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値上げの春

明日から値上がりする商品がある。アルコール飲料の値上げは痛いが、これは私にとっては自戒にもなるからまだいい。困るのはトイレットペーパーやティッシュなどの生活必需品の値上げだ。生活必需品の値上げは生活を直撃する。チーズなどの乳製品やソーセージなどの加工食品も値上げが決まっている。

資本主義社会では値上げとともに賃上げが連動しなければうまくいかなくなる。それがうまくできていないから経済は停滞する。少子高齢化は確かに大きな不安材料だが、それ以上に金回りをしない仕組みになっていることに問題がある。海外への投資は結構だが、その金が国内に循環しなければ意味がない。富裕層には日本で金を使うことをお勧めする。さもなくば近い将来、多大な損失が出るだろう。

 アメリカが関税をかけることでしか未来を展望できなくなっているのも困ったことだ。資本主義が制度疲労を起こしているというのは間違っていないだろう。この影響もこの後やってくる。国内経済を軽視するこれまでの政策は見直しを迫られている。

自分の目で見ること

 自分が見られる世界は限られている。だから、見渡せる範囲のことを世界と思うのかもしれない。この見渡す範囲は情報機器の発達によって広がったかのように思える。インターネットによる情報の伝達は画面上だけではなく、しばらくすれば五感にわたる様々な感覚をも伝えることが可能になるかもしれない。

 でも、やはりどんなにその技術が発展しても、自分が関係することができる世界はやはり限られている。機器の力を借りて分かったかのようなつもりになれても、それを実感として掴めるのかといえばやはり少し違うのかもしれない。私たちはこのことを忘れがちだ。

 人工知能の発展とともに私たちが直面している世界の捉え方はまた変化していく可能性がある。自分が目の前にあるものを本当に自分の神経とか感性といったもので感受することをやめてしまうのではないかという懸念である。自分の受け取り方は間違っているとか、ほかの受け取り方と比較して劣っているのではないかと考え出すと、もう自分でものを見ることもしなくなる。すると目の前にあるものでも自分では見なくなってしまう。そういうことはもうすでに起きている。

 本当に大切なのは何かを子どもたちにちゃんと考えさせたい。私の課題の一つがそれである。

残念ながら

 このブログを書くために使ってきたスマートフォンが最近不調で困っている。投稿したつもりの記事が結局アップロードされず、記事が渋滞してかなりあとになってようやくそれに気づくといったことがしばしば起きている。年季がきているのだろう。最近のアプリに対応しきれていないことも原因だ。

 ただ、最近の私はこの賞味期限切れのものに対する同情心がある。有効期限が過ぎたからと言って、すぐに廃棄してしまう心性にはどうしても馴染めない。道具は使い続けていくうちに愛着が湧く。古い道具でしか表現しきれない芸術的な瞬間を演じるのは、演じている貴方を見渡してみるのか。こういう選択を敢えてしておきたい。

大学に入る前

 はるか昔のこと、大学合格が決まって入学式までの間は私にとってかなり危険な期間だった。受験勉強しかしていなかった数ヶ月の期間にすっかりと世間知らずとなり、さまざまなものが弱くなった私を標的にしてきた。

 新興宗教の勧誘はさすがに避けることができたが、英会話教室の巧みな勧誘はあと少しで騙されそうになった。大学に入れば受験英語は役に立たない。大切なのは会話力だと力説されるとそうかなと考えてしまうものだ。いまだに英語は苦手だが、会話ができなくても大学では少しも困らなかった。もちろん、同じ教室に英語が堪能な人がいたのは確かだが。

 私の高校の男の同級生の大半は浪人していたから彼らを誘うのも何となく気が引けた。かといって女子の同級生と気軽に遊べるような高校生ではなかったので、結果的に空白のときを送ることになった。

 何をしたのかは実はあまり覚えていない。でも、いまより一日一日が濃い印象だけは残っている。大学に入って暫く経っていろいろな出会いがある。人生に大きな変化が起きたが、その変化を経験するとそれ以前のことが急におぼろげになった気がする。

 卒業というのはそういうものなのだろう。間もなく私も違う意味での学校を卒業することになるが、きっといまの生活の感覚はその後忘れていしまうはずだ。ならばいまの生活のあれこれを味わっておくのも大事なのだろう。

降雪予報

 今日の降雪予報はかなり高いらしい。関東の雪予報は難しい。僅かな差で雨に変わり、そうでなければ積雪になる。

 積雪と言っても数cmに過ぎないのだが、この程度の雪でも東京を麻痺させるには十分なのだ。雪の備えのない街にとって降雪は脅威でしかない。雪国の人は呆れるというが、私のように両方の地域に長く暮らした者にとっては、どちらの言い分も分かってしまう。

 北陸に住んでいたとき、雷鳴とともに降りしきる雪に驚いた。みるみるうちに積雪が増え、すべてを埋めつくすかのように見えた雪を懐かしく思う。そんな経験を持っているのにもかかわらず、関東暮らしが長くなるとすっかり油断している。

 年に数回しかない降雪のときに、臆することなく乗り切れるのか。経験も大事だが、油断せず目の前の状況に対応することが必要だろう。

寒さ慣れ

 寒い日々が続ているうちに身体が順応してきたのかもしれない。寒冷順化というそうだ。かつては少しでも寒いと震えが止まらなかったのに、それほどでもなくなっている気がする。

 もっともこれは今の気温が続いていることが前提であり、さらに寒くなればやはり過去と同じようになるだろうし、逆に暖かい日が数日挟まると順化の恩恵はなくなってしまいそうだ。体感とは相対的なものであり、気温ではなく気温差が感覚に大きな影響を及ぼす。

 気温だけはなく、感覚的なことの大半は変化によって感じ取るもののようだ。演劇や映画の世界では悲劇の前に必ず穏やかな場面を置く、観客はそこからの落差に感動し、時に涙を流す。緊張と緩和の組み合わせが要だというが、これも人の感覚の特性をとらえたものなのだろう。

ソーラー時計に不安な季節

 私の腕時計は太陽電池で動いている。スマートフォンと同期するいわゆるスマートウォッチでもある。ソーラー発電によるスマートウォッチはさほどない。機能は限られているが、バッテリー切れを気にせず使えるのはありがたい。

 ただソーラー腕時計を使うものにとって今は忍耐の季節でもある。日光を十分に当てられず、だんだんと充電量が減ってしまっているのだ。関東に住む私にとって日光は冬でも十分にある。ただ、上着や外套を着ると時計が袖の下に隠れてしまい。時計に光が届かないのである。私の時計は残りの電力が表示されるのだが、見るたびに情けない状態になっている。

 ソーラー電池用の発電ための電灯があるそうだが、本末転倒な機械には躊躇する。でも、上着が取れる季節までは時々袖をまくり上げて光を当てる日々が続きそうだ。

日常のメタ認知

 その立場にならないと分からないことがある。例えば偶数月の15日になぜATMが混雑するのかということをつい最近まで知らなかった。それが切実な問題であることを知るとこの日をとても切なく思うようになっている。近くが見えなくなることの苦しさも最近痛感している。視力は単にそれだけではなく、総体的な判断力、処理の速度にもかかわるから重大な問題なのである。高齢者がしばしばうろたえたり、不機嫌になったりすることをなかば冷笑していた自分がいま逆の境遇にある。

 後輩のときは先輩の理不尽な行動に反発していたのに、自分が上の学年になると同じ事をしてしまうというもの学校ではよく見られる。昔から今に至るまで変わらない。時に大変革を訴える者が出ても、その後継者はすぐに絶えて、また理不尽な先輩が登場する。学校を卒業してもこの習慣は変わらず、世の中の上司と呼ばれる人の中には、部下の立場を慮れなくなっている人がいる。学校と違って数年で卒業しないから厄介である。そして彼が退職したときに部下のいない悲哀を知ることになるまで続くのであろう。

 自分の身の回りの世界をどのようにとらえるのか。結局自分の目で見たもの、感じたことを基準にして価値観を形成することになる。それが社会の実際の在り方と乖離してしまったとき、独善的な生き方が展開するのだろう。自戒を込めていうが、日常をメタ認知する努力を失ってはなるまい。そのためにも他人の生き方への関心を深めなくてはならないと思う。文学を学ぶ意義もそこにあるはずだ。

闇バイトの対義は

 闇バイトという困った事案がある。警察はこれに対抗するために仮想身分捜査という方法を検討しているという。これは捜査のために偽の身分証明書等を使い、犯人グループに潜入捜査とするというものだ。いわば悪を懲らしめるための悪である。最近の悪質な犯行から考えると仕方がないのかもしれない。少なくとも捜査官が入るかもしれないという事実が多少の抑止力になるかもしれない。捜査官は命がけということになる。心配だが職務には敬意を禁じ得ない。
 闇ボランティアの対義は何かという話題もある。光バイトという人がいるが、バイトの性質を金銭を得るための短期労働もしくは非正規雇用の形態と考えるならば、何が光なのかは分かりにくい。社会的に認められ、利他的な結果につながる公共性の強い労働に従事するアルバイトならばそれに該当するのだろうか。しかし、これは闇と光という対称しかみていない。バイトの対比としては金銭の獲得を目的としないボランティア活動が想起される。ならば光ボラが対義なのであろうか。
 ボランティア活動は無賃金労働かといえばこれも違う気がする。ボランティア活動には無償性のほかに、自発性と無償性が必要とされる。そしてある時には費用の一部を受益者が負担する場合もある。例えば遠隔地から来たボランティアに対し、宿泊所を用意したり、食事の提供をすることなどはボランティア活動の意味に抵触しないだろう。
 忍び寄る衰退基調の中で、少しずつ人々の心がすさんできている気もする。こういうときほど慈善の精神を考えることも必要であろう。それが光ボラの実践で果たせるならば社会は変わっていく。

味気ないサービス

 最近いろいろな店が機械化をして、人件費を節約しようとしているらしい。飲食店の配膳ロボットはすでに市民権を得ているが、掃除をしたり、公園保護の仕事をするのは機械の得意とするところだ。こうしたことの機械化は人口減少の未来の救いになるかもしれない。

 ただ、対人的な雰囲気を重視する人たちにとっては残念なことなのだろう。日本に訪れた外国人が日本の様々な優良なサービスを称賛したあと、飲食店の注文がタッチパネルなのは残念だという。世界有数の接客サービスと聞いていたのに、実際はむなしくタップやスワイプをするだけだったというのだ。接客を楽しみにしている人にとっては今の状況は期待を裏切るものであろう。

 経済効果とか効率化とかそういう言葉では測れない何かが客商売にはある。顧客に満足してもらうことが大事だ。そのためには熟練した従業員が必要であり、彼らを雇うことができるだけの資本力が要ることになる。価格に転嫁されれば格安店には勝てなくなる。安いが味気ない店か、高いが印象の良い店か。今は選べるだけ幸いだ。今の調子で人口減少が続き、移民を受入れず人手不足のままならば、味気なさが蔓延することになる。