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数学的思考

 ある人のインタビュー記事を読んでいたら、多くの人には数学的思考がなさすぎるという。そのために事実誤認が生まれ、さまざまな悪影響に繋がるというのだ。

 確かに私は物事を経験的な感覚でしか捉えていない。そしてその多くは間違っている。だか、私以外の人も同じような間違いをおかしているので困らないのだろう。

 日常些事ならばそれで済む。ただしこれが累積し、継続性を持つようになると大きな問題になる。科学的思考がとれなくなると、思い違いで酷い結果が増幅してしまう。それは損失以外の何者でもない。

 不利益を受けるのが自分だけならば自業自得だ。それが他者に影響するとなると問題は別次元になる。後生に課題を残すならばさらに問題だ。SDGsよりも大切なのはまずは思い込みによるエラーを減らすことにあるのかもしれない。

 数学の理論を学び直すのは容易ではない。ただ、単純な算術でもよいから、理をもって考える癖をつけなくてはならないと痛感する。

年頭のごあいさつ

 2022年が始まりました。新年明けましておめでとうございます。

 おめでとうというのは予祝の呪術と学びました。まだ何も祝福すべきことは起きていなくても、めでたいと言うことで周囲にそのような状態をもたらすというのです。これが正しいのなら私は何度も言いたいと考えます。

 パンデミックが始まってから2年が経過しいまだ安心のできない日々が続いています。真夏のマスクを2回もしなければならないとは思いだによらなかった。それでもなんとか耐えてここまできたのです。この事実だけでもめでたいと言うべきかもしれません。

 予祝の意味を込めて、さらなる幸せが皆様の周りで重ねて起こりますように。

 明けましておめでとうございます。

鉢を割る

 駅に向かう途中の道端に置かれている素焼きの鉢が割れていた。さては誰かのいたずらか。それとも自転車か何かが衝突したのかと思った。だが、どうも違うらしい。

 割れた破片は外部からの圧力ではなく内側からのエネルギーのベクトルを表していた。鉢は自ら割れたのである。皮を剥いたときのように広がったかけらがそれを示していた。よく見ると、底面にもたくさんの根がはみ出している。どうやらこの根が鉢の側面に圧力をかけた結果なのだと納得した。

 植物の力は実は強大だ。整備しないままの舗装道路が、雑草の繁茂によって亀裂ができている風景は田舎に行くと当たり前にある。田舎の話ではない。都心でも手入れを怠ればたちまち植物に侵食されるという、

 生き物の力を実感する風景であった。

判断力の低下

 加齢すると判断力が低下するのは高齢者の自動車事故の事例からも容易に分かる。残念ながら脳の機能が低下してしまうのはいかんともしがたい。ならば、どうすればいいのか。AIに頼るというのはもちろん一策であるが、まだそれが実用化するにはもう少し時間がかかる。

 では、何ができるか。いまは自分なりに学習し、理屈で生きるしかなさそうだ。アルゴリズムを自ら作っていくということだ。機械がやってくれる前に自分で考えることになる。もちろんコンピュータのようにはできない。単純な法則を決めてやるしかないのだろう。

 その意味では昔から言われてることわざというのは知恵のエッセンスのようなものだ。短い言葉のなかにやるべきこと、してはならないことが詰まっている。ただ問題なのはことわざには相反する内容がある。「急がば回れ」と「善は急げ」は真逆だ。そのどちらを取るのかは今置かれている自分の状況を分析して判断していくしかない。ただいずれにしても行動を単純化するのが高齢者の瞬時の判断力低下の補助になることは確かだ。

ハロウィン

日本でもハロウィンが行われているが、その意味を理解している人は少ない。子供の行事としてではなく商店の売出しの手段、大人のバカ騒ぎの言い訳として定着している。しかし、昨今のコロナ禍の影響で暴徒化する不届き者はしばらく途絶えている。

ハロウィンの化け物の正体は実は先祖の霊魂であるという。このあたりは日本の民俗に見られる鬼の形相をした先祖まつりと似ている。神と怪物は紙一重であり、まして劣勢の神話は妖怪化しやすい。祖先神とともに邪悪な霊が来訪するという考え方も日本の施餓鬼棚の習慣とよく似ている。仮装する行事としては京都の節分おばけが知られている。鬼面や天狗面をつけて先祖の霊になりきる行事は日本各地にある。ケルト人の信仰が元と言われるが、日本民族と直接の関係がない民俗に共通点があるのは興味深い。キリスト教とは無関係の行事なのでこの習慣がない国も多いらしい。

日本でハロウィンが受け入れられたのはもちろんアメリカとの関係によるものであろう。また、クリスマスまでの商機に利用されたこともある。ただその基層部分には古代信仰の偶然の類似があると考えられるだろう。それを意識している人は少ないにしても。

ハロウィンの起源には魔除けの要素も含まれていたという。もしそうであるならばウイルスという目に見えない魔物を退散させることを願いたい。東京では感染者数が激減しているが、世界的にはまた増加傾向が見られるという。完全に魔物が霊界に戻ることを期待して止まない。

Photo by Toni Cuenca on Pexels.com

Halloween is also celebrated in Japan, but few people understand its meaning. It is not a children’s event, but rather a means for merchants to sell their wares, and an excuse for adults to make a fool of themselves. However, due to the recent corona disaster, the number of rioting miscreants has ceased for some time.

It is said that the true identity of Halloween monsters is actually the spirits of ancestors. This is similar to ancestral festivals in the form of demons in Japanese folklore. There is a fine line between gods and monsters, and inferior myths are more likely to turn into monsters. The idea that evil spirits visit us along with the ancestral deities is also similar to the Japanese custom of the “Segakidana”. The Setsubun Obake in Kyoto is well known as a masquerade event. There are many events all over Japan where people wear ogre or tengu masks and pretend to be the spirits of their ancestors. They are said to be based on the beliefs of the Celts, but it is interesting to see the similarities in folk customs that have no direct relationship with the Japanese people. It is said that many countries do not have this custom because it has nothing to do with Christianity.

Of course, the acceptance of Halloween in Japan is probably due to the relationship with the United States. It was also used as a commercial opportunity until Christmas. But at the base of it all, there is a coincidental similarity to ancient beliefs. Even though few people are aware of it.

The origin of Halloween is said to have included an element of protection from evil. If this is true, I hope that it will help to get rid of the invisible demons called viruses. In Tokyo, the number of infected people has decreased drastically, but worldwide, the number is increasing again. I can’t stop hoping that the demons will completely return to the spirit world.

Translated with http://www.DeepL.com/Translator (free version)

Deeplで翻訳してみました。日本語の名詞の間違いを直しましたが、それ以外は結構、うまく行っているような気がします。正解はわかりませんが。

嵐の後

 台風一過の晴天、この季節にしては暑い一日だった。今日はここまでの鬱憤を晴らすのためなのか近隣のモールにも相当な人手があった。駐車場の待機列も長く続き数年前の日常が戻ったかのような錯覚にとらわれた。

 ウイルスワクチンの接種が続けられてきたため感染者数は今後現状傾向になるはずだ。ただ、これはマクロの話であり個々人のレベルでは危険な状態は継続されている。それが難しいところだ。戻ってきた人出の顔にはマスクがあることを忘れてはならない。

 嵐の後の喜びは今日のつかの間の風景だった。本当の嵐が去ったあと、人々はもっと笑えるのだろうか。その日は近いのだろうか。

9月

 今日から9月だ。伝統的な暦ではすでに秋は始まっているが、この月を季節の変わり目と考える人は多い。今朝も昨日と比べるとかなり気温が落ち、何かが変わったことを感じさせる。

 日本では夏休みが終わり2学期が始まるのがこの月だ。最近は地域によって様々な形があるので一概には言えなくなっている。再始動の月であることは確かだ。

 集団生活の復活に緊張する子どもがいることがこの時期の年中行事的な出来事である。今年は少し様子が違う。コロナウイルスの感染が一向に収束に向かわないので、登校を辞退するという選択肢があるのだ。行きたくないからの理由が、個人的な問題にとどまらなくなっている。

 生徒、学生諸君には早く平常の学校生活を送っていただきたい。失われた何年などと後で言われないようにやれることはやっておこう。

聞き出すこと

 当事者でないと理解できない苦しみがあることは確かだ。それは心身ともに痛みを感じるものである。名状しがたいものであり、本人以外は決して踏み込むことができない何かだ。まずそこから始めなくてはならない。

 その意味において私たちは、他者の窮状を救うことはできないのかもしれない。陥穽から這い上がるのはあくまで本人であり、手を差し伸べれば解決するというものでもあるまい。ただ、本人が上昇するきっかけを与えることはできるのかもしれない。それは相手が苦しんでいるということを理解することから始まるのだろう。

 相手の苦しみを当事者に言語化してもらうことができれば解決策に近づく。漠然とした不安が言葉に集約されれば、その本質に近づく手がかりが生まれてくる。だから、私たちができるのは苦しみの当事者の言葉を聞き出すことだ。これには粘り強い気持ちが必要であり、その前提の愛情もいる。聞き出すことから、自助のきっかけを引き出せるのだ。

相対的

 梅雨末期の天候にいきなり戻り、気温も低下している。決して低くはないのだが、これまでの異常な高温と比較すると寒冷にさえ感じる。私たちの体感はあくまでも相対的なのだ。

 これは人間の宿命なのだろう。何かと比較することでしか表現できないのだ。基準をどこに置くかで見え方はまったく変わる。自分が目にする風景が必ずしも万人に共有されている訳ではない。

 天気の話は分かりやすいが、世の中の多くのことはもっと複雑だ。相対的に物事を考えるのは体感温度と似ている。恵まれている人が少し不自由になると、不幸を感じる一方で、努力してようやく勝ち取った何かを幸せに思うこともある。それが些細なことであっても。

 今を基準にして未来を考えること自体は悪いことではない。ただ、ときには生活の地平から離れて冷静に自分を見つめる必要もありそうだ。

悪天候もチャンスと

 西日本で長雨の被害が出ていることを聞くと申し訳ないが、この悪天候はある意味チャンスかもしれない。お盆休みになった日本ではこの期間にまとまった休みをとる傾向にある。宗教心はかなり薄いのだが盆は日本人にとっては先祖の供養をするか、もしくは遠隔地の親を訪ねる日か、その代わりに自分たちが楽しむ人する日として定着している。

 何もなければ東京から地方に帰省する人でごった返すこの期間は、今は自粛することが求められている。いっそ悪天候ならば諦めがつく。悪天候もチャンスとなると考えた方がよいだろう。ただあまりにも雨量が多いのが心配だ。一度停滞前線は消えてほしい。

 晴れても外出しないと誓うから。