身の回りのものにちょっとしたデザインを施している人に憧れる。このデザインというのは外装の工夫とか、色合いとか模様といった外見上の要素がまずある。大量生産された製品でも一工夫することで唯一無二のものになる。
さらに行動様式についても独自のデザインをしている人がいる。工程の工夫や振る舞い方に技が見られる。これも大切なことだ。
デザインを施してオリジナルなものを作る。これは私たちの生活の知恵として昔から伝わってきたもののはずだ。既製品の完成度が高すぎる中でそういう考え方を忘れているだけなのだ。
日々の思いを言葉にして
タグ: 生活
身の回りのものにちょっとしたデザインを施している人に憧れる。このデザインというのは外装の工夫とか、色合いとか模様といった外見上の要素がまずある。大量生産された製品でも一工夫することで唯一無二のものになる。
さらに行動様式についても独自のデザインをしている人がいる。工程の工夫や振る舞い方に技が見られる。これも大切なことだ。
デザインを施してオリジナルなものを作る。これは私たちの生活の知恵として昔から伝わってきたもののはずだ。既製品の完成度が高すぎる中でそういう考え方を忘れているだけなのだ。
若い人たちにはこういうことにしている。謙虚さは忘れてはならないが、自分を低く見積もることはやめようと。今の成績を語るのではなく、これからの可能性を語ろうと。
最近はなんでも資料が揃い過ぎていて、すぐに他者と比較しようとしてしまう。そしてそれができるような気がする。あたかもパソコンのスペックを比較するように、自分の立ち位置を考えてしまう。そして、大抵の場合、実態よりも低く自分を見積もる。
人々を悲観的にさせたテクノロジーは残念としか言いようがない。でも、この見積もりには未来の成長分が勘定されていない。また、今後の価値基準が変化することも織り込まれていない。
だから、言いたいのだ。自分を安く見積もらないことは大切だと。特に若い世代はデーターで判断することが当たり前のことになっている。ただそのデーターはあくまで過去のものであることを忘れてはならないと思う。
アラブ首長国連邦のドバイで開催中の国連世界気候変動枠組条約締約国会議で相変らず日本の評価が低い。この時期に合わせてNGOが発表する化石賞で2位に「表彰」されるなど、国際評価は厳しい。
日本が低評価になる理由の一つとして化石燃料に水素やアンモニアを混焼する技術がごまかしと評価されていることがある。グリーンウォッシュというらしい。この技術を海外に輸出していることも評価を下げている。今のトレンドは化石燃料をいかに使わないようにするのかであり、使い方の工夫をするというのでは評価されないようだ。
ただ、日本にとって再生可能エネルギーへの転換は容易ではない。原子力発電に関して慎重にならざるを得ない国土にあって、何ができるのかを考えなくてはならない。
早朝に出かけた日のことである。駅前にある地下通路を静かに清掃する人が二人いた。路面にこびりついたガムか何かを剥がし取って、手持ちのペットボトルに入れた水で流していた。根気のいる作業である。彼らは清掃をボランティアで行っている人たちらしい。
こういう行為を見ると自分も何かできないかと思う。昔見た「ペイフォワード」(Pay It Forward)という映画を思い出す。子どもが考えた善意のリレーで世界を変えるという発想を体現化したものだった。もちろん映画としてのストーリー展開でできすぎた内容であるのは仕方がない。善意は無意識のうちにリレーするの可能性がある。ただ、それがすぐに起きるのか時間がたってからなのかは分からない。ボランティアの姿はそのきっかけになる可能性があることは確かだ。
私自身は何かをしなければという思いはあってもそれがなかなか実行できないでいる。せめて、ごく小さな親切から始めてみたい。それを行う勇気として清掃ボランティアの姿を覚えておこうと思う。
誰かに似ていると言われることが時々ある。最近は減ったが、芸能人に似ているとも言われた。残念ながら二の線ではない。言われて必ずしも嬉しくはない類のものだ。顔の類形というのは怪しいもので、人によっても年齢によってもかなり異なる。どう見ても似てない人をそっくりだという人がいる。逆に私にとっては瓜二つだと思うのに同意が得られないこともある。
似ているかどうかの判定基準が人によって違うということだ。物差しになるものが違う。輪郭と背丈が同じなら同一人物としてしまう人がいる。髪型とか眼鏡の一致で区別する人もいれば、ほとんど見分けのつかない姉妹を見分けられる人もいる。似ているいないはその判断に個人差が大きい。
私自身も出会う人をかなり単純化して認識している気がする。どこかであったことがあるなどと勝手に考える。曖昧な人物認識の中で日常生活は成り立っていることになる。
スマートグラスなどができて人物の認識が厳密になされるようになったら私たちの生活はどんなふうに変わるのだろうか。曖昧な方がいい気がする。
ものに対するこだわりはほとんどなく、ブランド品に固執する発想自体に疑問を感じてしまう私だが、眼鏡に関しては妙なこだわりがある。町には安価ですぐにできる眼鏡の量販店がある。たいていは海外製のフレームとレンズだが品質的には悪くはない。しかし、ものを見る目の補助道具としてはやはり日本の製品を使いたいなどとなぜかナショナリズムが発動してしまうのだ。
私の眼鏡のフレームにはいちいち日本製、鯖江生産を示す文字が入っている。私のような頭の固い人間には訴求力がある印字だ。ただ、こうしたことがちょっとした安心感と根拠のない矜持を生み出しているのだから、量販店の倍以上の価格を払っても買ってしまうのだ。ものを買うというのはこういうことかもしれない。ただ、裕福ではない私は買ったものを極力丁寧に扱って出費を抑えることに努めなくてはならない。
ひいきの眼鏡屋には時々、フレームのゆがみを直してもらいにいく。いまのフレームにしてからはほどんど曲がらなくなったので実はあまり意味がない。次の眼鏡を探すということを建前として眼鏡店のにぎやかしを引き受けている
昨日の日中は上着を着た身体には汗ばむほどの暖かさだった。今日はさらに気温が上がるらしい。そして土曜は急降下する。寒の前の暖である。
魚津に住んでいた頃、嵐の前は少し気温が高かった。気圧の関係か何かわからないが僧ヶ岳がやけに大きくせり出して見えたら、翌日は荒れることを覚悟しなくてはならなかった。雷鳴とともに風雪が来る。場合によっては相当の積雪になることもあった。
その経験が関東にも応用できるか否かは分からない。低気圧の東進に伴って、吹き込む風が南から北に代わり、大気の大幅な交換があることは同じなのだろう。土曜日の予想最高気温は13℃、日曜日は11℃でこの時期の身体にはかなり低く感じるはずだ。
手袋はコートのポケットに入っているが、マフラーはまだ出していない。そろそろ出番なのかもしれない。
勤労感謝の日が新嘗祭に由来することは明らかだ。戦後の米軍の占領政策によって、神道色が消されて欧米の感謝祭的な要素を強調した勤労感謝の日となった。本来は神への感謝であったのが、勤労をする人間の方に謝意を捧げることになったのだ。
ただ、基本的な考え方は同じであり、収穫の喜び、つまり労働の成果に対しての感謝の気持ちを表現する祝日ということになる。細かく見ると誰が誰に感謝するのかを考えなくてはならない。対象が神であったときは米穀の実りをつかさどる別次元の存在に対して行っており、宗教的論理によって祭祀が統一されていた。それが人に感謝するとなるとこの行事は個別化され存在意義が分かりにくくなってしまった。
例えば、私の場合は職場の環境を整えていもらっているスタッフや、運営をしている管理職、協力してくれる同僚などが感謝の対象だ。よく考えてみると電力、水道といった社会的インフラを保持している人たち、交通機関従業者、医療関係者、そのほか社会制度を支えている人たちのすべてが感謝の対象になりうる。かつてエッセンシャルワーカーということばが世上にあがったが、エッセンシャルかいなかは判断基準の違いに過ぎない。勤労感謝ということは社会に対する感謝ということになる。
人に感謝するということが素直に言えない時代であると思う。サービスは労賃に換算され、評価の対象になる。金を払えばそれで権利が買えると錯覚してしまう。これでは感謝の気持ちは沸きにくい。感謝すること、されることによって人々の生活は変わっていくのではないか。今日はそういうことを思い出す日なのかもしれない。