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川べりで

 川べりのベンチに座っていたら、年配の男性に話しかけられた。なんでも一流企業の幹部社員だったが今はマンション管理人をやっているそうだ。年金で夫婦の暮らしは何とか成り立つが、マンション管理の給金が自分の小遣いになっているとか。毎年、北海道で行われる同窓会に参加し、路上ライブを続ける16歳の女性歌手の卵の追っかけをしているらしい。

 歳をとるとなんでも話したくなるらしく、そのほかにもいろいろなエピソードを聞かせていただいた。80歳だといわれたが歩く速度は現役世代と変わらない。杖もつかず元気そうだった。私の年齢を聞かれたので答えると、それはまだ洟垂れのようなものだ。老け込んではいけない。ストレスをためないことが何よりも大事だ。とこれも繰り返し何度かアドバイスをいただいた。

 恵まれた生活を送られているのだろう。朗らかで健康面に不安はなさそうだ。歳をとるならこうでなくてはと思った。もちろん私はその方ほど裕福ではないし、楽天的ではない。ただ、誰かに迷惑をかけるのではなく、見ず知らずのものに励ましの言葉をかけられる老人にはなりたいと思った。

磯野波平は54歳

 サザエさんの父親の波平は54歳の設定である。そう聞くとかなり驚く。65歳くらいだと感じている人が多いのではないか。

 ただ当時の男性の平均寿命は60歳くらいであり、ならばあの風貌は当然だ。余命は10年をきっているのだから。

 源氏物語において光源氏は四十の賀を行う。平安時代において40歳は後期老齢者の仲間入りをする年齢であった。光源氏はここから柏木による不倫により、転落の人生を始める。現代の40歳は中年と呼ばれるかもしれないが、中にはかなり若々しい人も多い。少なくとも老齢ではない。

 人生のスケールが過去と現在では大きく異なるということだ。現在は幸いにも高齢化が進み、人生をゆったり構えていられる。歴史的にいえばこれは偶然であり、今後さらに長くなるのか、短くなるのかは分からない。

 波平さんがあの容貌なのはおかしいということの解釈が、老けすぎなのか若すぎなのかは、時代によるということになるのだ。個人的には波平よりも高齢な己が彼ほど存在感がないことを焦るばかりである。

わずかに名月

雲間に名月

 中秋の名月を期待していたが宵の口はかなりの雨が降り、無月と諦めていたが、雲間にわずかに月光が漏れた。彼岸すぎて名月の日となったのにまだ暑い。来週には秋らしくなるというが最早信じることはできなくなっている。

日にちとしての過去最高気温

 このところPCの天気予報ウィジェットに今日はこの日としての過去最高の気温になるかもしれないという意味の表示をしばしば見る。今日などはおそらくその日になるだろう。私の住む町の予想最高気温は33℃であり、過去の最高気温は2007年の31℃である。

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 ひとつ前の記事で書いたようにこれからは次第に気温は下がり続ける。10月7日ごろに夏日を脱すると予想されている。つまり10月まで夏がずれ込んでいくということになる。10年位前、将来、日本は四季がなくなり夏と冬だけになるかもしれないというテレビ番組があった。まさかと思ったが今それが現前にある。

 なんでも最高を目指すべきだとは昨今の風潮であり、そのために多くのものを犠牲にしてもいいというのが暗黙の了解になっているようだが、こと気象に関してはなるべく突出してほしくはない。寒暖を不快に思うだけならばいいが、生態系に影響が出れば、農業や漁業などが影響を受ける。その結果、食糧危機が生じれば世情の不安定化にも直結する。

 よく言われるようにこの気候変動が人間の生活に由来するものであるならば、やるべきことを始めなくてはならない。本当に持続可能エネルギーというものが存在するのかわからないが、変えられるなら変えた方がいい。少なくともいらない消費は控えるべきだろう。生産活動だけが人間が生き延びる方法だという考え方を変えなくてはなるまい。

 言うは易く行うは難しである。今ある生活の水準を下げて生きるという選択が私たちにできるのだろうか。今このようなことを書いている私は十分な照明と冷房の入った部屋の中でタブレットパソコンをインターネットにつないでいる。その電力を作っているのはおそらく化石燃料がもとであり、それは多大なエネルギーを消費して原産国からタンカーかなにかで輸入されてきたものだ。狐とか狸とか熊などの野生動物が話せるとしたら、どの口が言うとなじられそうだ。

 こういう時代はいつまで続くのだろう。ふと、そう思うことがある。私が生きている時間はもう限られているが、その後の世代は今と同じような生活ができるのだろうか。温暖化もしくは寒冷化の気候変動に耐えうるのだろうか。そんな漠然とした不安を覚えてしまう。それも今年の長すぎる猛暑のせいだ。

明日がピーク

 予報によると私の住む街の最高気温は明日34℃らしい。この数字にはすっかり慣れてしまっているので驚きはない。さらに長期予報をみるとこのあとはこの馬鹿馬鹿しい残暑は収まり、来週の中頃にはかなり秋らしくなる。最低気温が15℃近くまで下がると半袖は減るだろう。

 その意味でも明日はようやく季節の節目になりそうだ。最近は長袖ネクタイで出勤しているが明日は夏を惜しむまつりとして最後のクールビズと洒落込もう。本当はアロハシャツでも着たいところだ。暑い夏に感謝はしていないが、去ると分かれば名残惜しい。

確かに私は

 世の中が何でも数値化できるという幻想をどうして多くの人々が信じているのだろうか。数は大小を顕在化できるので、対象を比較し序列化できる。どちらが優れていて、また劣っているかなどが可視化できるのだ。

 ただ、こうしたものさしの危うさは誰にもすぐ分かる。ある数値が良いからと言ってそれが絶対的に素晴らしいとはいえない。基準が変われば序列など簡単に変わってしまう。ところが、ものさしを設定した人に権力がある場合は厄介だ。そのものさしの中で設定者は絶対に損はしない。そしてそれに従う一般人は見事に序列化され苦楽を味わうのである。

 私たちが優劣を感じているものの大半はこうした権力者が設定したものさしによっている。知らないうちにそのものさしに見合う価値観を強いられ、その枠組みで生活することになる。

 こうした考え方では結果的に自分の生き方を生きられない。他人が設定した尺度に従って、そうかもしれないという感覚で生きる。

 大抵はこれで何とか生きられる。中には幸福に過ごせる人もいるかもしれない。自分を消滅させることに成功すれば、他者の用意したよくできたルールに従う方が遥かにスマートに思える。でも何か違う。

 違和感に気づいてしまえば後戻りは難しい。いつまでも他人の価値観に従ってはいられない。とりあえず独自のやり方を模索する。そしてそれは簡単ではない。しばしば挫折する。それなら既存の価値観に戻ろうかとも考える。

 確かに私はこう考えましたということは意外にも難しい。

大丈夫ですか

 大丈夫というのは安心ができる安定した状態をいうことばと子どものころは思っていた。ただ最近は確認や拒否の場面で用いられている。むしろこの方が多い気がする。例えばレジ袋はいりますかと店員が聞く場面で「レジ袋は大丈夫ですか」と尋ねる。客は「大丈夫です」といえば拒否の意味になる。

 「大丈夫」という名詞の意味は立派な男子ということで、剛健な男子が安泰であることを意味にしたのだろうか。それが安定状態という言葉に活用され、副詞的に使われるようになった道筋は想像できる。それがなぜ確認の文脈で使われ、拒否の回答で意味をなすようになったのか。

 思うに日本語によくみられる婉曲の表現の一つと考えるのが最もわかりやすい。確認するのも、拒否も本人の意思がむき出しになりやすい。そこで、用件の許諾そのものではなく、人の心理状態の方に置き換え、意志の確認を是か非かではなく感情の問題にしていることがこの受け答えの背景にあるように思う。

 私自身は最近の大丈夫の使い方にはなじめずにいる。変な気遣い無用などといきがってしまう。これは彼らの使用の意図とは異なっているから、私の憤懣はお門違いなのは分かっている。ただ、大丈夫ですかといわれるとそこまで窮地には陥っていないなどと勝手に考えてしまうのである。

まだ何もないところへのパス

 サッカーやラグビーの選手の出すパスはまだそこに誰もいないところに向かって出される。だから、相手も取れない。

まだそこにいない相手に

 パスを送る者も受ける者も動きのエネルギーの方向や大きさを予測し調節しながら試合をしているのだ。それが際どいものほど、スーパープレーということになる。

 恐らくこれはスポーツ以外にも当てはまる。まだ起きていない事態に向かってパスを送る。そしてそれを受ける相手はその場所に最短距離で向かう。これが上手くいけば大きな成果が得られる。

スポーツが人生のヒントになるのは、スポーツが人生の一部を切り取って強調したものだからだろう。複雑な要因の枝葉を落とすことでものごとがわかりやすくなることはある。

涼しくなつたら始めようと思っていたこと

 ようやく猛烈な残暑も終わろうとしている。昨日は雨に降られたが、深夜にたどり着いた実家のもより駅の温度計は21℃を表示していた。

 秋になったら始めたいと思っていたことがいくつかある。ひとつは久しぶりのジョギング、もう一つは読書、それも多読、そして短い小説の完成と応募である。そのためにやるべきことはこの夏に少しずつ準備してきた。

 体力づくりの方は至急の課題である。かつてと違い、目標は体力維持であり、自己尊厳の安泰である。だから、これは自己満足でよい。

 インプットのための読書は地道に続けてきたが、秋はその度合いを少し増したい。これも何かを覚えるための勉強ではなく、流れ出す知識より少し多めの内容を補充することでバランスを維持しようという企てだ。

 小説を書くというのはアウトプットの手段である。小説でなくてもいい。考えたことを言語化してみることで自分の存在を確たるものとしたいのである。

 暑さを理由にしてできなかったたことが、少しずつできるようになる。まだ変わりうる己の可能性を信じよう。

現実味

 周りを見回すとやけにスタイルのいいそして完璧なメイクアップの女性、相撲取りのような立派な体格の若い男性、初老のサラリーマン、優秀なエンジニアというようなスタイリッシュな男性がいる。偶然ではあるが、いかにもと言えるような人たちに囲まれた。

 私が強烈な違和感を覚えたのは彼らが放つ存在感がどこか現実離れしているように思えたからだ。まるで演劇のキャラのように際立っていたのである。それは日常というものが喪失される感覚であった。

 おそらく個々の人物については彼らの日常を見せたまでであり、特別なことではなかったはずだ。その組み合わせに私が勝手に違和感を覚えたのに過ぎない。さらに推測すれば、それぞれの人物が自らの存在を少しずつ飾っているために、それが複合してアンリアルを演出したといえる。

 日常の複合が非日常になることを再確認したという話である。こういう経験はしばしばあるが今回はそれを表現することができた。