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公園の意味

 明日からは寒くなるかもしれないということで横浜市のある公園に行ってきた。最近は人ごみのある所にはなかなか行きづらい。公園であれば他人との距離は保てるし、何よりも気分が晴れる。それはマスクに阻まれない精神の解放である。

 都市が大きくなると公園の存在が大切になる。人々が生活する空間は日常の様々な秩序が渦巻いている。そこには安定もあるが、息苦しさも同居している。そんなときに開放的な空間が必要になるのだ。公園はいまのような時世にはその存在価値をはっきりと認識できる。

 公園があることは人々の生活がうまくいっていることを示す。公園の秩序が保たれているのはその地域がうまく回っていること意味するのだ。この時代にあって公園があることに深く感謝するのである。

表現手段

 公園で楽器を演奏する人を見かけた。なかなかの腕前であり、通行人の注目を浴びていた。もちろん一流の演奏には及ばないのだろう。でも、演じている本人が楽しそうであり、生きがいを感じているようだった。

 自分を表現する方法を知っている人は幸せだと思う。うまく言えない何か、言葉にならない何かを表現することは案外難しい。それをあきらめてしまうのが通常の人のあり方だが、楽器演奏なり、大道芸と言われるパフォーマンスなりにそれが表現されることもある。演じること自体が目的だから収益は二の次だ。もちろんお金がもらえればもっといいが、それが目的ではない。

 自己表現ができてそこそこ暮らしていける生活が出来たら、なんと幸せなことなのだろう。私は最近そんなことばかり考えている。

曇天続く

 東京はまだ梅雨空が続いている。ほとんど日がささない。涼しいのはよいがまるで調子が出ない。

 暑い日々がよくないことは分かっている。場合によっては命さえ奪う猛暑はお断りだ。しかし、やはり夏は陽射しがなければ調子が出ない。

 ただ、この後急に気温が上がると健康被害が多数出るかもしれないと言われている。自宅待機で身体の順応ができていない人が多いこらだという。私もその一人だ。

 適度に日が差し、気温が上がればよいなどと勝手なことを考えている。思えば私たちは実にわずかな幅の環境で生きているものである。

冷静に

 コロナウイルスの感染者が刻々と増えている。我が国では感染者数を低く抑えてきたが、これは検査数の少なさとも関係があると言われている。最近は積極的に検査を実施するようになって、30代以下の人々の感染状況も補足するようになった。結果的に軽傷もしくは無症状の感染者も計上することになっているのだという。

 経済活動再開に歓喜していた人々にとってはまた冷や水を浴びせられる結果になってしまったのは事実だ。このブログでも取り上げた政府の国内観光推進策も方向転換せねばなるまい。ウイルス拡散の政策と認知されれば政権の存亡にも関わる。ただ、以前のようなロックダウンの政策はもはや難しい。そもそも我が国では都市封鎖の効果はほとんどない。いたずらに自粛に走り、経済活動を止めれば感染予防以上のダメージがあるのは自明の事実でもある。

 識者にも予測不能の現況を私たち市民はどのように受け止めればよいのだろうか。まずは冷静にならなくてはなるまい。この期間の異常事態に正気を失ってはいけない。まずは足元を見ることから始めなくてはならない。コロナウイルスはかつて歴史を変えてきた天然痘やペストなどのような致死性はない。罹患すると確実に回復させる特効薬がないということが問題であって、すぐに死に至る病ではない。だから恐れすぎてはいけない。

 さらに、感染力もさほどではない。空気感染をする結核や水疱瘡のような威力はないと言われている。ある程度の予防策はある。最近、コロナウイルスも空気感染するとの報道があったが、諸見解を総合すると飛沫感染の可能性の方が高いようだ。その意味でマスク着用の意味はある。

 感染よりも重大なのが心理的な影響であると考える。コロナウイルスに対するショックは日常のルーティンを破壊し、さまざまな弊害を生んでいる。その中には生活のリズムを失って途方に暮れる人もいるという。私自身にもそう思う瞬間がたびたび起きている。実際に感染していなくても心身に不調を訴える人が出てきているように感じられるのは、精神的なストレスが作用しているのではないか。

 こういう時は冷静にならなくてはならない。緩やかな気分になるために大きな風景を見たり、穏やかな音楽を聴き、少々日光を浴び、孤独を避けなくてはならない。それだけで救われるものがたくさんある。世界は危機的な状況にあるが、致命的な状況では決してない。これから展開次第ではいくらでも状況は変わる。思いつめず冷静に過ごすことが大切なのだ。

違う風景をみること

 外出が歓迎されない日々が続いている。政府は観光推進で国内産業を回そうとしているようだが、現状では国民の理解は得られそうもない。

 経済の問題とは別に精神衛生の問題として、外出ができないことは大きな問題がある。普段見ない風景を観ることから得られるインスピレーションが生じないことだ。決して絶景である必要はない。日常の時間には遭遇しない環境に身を置くとこが大切なのだ。

 いつになったらこの自由が謳歌できるようになるのか。私たちの眼前にある現実はあまりに厳しい。せめて細かい観察眼と想像力を鍛える日々としたいと思う。

朗読劇

 密を避けることが義務づけられつつある社会情勢の中で、演劇は公演が制限されている。小劇場での感染も報告されており、厳しい状況が続いているのだ。その中で妥協点として考えられるのが朗読劇ではないか。

 向かいあわず接近しない。演劇の大半の要素を切り捨てた朗読劇は、それ自体で味わいがあるものだ。ただし、物足りなさが伴うのも事実である。いま、制約が設けられた状況にあってその欠乏感までもが効果的な表現方法になる可能性が出てきた。

 ソーシャルディスタンスなどという言い方もあるが、要するに触れあえない悲しみ、もどかしさを伴う状況にあるわけである。それが果たせないやるせなさを朗読劇の方法で表現できるかもしれない。

 久しぶりに脚本を書いてみようかという思いになっている。創作にはある意味こうした現状打破のエネルギーが必要なのかもしれない。

梅雨空続く

 雨が降り続いている。予報でも傘マークが並び、梅雨明けは持つ少しあとのようだ。ここ数日は気温も上がらす、ときに肌寒く感じることさえある。

 本来であれはオリンピック直前の時期であり、さまざまなプレイベントが行われていたはずだ。学校は学期を切り上げて夏やるべきことをいま行うはずだった。例えば部活動合宿は今ごろ行う手はずで宿も予約を済ませていた。

 降り続く雨の中でもマスクが外せない日が続いている。やるべきさまざまなことが流れ、それを悔やむ暇もない。押しつけられた新しい日常に心身の方が流されている。梅雨空はかえって諦めがつくきっかけかもしれない。

手触り

 バーチャルな時空が急速に広がっているいま、密かに渇望されているのは手触りなのではないか。そのときに一回限りで現れる感覚こそが大切な要素なのだと気がつくことがよくある。

 ここでいう手触りとは文字通りの皮膚感覚の介してのものにとどまらない。たとえ触れることができなくても、それに接しているという生の感覚が得られるものをすべて含めるとする。極めて主観的な感知であり、容易に定量化しにくい。

 しかし、対象と同じ次元を共有しているという思いは、実は結構大事なものであったのだ。その安心の中でいろいろなことが可能になってゆく。最近はこの感覚がないがしろになりつつある。

選べる楽しみ

 私たちが思う贅沢の一つに選択の喜びがある。総体として高級感が今ひとつでもたくさんの選択肢が容易されているとそれだけで満足感が高まる。これは幸福感を考える上で大切なのではないだろうか。

 寿司は生魚を乗せた酢飯であり、料理としてはシンプルである。もちろんそれゆえに個々の作業が洗練され、店によって大きな違いが生まれている。ただし無粋な言い方を敢えてするなら、料理のやるべきことは限られている。

 それなのに寿司屋に行くと得られる豪華な感覚は自分で多くの食材の中からほしいものをその都度選べることにあるのだと考える。これは顧客満足度を上げる有効な手段なのではないか。

 このような選択度の提供は我が国のサービス業の随所に見られる。実はほとんど既成品でも最後の選択に自分が絡んだということが、魅力を倍増させるのであろう。

万年筆の話

 このブログを海外から読んでくださっている方がいるらしい。ありがたいことである。日本語でしか書いていないので、日本語ができる方が読まれているのだろう。このブログは機械翻訳にかけても、意味が通じるような日本語で書きたいと考えている。

 今日は万年筆の話をしたい。日本製の万年筆はかなり優秀である。私が使っているのは安価なものばかりだがパイロット社のエラボーという名の万年筆は大変気に入っている。ペン先は特徴的で柔らかく、カリグラフィーにも使える。日本語は画数が多い漢字と曲線の多いひらがなが混在するため、万年筆にとっては要求される要素が多国語に比べて多い。それに見事にこたえている。日本製の万年筆を知らない人はぜひ試してほしい。きっと感動するはずだ。

 日常的に最も多く使っているのはパイロットのコクーンという安価な万年筆である。鉄製のペン先で高級万年筆のような滑りのよさはないが、それでもどんな筆圧でも対応してくれるような良さがある。日常的にはこれを多用している。

 外国製では学生時代はモンブランを使っていた。インクが乾きやすいのが難点であり、日本語を書くには硬めの漢字もした。でも所有欲、つまり持っていて自慢できる何かを持っている万年筆だった。ただ、いまはほとんど使うことがない。

 最近使っている万年筆は初心者向けのペリカーノジュニア―という学生用万年筆だ。これは家庭で気楽に使っている。私はコンバーター派なのだが、これだけはカートリッジを使っている。専用のカートリッジはかなり特徴的な長細いものである。この万年筆はおそらく小中学生に向けて作られているのだろう。持ち方を矯正するような形になっている。書き味はかなり大雑把である。それにインクの供給も日本製ほど繊細ではない。日本で使っているからかもしれない。ドイツの製品を悪く言うつもりはない。

 それでもこの子供用万年筆には十分な魅力がある。何というか自由になれる雰囲気がある。日本製にも似た種類があるが、それよりも非日常を味わる。これは全くの主観だ。インク供給が止まるたびにキャップをして振り回す。するとまたインクが出る。このわずらわしさも魅力だ。私はこのペリカーノジュニアを使ってエッセイを原稿用紙に書いている。太字で大きく書かれる文字は不断の縦横が交差する文字とは違う日本語を書いているような気になっていい。いつもとはちがう文章が書ける気がするのだ。