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連休

 今年の大型連休は前後に分断されてしまった。中には間を休める方もいらっしゃるのだろうが。私のような職種は暦通りしか休めない。

 でも、いまの自分にとっては長すぎる休みは調子を崩す要因にしかならない。適当に休んでまた仕事をする生活の方がいい。変化よりも安定の方がいいとは我ながら残念である。

 恐らく退職したあとも私は何らかの仕事をするはずだ。収入があるかどうかは分からないが。そういうふうに生きてきてしまった。

雨の一日

 一日中雨が続く日だった。しとしとと長く続く雨だ。お陰で新緑はきれいに洗われた。

 予報によると明日はきれいに晴れて金曜日までは気温もかなり上がるという。初夏いうより夏そのものの陽気になるらしい。ジェットコースターのような天気だ。

 振り回されることへの耐性が年々弱くなっている気がするので、ここは慎重に構えることにする。無理はしない。限られた時間で最高のパフォーマンスをすることを目指そう。

万緑

 電車から見える坂道の桜の街路樹の花はすっかり終わってしまったが、若葉が次々に芽生えてくる様は、また美しいものがある。桜だけではなく、いろいろな緑が輝く季節となった。

万緑は往古の詩人や歌人によって表現されてきた。強い生命力を感じるからだろう。命の力は万物の根源だ。かつては意識することがなかったがいまはいちいち気になる。生きることにはエネルギーがいる。

季節の変わり目

 朝晩は肌寒いが日中はコートがいらない。明日からコートはやめようと考えている。毎年のことだが、この頃は体調がおかしくなりやすい。身体のギアチェンジがうまくいかないのだろう。悪くするとエンストを起こす。

 季節の変わり目はいろいろな意味で用心がいる。

察することの大切さ

 察すること行間を読むことは大切な能力だ。空気を読むというとちょっとニュアンスが変わり、同調圧力のもとに自分の考えを曲げて忖度することを第一にするといった意味になる。ただ、場面や状況に応じて自らの言動を調節するのはやはり大切な人間の知恵であろう。

 こういうことを無意味だとしてなんでも杓子定規に考え、効率化とか可視化とか魅力的な言葉を使っていかにもそれが優れているかのように説く向きがある。これが主流になりつつある。成功者と言われる人の中にそんなことを言う人がいるからだろうか。しかし、これはかなり危うい考え方になる。

 効率がいいとか分かりやすいといったことは結局自分の属する共同体の中でのことであり、それを離れてしまうと非効率もしくは害悪になることある。近代科学が推し進めてきたことを考えればいい。豊かで便利な生活を追求した結果が公害の発生に繋がり、気候変動もその影響ではないかという意見が大勢を占めている。つまり、近代の人間は自分の身の回りだけを考え、循環するエコシステムに思いが至らなかった。地球全体の仕組みを考えるのは相当な想像力がいる。今日の東京の豊かな生活が、太平洋の島嶼国家を滅亡の危機に至らしめているなどと、高度成長期の日本人は空想すらできなかった。

 自然保護のことに話が集中したがそれだけではない。日本の経済が閉塞状況にある原因の一つが国内産業の不振だ。私たちは安価なものを求めて外国産のものを日常的に使っている。国産のほうが品質がよいなどといいながら、結局安価な方に手を出す。日本のものは売れないから、企業も設備投資がしにくくなり、最後の牙城とも言える高品質、高機能という要素も怪しくなっていく。これも自分の購買行動が結果的にどのような結果をもたらすのかを想像することができないことによるものだ。結果として給与は上がらず、安価な外国産のものしか買えなくなる。高いけれど品質やデザインのよい国産品があるのなら、それを選び価格の分だけ使い続ける方が実は個人としても国としても経済的なのかもしれない。

 そんなことは分かっているんだという人は多い。でもそれが行動に移らないのはなぜだろう。やはり私たちは察する能力、想像する能力を疎かにしているのではないだろうか。そしてそれを涵養するのは日常的な人間関係を豊かにすることであり、文学を始めとする芸術の分野にもっと注目することなのかもしれない。

老兵の戦い方

 多くを望まず自分のできることを恬淡として行うことがこれからの生き方の目標である。それはある意味後退であるが、撤退ではない。最前線には立たないがしっかりと事態に立ち向かう。体力や気力の減退はいかんともしがたい事実であり、それを前提としてやれることを粛々と行うしかあるまい。

 最近の自分の行状を省みるにエラーが多く、十分な貢献ができていない。私は全く手抜きをしていないのだが、それ以上に気力体力の減退の方が大きい。進もうと思っても足が動かないといった感じである。もがくが足掻くが前に進まない。そんな感じである。

 この様な状況になることはなんとなく予想はしていた。しかし、いつその段階になるのかは分からないし、仮に分かったとしても何もできないだろう。加齢という宿命に関して私たちは無力である。敵は見事なステルス攻撃を仕掛け、いつの間にかに本丸まで侵入してくる。そして一気に首を取に来る。

 だから前線で戦うのはもうやめて、後方をしっかり固めることにしよう。老兵にはそれなりの戦い方がある。消え去る前にやれることをやっておこう。

脳の老化に

 誠に悔しいことだが、脳の老化を自覚することがある。まだ幾分意識がはっきりしているうちに、いまの焦燥を記録しておく。

 一番、このことを痛感するのはマルチタスクができなくなっていることだ。例えばパソコンで作業中に別のことをやろうとすると、さきほど何をやっていたのかが分からなくなる。これは悲しい事実だが今は毎日経験していることだ。私は研究職をしていた時期があり、自分のペースで作業をすることには慣れていたが、今の職場のように臨機応変を重視する環境には全く馴染めない。その最たるものがパソコンによるマルチタスクである。

 脳が認知に果たす役割は大きい。認知される世界が変わるとならば世界観価値観のパラダイムシフトも起きる。つまり老化がもたらすのは世界の縮小化、歪曲化である。見えるものが変わりかんじることが変わってしまえば総体的世界観も大きく変わる。

 本当に見ているものと脳が捉えるものとに差があるならば、いかにすればいいのか。そのような問は無意味で、私たちは脳というフィルターを通してしか世界を実感できない。だからそのフィルターの調子か変わることは一大事なのである。

 親の老化を見て痛感している。誰にも避けられない脳の老化がある。そうなってしまうともう感じられない何かがある。すでにかなり進んでしまっているが、今の状態で何ができるのかを考えてゆきたい。

世代感覚の差

 たまたま立ち寄った食堂で従業員同士で話しているのを聞いてしまった。曰く高校生のアルバイトとは常識がなくて困る。こちらが10言っても2か3しか理解してもらえない。常識というものが通じない。全く困ったものだけれど、来てもらわないともっと大変だから仕方がない。

 要約すればその様な意味のことを数回にわたって別方向から繰り返し話している。さぞかし苦い思いをさせられたのだろう。執拗で悪意がこもっていた。そう話している男を見てみれば彼も私から見れば十分に若い。話を聞いている先輩格の男も私からすれば若手の方だと言える。彼らにとって高校生のアルバイトの振る舞いは許しがたいものらしい。

 それを言うなら、と私は思う。私という客がいる前で、業務上のトラブルを話す神経が理解できないとも言える。非常識と主張している君こそ何か間違っていませんかと言いたくなる。世代的な格差というのはこのように重層的にあるようだ。この文章をお読みなった先輩の中にはこう考える人もいるだろう。何を小さなことをこだわっているんだ。そんな胆力の小ささは理解しがたい、などと。

 学生の頃、新人類などと呼ばれ、最近の若者はと嘆かれた。いまはそれを次のもしくはその次の世代に向けて同じことを考えている。だからZ世代はとか言い方は変わっているけれども。世代による感覚の差は育ってきた環境によって変わる。時間とともに劣化しているのではない。自分に馴染み深い習慣とは異なる振る舞いをされることが耐えられないのだろう。私もそう感じる一人である。

デザインを楽しむ気持ち

 デザインの不思議というものがある。実は全く同じものでも色合いや、ちょっとした装飾があるだけで雰囲気が大きく変わる。例えばいつも使っている手帳に植物の柄のシールを貼っただけで開く回数が増えた気がする。表面的なすこしの変更でも変わるのである。

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 さらに形を変えたり、人が使いやすいような工夫を施したりすることで使い勝手は大きく変わる。このことをもう少し重視すべきだというふうに考えるようになった。

 物事の根本的技術的な改良には経験と時間とが必要だ。これはなかなか一般人が参加しにくい。しかし、出来上がったものを自分の使いやすいようにデザインすることは誰にでもできる。そういう気持ちを持っていればであるが。

 私ができるデザインとしては先程のべた装飾などの付け加える作業や、複数のものを組み合わせること、場合によってはある要素を取り除いて機能を限定してしまうこと。あるものを他のものの中に内蔵してしまうことなどがある。こういうデザインを考えることは日常を楽しく豊かにできる。

 もののデザインのことばかり書いたが、行動の仕方や考え方にもデザインができる要素がある。形はないが敢えてやり方を変えてみることだ。習慣的に行っていることを変えるのにはエネルギーが必要であり、覚悟もいる。デザインを楽しむというマインドがあればそういうことも達成できていく気がする。





背筋を意識的に伸ばす

 背筋を伸ばすことを意識しておかなくてはならない。まだ高齢者とは言えないが、それに近づいている私は様々な身体の異変を日々感じている。加齢すれば起きることであるからこれは仕方がない。どんなにうわべを飾っても身体的な変化は避けられない。

 白髪についてはずいぶん前から認知していた。今は定期的に染めているので気づかないけれども何もしなければほぼすべてが白髪のはずだ。皮膚のしわは隠せない。ただ、こちらは日々見慣れているせいで逆に注意が向くことはない。自然に抜けた歯がもっとも加齢の悲哀を感じさせる。

 なんとかできそうなのが背筋である。背筋の衰えなどから猫背になり、やがて腰が曲がる状態になる。これについても私は高齢化の悪魔からの招待状を受けているような気分になることが多い。なるべく荷物を持って歩くこと、そしてときに意識して背中や首を伸ばすこと。背筋の衰えを克服することを意識することを考えている。気がつけば曲がっている腰をその都度直すのである。

 今のような生活がいつまでできるのかわからない。なるべく健康を保ち、自分にも他人にも迷惑をかけないようにしたい。