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振替輸送

 年に数回ではあるが鉄道の事故などの影響で振替輸送を使うことがある。遠回りすれば別の路線でも辿り着ける所に職場があるので、最終手段として利用するのだ。

 普段乗らない路線を通勤時間に利用するのはちょっとした覚悟のようなものが要る。どのように利用すればよいのかという情報がないからだ。もちろん、振替輸送のときは大抵改札はフリーパスになる。ただ、何号車のどの位置に乗るべきなのか、改札に近いのはどこかなどといった詳細な情報が足りないのだ。振替輸送で平常より混雑した車内において、こうしたことは大切なのだ。

 逆に言えば普段使っている路線に関して、様々な注意をしながら乗車しているということなのだ。混雑が少しでも少なく、下車時に苦労しない場所を日々の経験によって習得しているということなのだろう。振替輸送は非日常の世界を感じさせてくれるきっかけだ。利用する機会がない方が良いのは決まっているのだが。

原付は125まで

 知らない間に、正確には私がぼおっとしている間に原付の規定が変わっていた。原付は125ccまでだそうだ。かつての50㏄からすれば倍以上だ。もっとも出力制限があり、2人乗り禁止、最高時速30キロの制限は変わらない。

 原付は免許を取るときに一度乗っただけで、実は経験値がない。ただ風を切って走れる自転車よりも楽で速い乗り物には魅力を感じてきた。恐らく地方都市に住み続けていたら買っていたかもしれない。

 今となっては自動車と同じ道を走ることに恐怖を感じてしまう。もう少し若い頃ならばなどと様々な言い訳を考える。いつか乗る機会はあるのだろうか。

コンビニの巻物

 コンビニでよく買う食べ物に納豆巻きがある。理屈を越えて好きだから定期的に買ってしまう。このコンビニの巻物の包装が秀逸である。海苔が米と接しないようにフィルムが施されており、食べるときにその遮蔽を取り去って食すように設計されている。

 しっとりとした米と具に対して、海苔はあくまで乾燥した状態でなくてはならない。これを実現するためには、具と海苔を分離する特殊な包装が必要なのだ。コンビニ巻物はそれを見事に実現している。

 中身のフィルムを取り除いてから、海苔に巻きつける作業はちょっとしたコツが必要だ。経験したことがない人は始めは戸惑うだろう。外国人観光客にも是非挑戦してみてほしい。海苔は乾燥したままで食べたいという日本人の特別のこだわりを知っていただければ、きっと旅の発見の一つになるはずだ。

 私はこの包装法の開発者に敬意を表する。あなたのおかげで救われた人がどれだけいるのか。日本の味を安価に再現する技法の開発者に心から感謝したいのだ。

個人レベルでのアップサイクル

 これまでは廃材扱いされていたものを製品として利用し、商品価値を見出していくことをアップサイクルというのだという。使用されたものを再利用することや、その素材を別の形にして利用するリサイクルとは別の概念だ。リサイクルの多くは、二次利用の方が商品価値が低い。これをダウンサイクルというのだそうだ。つまりアップサイクルは素材の価値の再評価を基にしている。

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 大量生産と大量消費、そして大量廃棄が私が生きてきた時代の主流であり、それこそが経済の成長の基本と教えられてきた。それが地球規模の環境破壊の進行が明らかになり、その影響があらわになっている状況下で見直しが余儀なくされているというのだ。究極的には使わないのが一番なのかもしれないが、それでは人間の文化的な生活は維持できない。そこで有限の資源を極力使いつくすという考え方が広まりつつあるのである。

 そうはいっても何をもってアップサイクルできるのかというのは知恵がいる。少しでも何かが欠ければすぐに新しいものを買い足すことを続けてきた私たちには、そもそも価値のあるものを見分けられる目が育っていない。これはこういうことにも使えるという発想力が必要なのだ。コピー用紙の余りを、計算やメモの用紙に使うのは先ほどの分類でいえばダウンサイクルである。メモ用紙は結局捨てることになるからだ。でも、その用紙で何か造形して芸術品として仕立てると話は変わる。結局いつかは捨てなければならないが、捨てるまでの日々に見る人の感情に何らかの形で働きかけるオブジェになることで、別の価値が与えられたからである。

 食品加工や建築素材の分野では様々な方法でアップサイクルを模索しているようである。素材観の見直しで新商品を開発することが急務のようなのである。私が考えるのは個人レベルでのアップサイクルには何が必要かということだ。そこには無価値と考えられてきたことに価値を見出す想像と創造の力が必要であるのは間違いない。そしてそれは意外なところにある。空き缶をペン立てとして利用しているのはささやかながらアップサイクルの一例であり、ふた付きの缶を様々な収納用に使っているのも捨てるよりはいい。そういうところから始めるべきなのだろう。

寒さの実感

 寒波到来を予感するような曇天の一日だった。夜には大粒の雨が降った。北陸ならば雪になりそうな気配だ。関東は種々の条件が揃わないと雪にはならない。

 明日の予想最高気温は10℃だという。本格的な冬の陽気を感じ始める気候になるだろう。この気温はもっと寒い季節になれば、小春日和のような感覚で捉えられるはずだ。でも少なくとも今の時点では少し脅威を伴った寒さである。

 体感はいつでも相対的なもので、暑いとか寒いとかはその前の数日との体感差に過ぎない。ゆっくり寒くなるのと、急激に冷え込むのとでは同じ気温でも印象は全く異なるのだ。

 明日は急激な変化となりそうできっと凍えるように感じることだろう。でも、そんな日が続くと今度は最高気温が二桁あることが特別のことのように感じられるようになるはずだ。

もう終わりですか

 霜月も今日で終わり。あまりにあっけない。もちろんこの月にもいろいろなことがあり、得ることも失うことも多かった。それにしても痩せ細った秋のように、この月はあっという間に終わってしまう。

 明日からは十二月ということは年末ということになる。私の生活体系においては単なる通過点に過ぎない。でも、やはり年が変わることには特別な感情が伴うものである。

 残り1か月で何ができるのか。そういう考え方をしなくてはならない。私の基本的な考え方として、残された時間で何ができるのかという期限付きの思考がある。だから、あっけなく過ぎていく時間に対しては少し敏感にならざるを得ない。

スマホの写真

 スマホで写真を撮ると最近はアプリがいろいろな提案をしてくる。露光を変えるとか背景とのコントラストをつけるとか、あるいは一部を動画のように動かしたりとかいろいろある。また時系列順に並べて見せたりとか、同じような構図の写真を並べてコラージュしたりもする。

 映像をパターンとして認識して分類したり合成したりするのは、人工知能の得意とする分野のようだ。便利であり、ときには楽しく使っている。

 ただ、写真を見る人の気持ちまでは推測できないらしく、過去の自分と今の自分を並べた写真を見て何を思うのかは分からないようだ。10年余りでここまで変わり果てるのか、そういう思いはコンピュータには理解してもらえないのかもしれない。

休養

 なにもかもなげだして休養したい日がある。ただ、それはできないことだとも分かっている。次にやらなくてはならないことがいつも心の底にあって、今はそれをやるための一時的な休憩なのだと考えてしまうのである。

 恐らくそれが当たり前のことであり、完全な休みなどありはしない。何かをし続けることが生きている証なのだろう。

 ただ、やるべきことが今のままでいいのかについては考えてみなくてはなるまい。もっと別のことをやってもいいのではないか。その方が人のためにも自分のためにもなるのではないか。休みの日になるたびに考えてしまう。

寒くなった

 急に寒くなった。ただ、今回はいろいろ身構えていたせいなのか、いまのところ大きな体調の変化はない。毎年、この時期に風邪やインフルエンザもどきに罹る私にとってはまだ油断がならない。栄養を摂ることと休むことが大切なのは分かるがそれができないのが、今の私である。とにかくやるしかない。

旅の途中

 ごく稀に自分は何でこんなことをしているのだろうと思うことがある。日々の生業にあくせくして、他人からの毀誉褒貶を受けながら、お前は何をしているんだと考えてしまう。子どもの頃から植えつけられた価値観のもとで、何か絶対的な基準があるかのように幻想して毎日を過ごしている。でも、一歩引いてみればそれは恐らく幻覚のようなものだ。多くの人が同時に見ている夢の中でそれに相応しい振る舞いをしているのに過ぎない。

 いま正しいと思ってやっていることは、基準が異なれば全く違う評価になる。現実と信じている日常は多くの人がそのようであれと考えている幻覚のようなものだ。何が正しいのか、邪悪なのは何かと言った弁別は言ってみれば時価のようなもので座標軸が変われば全く別の世界が出現する。

 私たちは生きる世界を選択することがほぼできない。個人の理想を追求するのはよいが、それが自分のパートナーにどのように響くのかは全く分からない。自分にとっては理想的な世界であっても、隣人には苦痛そのものかもしれない。誰を基準にするかで世界は大きく変わってしまう。

 だから、いまの身の回りの世界を絶対的なものとみるのはやめた方がいい。たまたまその世界にいて、多くの人がその世界の立ち回り方としてやってきたことを模倣しているのに過ぎないのだ。いろいろな世界がある可能性を忘れてはならない。そんなことが分からない自分はまだ旅の途中にいて彷徨っているのだ。