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オリンピックの意味

 東京オリンピックが終わった。無観客という極めて異例の大会運営はこれからのスポーツイベントに様々な影響を残すことだろう。観客がいなくてもスポーツが成立するのかという根本的な問題を考えるきっかけになる。

 オリンピックが商業主義に取り込まれている以上、無観客はあり得ない。今回はスタジアムに入る人が制限されていたのではあるが、メディアを通して観客となった人は世界中にたくさんいる。その存在があるからこそ、メディアが商業的に成立し、そこで生まれる利益がスポーツイベントの運営には欠かせない。

 もし本当の無観客、もしくは無料試合を実施したらどうなるだろう。世界的なスポーツイベントはおそらく成立しない。そこにドラマは生まれないし、感動を物語ることもできない。オリンピックは残念ながら政治や商業に取り込まれることで成立しているといえる。

 スポーツが文化として成立するするためにはやはり何らかの共同性なり、共有性を維持しなくてならない。勝手にやってくれでは文化は育たない。しかし、何でもできるわけではない。国際競技として継続するためには割り切らなくてはならない様々なものがある。東京オリンピックはこの問題を再確認させてくれるものであった。

知的進化

 インターネットでの誹謗中傷の事例を見るたびに、人間はまだ情報社会に対応できていないことを痛感する。Society3.9くらいの存在なのだ。

 人類は情報という目に見えないものに振り回されており、いまだ使う方にまわっていない。使われている。メディアの影響力について理解していないし、理解していない存在が他人を傷つけているという事実も判断できない。隣りにいる人に接するようにメディアの先のひとに接し、リアルとバーチャルの区別ができない。

 語弊がないようにしたいが、かくいう私も同じだ。先の例えで言えば私は情報社会に全く適応できていない。3の前半にいる。ただ人間はいずれはこの状況に対応していくのだろう。何を言われてもされてもそれが本心からなのか、それとも感情に任せた戯言なのかを瞬時に見分ける能力を獲得するのだろう。

 あるいはその能力を獲得しないという進化を選ぶのかもしれない。つまり、人を信じないという方向だ。これは困る。私たちの身体的な進化はかなり限界に来ているのかもしれない。大脳をこれだけ発達させた人類に残された可能性は、情報を理解する能力を向上させることだろう。

次々廃業

 利用していたレストランが次々に廃業に追い込まれている。コロナウイルスの影響は大だが、それ以外の要因もある。その一つが個性の消失だと考える。

 同じような料理を出していたとしてもその店の雰囲気とか、店員の醸し出すものといった、非定形の要素をもとめて店を選ぶのが人情というものだ。数十円から数百円の違いはそれで十分に逆転可能だった。ところが、最近はどの店に行ってもマニュアル通りの対応しかできず、メニューにも個性はない。どこに行っても同じようなコンセプトであり、効率化のもとサービスも均一化している。アルバイト店員が増えたせいか、臨機対応の変化には対応できない。何よりもその店の店員であることの誇りのようなものが感じられない。

 これは現在の業界の状況からすればどうしようもないことであり、こだわりを続けるのなら価格設定を高くして、少ない客でもなんとかするしかあるまい。そんなことができる店は限られている。

 次々に廃業するレストランをどのように救うのか。この点に対するアイデアはまったくない。。ただ、いつも通ったあの場所にその店がないことに対する失望感は打ち消しようがないのだ。

光の表現

 光を表現することは実は難しい。光そのものは色はないし、物質としての実感もわかない。だから、光そのものは描けず、光によって投影された物体を感知するだけだ。反射する光の種類によって色彩が現れ、形として見える。光とものとの織りなすライブが私たちの世界だという。

 ブラスを表現するにはマイナスを取り上げればいい。それも伝統的な手法だ。闇の中に差す一条の光は分かりやすい。ないところにあるものは感じられる。

 光を表現することに私はもっと関心を持ちたい。比喩的な意味も含めて光を表現することを最近諦めている気がする。光は当たり前ではなく、特別なものでもない。ただ、その正体に関心を持つことはこれからもっと大切になりそうだ。

大雨の被害

 熱海市で土砂災害が発生し大きな被害がでた。犠牲者に哀悼の意を捧げる。毎年、梅雨の後半にはこのような大規模な水害が発生する。傾斜地の多い森林国である日本の宿命だが、被害は何とか防がなくてはならない。

 土砂災害が起きたとき、たいていの場合、自然破壊を伴う開発が原因だと言われることが多い。今回もそのような指摘がされている。ならばそれをどのように規制し、管理するのかということにもっと議論が向かうべきではないか。

 我が国の常として天災は数多く繰り返されるが、その都度忘却され、同様の被害が繰り返される傾向にある。詳細な記録が残せるようになった現代では過去の災害を克明に保存する手段もあるはずだ。また災害の仕組みを研究する分野も進んできている。この辺りの技術者には大いに活躍してほしい。民間レベルでの口碑のようなものも機能させるべきではないか。

デザイン

 同じものでも色が異なるだけで気分が変わることがある。図案や造形が加わればもっと効果が大きい。私は結構見た目で左右されている。

 ならば身の回りにあるものにデザインを施してみよう。といっても画才はないので既成のものを貼り付けるだけである。シールもいいが色紙を貼るだけでも変わる。毎日使っているノートに千代紙を貼れば親しみが湧いて手に取る回数が増える。それだけで効率が上がるとは言えないが何かに変化が起きることは確かだ。

 散財しなくてもデザインの魔法はかけられそうだ。いろいろ試してみたい。

6月

 今日から6月が始まる。まだ終わらない緊急事態にはうんざりだが乗り越えていくしかない。

 少し先のことを考えることも大切だ。ワクチン接種が進み、いわゆる集団免疫が形成されたと認定された後でどのような社会変化が起きるだろうか。この騒ぎの前の状態に戻るとは思えない。ディスダンシングに慣れた人々はどういう行動を取るのだろう。そもそも都会に住み続ける意味はあるのかなど。

 グローバルな世界を意識したのとともに地域の力の大切さも実感している。金を出しても幸せは買えないときがあることを予感させた。

 これから変わるかもしれない社会を考える月始めになりそうだ。

変わる風景

 実家の近くにあった大きなパチンコ店がなくなり更地になっていた。他にもこのところ建て替えなどが相次ぎ町の風景が変わっている。もともと開発途上の地域だったことに加え、コロナ禍という打撃もあって変化を余儀なくされていると言えるだろう。

 昨年亡くなった父の見た風景が消えていくのを思うと複雑な気持ちになった。もっとも代々の先祖が目にした世界と現在は異なるのであり、私が知る風景がいつまで保たれるかなど誰にも分からない。

 諸行無常といえばそれまでだが、蟻の視点で見れば心乱れる事実だ。

 知らないうちに頬に引っ掻き傷を作ってしまった。心当たりが無いので寝ているうちに何かにこすったのか分からない。

 顔を気にする歳でもないし、そもそも私の顔などさほど注意している人はいない。それに加えて始終マスクをつけているのでそもそも見えない。私が傷に気づいたのも恐らくできて数日後のようだ。

 ずぼらな男の話として笑い飛ばしておけばいいことだが、少し視点を変えると、自他の顔への関心が下がり過ぎているということになる。これは少し恐ろしい。リアルな印象をもたらすはずのものが軽視されていることになるのだ。

 もっとリアルに関心を持たねはと自分に言い聞かせる。

台風

 4月であるにもかかわらず巨大な台風が発生している。本州への直接的影響はまだわからないという。

 台風は夏や秋に来るのものというのがこれまでの常識だ。ところが最近は春にも冬にもその可能性があるという。大規模な気候変動のせいだといわれている。抵抗しようもない脅威を感じる。

 台風のエネルギーを何かに利用できないかと考えたことがある。暴風や強烈な雨、あるいは気圧の変化などを活用できないだろうか。年間に限られた回数しかないものに投資をすることは非効率かもしれない。だが、やる価値はあるように感じる。

 台風を追尾しエネルギーのおすそ分けをもらってくる無人のロボットがいいなどと夢ばかりは広がっている。