、厄介なことにそういったものには表現すべき言葉がない。言葉がないのでそれを保存することが難しいのです。近似値でもいい。そのものではなくその状況を記すだけでも新たな何かを見つけることに繋がるかもしれない。そんなことを考えています。

落書きを通して

 最近、下手くそなスケッチをすることが多くなりました。絵を描いてみて思うのは自分は対象をよく見てこなかったということです。

 絵を描く時には立体を平面化するという技術的な問題があります。それよりも障害になるのは既成概念だと感じています。対象を写しているのではなく、自らの思い込みを描いてしまうのです。みたとおりに描こうとすればたちまち違和感が生じて筆が止まってしまう。そして自らの常識に従って偽の姿を描いてしまうのです。

 私は見たとおりに描ける人が芸術家なのだと考えます。見たとおりに書き上げることができる柔軟さと我慢強さは並大抵の努力では得られない。たくさん描いてたくさん失敗する中で得られることなのだと感じるのです。

 落書きを通して自分が何を見ているのかを確認する作業を繰り返していきたいと考えています。

パンデミック

 新型肺炎の世界規模の流行を世界保健機構がパンデミックと判断したようです。定義の有無に関わらず、この病魔の影響力の大きさは日々拡大しています。

 ただ、罹患すれば直ちに死に至る病ではなく、感染しても無発症の人までいるというウイルスです。完全なる隔離が難しいところが大きな問題でもあります。

 それ以上に厄介なのはこの度の不安感が日常生活の全般を不活性なものにしていることです。人、モノ、カネなどの交流と交換で成り立っている日々が損なわれるとうまくいかないことが増えていくことになります。すでに破綻したり、そうなりつつある企業が生まれつつあると言われています。

 単に恐れるだけではなく、守るべきものは守りながらも、やらなくてはならないことは粛々とこなしていくことが求められています。また、互助の精神も思い出さなくてはならないでしょう。

 震災復興がすまないうちに次なる災禍が訪れたことは残念ですが、立ち向かうしかありません。

9年目

 今日で東日本大震災から9年目になりました。歳月の流れること速くすでに記憶が薄れつつあります。忘れてはならない忘れたい記憶です。

 地震の発生時は職場にいて午後の仕事のめどが付き始めていたころでした。突然の大きな揺れで動揺しましたが、意外にも冷静に行動できていたと考えます。恐らく関東の地震はものを倒すほどではなかったことや、丈夫な建物の中にいたからでしょう。建造物の一部崩壊による死傷者は東京でも出ていました。

 記憶に残っているのは震災後の不安です。エネルギー不足による暗くなった照明、計画停電、原発事故による放射能汚染の恐怖など、どうしようもできない恐怖感が静かに襲いかかっていました。度重なる余震が落ちつきかけた心をかき乱しました。

 いろいろな意味で厳しい状況の中で平静を取り戻すことができてきたこの時期に、今度は世界規模のウイルス流行で再び社会不安が増大しています。震災9年目にあたって必ず立ち直るという決意を新たにしょうと考えています。

次を考える

 積み立てNISAを始めて経済の成り行きにも関心を持つようになりました。いまはコロナウイルス流行をきっかけとする世界的な株安が発生しています。日々目減りしていくこづかいの額にため息をつく毎日です。

 ウイルス騒ぎは社会のあらゆる局面に多大な影響を及ぼすています。中には明らかに行き過ぎな点もあります。ただ、縮小する経済の未来を予見する機会を見せてくれているのだと考えるならば、この時期を体験する意味があります。事前に対策を立てるシミュレーションなのです。

 生産人口が減少し、流通の規模が縮小したり、人手不足が慢性化する状況は最近の社会の実態と似ています。そうした中で何ができるのかを予測して行くことが求められます。いまあることを前提とせず、次の状況を常に考えて生きることがこれからはますます重要になってくるのでしょう。

マスクを忘れて

 新型肺炎の予防に関してマスクは効果が少ないというのが専門家の意見です。ただ、つけていないとかなりの不安感に襲われるという事実があります。心理的なものと言っても収まらない何かがあります。

 今朝はマスクを持ってくるのを忘れてしまいました。すでに街では何日も品切れ状態が続いており、途中で調達することは不可能です。通勤電車の車内でマスクをつけていない人はわずかです。すると無根拠の不安感が現出するから不思議なものです。遠くから聞こえる咳の音にも反応してしまうのです。また、くしゃみをしたらどうしょうと心配になります。

 マスク依存の昨今はそれ自体がかなり病的で、精神的な弱味につけこまれる隙がいくらでもあります。こういう状況は社会不安も起こりやすいようです。物品欠乏デマもそのような中から生まれたのでしょう。

 マスクをつけることで判断力や正義感までを覆い隠すことのないよう気をつけなくてはなりません。

だまされやすい環境

 感染予防のために人々が分離され、状況をメディアを通してしか把握できなくなると、ものごとの状況の風合いを体感できなくなります。本当はどうなのかを実感できなければ、すぐに見破られるはずの嘘にも騙されることになるかもしれません。

 昨今のトイレットペーパー欠乏デマはソーシャルメディア発の偽情報が瞬く間に広まったものだと言われています。その情報自体も検証しなくてはならないのですが、誰が言ったかよく分からないことに多くの人が騙されてしまう状況は、今日の状況で起こりがちであることがよく分かりました。

 コロナウイルスの終息がいつなのかわからず、人々が語り合う機会も奪われつつある今、だまされやすい環境が整っているといえます。混乱を招かないための工夫をしていかなくてはならないと考えるのです。

トングはここに

 近隣のスーパーマーケットでのパンの売り方が変わりました。山積みしたパンの中から客がトングを使って必要な分だけ取るという方式に変更が起きています。

 まずパンはすべてビニールフィルムで包装されています。ウイルスの飛沫感染の予防なのでしょう。一応トングは用意されているのですが、使用後は元の場所に戻さず収納場所に投げ込むよう指示があります。トングからの接触感染を嫌った措置と考えられます。

 このように現在東京では新型肺炎感染に関してかなり神経質になりつつあります。エンターテインメント系の行事に続き、教育機関も一部、もしくは全部の活動の停止を検討し、始めたところもあります。様々な生産活動にも支障が出始めました。

 終息のめどがたたないことが恐怖に繋がっています。ある専門家によれば早晩多くの人が感染するらしく覚悟は決めなくてはならない。ただ、行き過ぎは感染すること以上の困難をもたらしてしまうことを考えて、強かに継続するしか方法はないのかもしれません。

耕し

 都会に住んでいると忘れてしまう風景があります。この時期に田畑を耕す耕運機の往復があったことを思い出しました。

 耕しは耕作地に空気を混ぜ込む大切な作業です。土の香りが立ち上がり、どこからか現れた鳥たちが虫を狙って歩き回ります。その上を通る風はなぜか趣きが違って感じられ、季節の歩みを体感するのです。

 私たちは土から離れた生活に慣れてしまいました。しかし完全には生活から切り離すことはできない。田畑を見たときに突如現れる感情はその証です。