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今の形になる前の

 都会に住んでいると、ここがもともとどんな土地であったのかを考えることを忘れてしまう。始めからアスファルトに覆われ、高いビルが建っていたのではない。人間生活がもたらすさまざまなものだけが表面にあって、そのほかが目隠しされているような毎日にすっかり慣れてしまっているのだ。

 今の形になる前を思いやるには地形を俯瞰的にみるのがいい。もちろん整地されて形は少しずつ変わっているが、山や丘陵はそう簡単には動かない。河川は移ろいやすいものの、水源から河口までの経路はある幅をもって変動している。そういうものを感じ取る必要がある。

 そのためには実際に歩いてみなくてはならない。その傾斜を実感することでその地がどういうところだったのかを想像することができる。ただ、歩ける範囲だけでは時間がかかるので、乗り物に乗って移動することも同時に行わなくてはならないであろう。そして、過去の資料を調べることも必要だ。近世以降なら古地図もあるし、絵画として残っているものも参考になることがある。

 自分の住んでいるところがかつてはどんなところであったのかが分かれば、いまそこで生活していることのありがたさや素晴らしさが確認できるかもしれない。そういうことを忘れて、今を消費するだけの生活をしていると、よくないこともしてしまうような気がする。

リーダーはアイドルではない

 イスラエルとアメリカの同盟がイランの首脳を攻撃して殺害したという。ネタニヤフ氏もトランプ氏も自身の進退に関わる選挙を目前としてあるいは利己的な目的でこの戦争を仕掛けたのではないかとも言われている。

 真相は分からないが、どうも権力者たちの横暴がポピュリズムに担保されて歯止めが利かなくなっている現状がある気がする。もしこの推測が正しいのなら、民主主義は重大な局面を迎えている。

 よく分からないが、なんとなく印象がいい指導者に自分の望みを託し、本当にそれにふさわしいかどうかを検証せずに臣従してしまう。あたかもアイドルを推すかのように無批判に全肯定してしまうのは、かなり危うい行動なのだが、それに気づく間もない。

 トランプ大統領が自身の見解をソーシャルメディア垂れ流すように、現今のリーダーは批判の手続きを省略し、とにかく言ったもん勝ちの様態がある。リーダーが正しい判断をできれば何の問題もないが、それができない場合は悲劇が待っている。民主主義の制度設計をした人たちは気づかなかったのだろう。私たちはしばしば間違える。多数決は真実を特定できない。

 これは極めて残念で、信念を挫く事実だ。現在の人知では民主主義が必ずしも最善の方法ではない。寧ろ危険な世界の糸口になっている。多数決は絶対と学んできた真理が偽となったとき、われわれはどうすればいいのだろう。残された手数はほとんど残されていない。

 少なくとも現状が最良の状態とは思わないのが肝要だ。

受験生の頃

 受験生だった年のこの頃はどんなふうに過ごしていただろうか。考えるといまより脳の反射神経なるものははるかに優れていた。分かることも分からないこともはるかに早く見極めがつき、分かることに集中する思い切りもあった。いまの生徒諸君に比べれば、いろいろ情報不足で周囲の人が垂れ流す様々な噂を半ば信じてそればかりに集中することもできた。参考書を何度も解いたり、少し大きめの声で世界史を講談のような調子で覚えたりした。

 2月も下旬なると大抵の大学は試験が終わり、結果も出てくる。私は下旬になっても合否の発表がなく、どうせ浪人だろうと思っていたが、何とか合格を取れた。もっとも行きたかった地方の国立大学も合格できたのだが、親の意見で結局都内の私立に進んだ。学費に下宿費を加えればそれほど差はなくなるし、実家からの通学はあとから考えればかなりお得であったことは間違いない。ただ、そのときはかなり複雑な思いであった。

 3月に卒業式がいきなりあり、同級生男子のほとんどが浪人していたので、遊びにも誘いにくく、孤独になってしまった。英会話、新興宗教の誘いに乗りそうになり、危うく避けて孤独な日々を送った。それが今ごろの季節であったことを少しずつ思い出している。

 受験勉強は集中的にいわゆる学力を伸ばしたのかもしれないが、生きる力とか真実を見抜く能力については成長を期待できない。私にとっては18歳の3月を無事に乗り越えられたことが奇跡のようにも思えてしまう。もし、その年代の方が読者におられたら、もしくはお知り合いにおられたら、是非考えていただきたい。受験勉強は大学に入るための手段の一つであり、それで合格できたからと言って何かが終わった訳ではない。寧ろそののあとの方がやるべきことが多い。高校とはまったく違う大学生活に適応するまでは焦らず、即断せず、本当にやりたいことは何かをよく考えることだ、と。

雨降って

 雨が降ったせいなのか、花粉症の症状が少し楽になった。すると、なぜか集中力が上がった気がする。何も良くなった訳ではないのに、悪い状況から抜け出すとなぜかとても良くなった感触になるのだ。

 どうやら、私の感覚というものは随分あやしいもので、極めて相対的に感じ取っている。先日まで耐え難かったものが、それ以下の状態を通過して快適な部類に範疇を変えてしまっているのだ。

 雨が降るのは必ずしも悪いことではない。その後の曇りが期待できるからだ。

本降りの雨

 今日は朝から本降りの雨だ。予報によると夜まで続くという。乾燥した毎日だったのでこんな日もあってよい。何よりも貯水池の水量が少しでも回復することを願うばかりだ。利根川水系のダムの中には貯水率が3割を切ったところも出ている。

 とりあえず今朝は小さな折り畳みしかない私にとっては何とかしなくてはならない試練が待つ。やはり駅前にあるレンタル傘を使うのがいいのだろうか。

花粉症最盛期

 昨日からまともに花粉症の症状が出ている。鼻水が止まらない。例年、こうなるときが数日あり、次第に治まる。どうしたらよかったのか思い出しているが分からない。

 こういった問題は本当に深刻なときはあれこれ悩んでいろいろ考えるのだが、ピークを過ぎると急にどうでもよくなる。そのときのことを記録でもしておけばよいのだが、事態が収束したあとはそれが億劫にしか思えなくなってしまうのである。

 今回こそは記録をしようと今は思っている。ひと山超えて同じ志を保てているかは分からない。

地理感

 東京の地理感は鉄道の路線で把握している。だから、実際に歩いてみると意外に遠かったり、逆にかなり近かったりするのだ。意外と起伏があったり、川が隔てていたり、歩いてみないと分からないことがある

東京も粉雪

 今朝は東京でも粉雪が舞っている。今のところ積もりそうもないがこのまま低温が続くとどうなるか分からない。関東は雪の備えがないので少しの積雪で様々な障害が出る。今日は運転する予定があるので積もらないことを祈るのみだ。

 ニュースによると雪国の積雪は深刻らしく、北陸ではさらに70㎝の積雪があるかもしれないという。融雪装置が効かなくなるまでにならないことを祈る。屋根雪の除雪で事故になる件も多く報じられている。少しだけ雪国暮らしを経験した私にとってはその恐ろしさは実感できるものである。

 子どものころは雪が降ると心躍った。福岡に住んでいたころ、記録的な寒波の影響で北九州でも積雪があり、従兄弟のおにいさんが作ってくれたにわかのそりで斜面を滑ったことをなぜか忘れずに覚えている。おそらく大人たちはいろいろ大変であったはずだが、そこには考えは及ばなかった。いまは雪が降るたびに面倒なことばかりを考えてしまう。当然といえばそうなのだが、純粋に天気の変化に感動する気持ちがかなり薄れていることを思うのである。

 何はともあれ、この雪で痛い思いをする人が出ないことを心から祈る。

朝日のかげ

 平日は毎日同じ時間の電車に乗る生活をしている。だから日の出の時間が少しずつ早くなっていることを実感できるのである。

 今日の東京の日の出は6時44分だったようだが、これは冬至の時よりも3分程度早い。そのくらいの差ならよく分からないはずだが、従前の理由により気がついてしまうのである。車窓から見える風景の明るさや、朝日が作る陰影の具合が少しずつ変わっている。

 これからは変化の割合が大きくなる。3月頃に日が延びたと感じられるのはそのためだという。春が来たという実感と花粉の季節の到来が同時に来る。

 朝のルーティンはこのところ固定している。あれこれ考えないのは楽だが、日々の刺激というかそんなものが消えてしまった気がする。だから日の出時刻の変化を感じるのは私にとって実はとても大切なことなのだろう。

 

豪雪

 ニュースによると北陸ではかなり雪が降っているらしい。積雪のためにさまざまな障害が起きつつあるというから心配だ。

 除雪にはいろいろな危険も伴うので十分に注意していただきたい。特に人力で行う場合は要注意である。無理のないようにしていただきたいと思うばかりだ。関東は乾燥した晴天、毎年思うのだが、この差の激しさは日本の特徴ではあるが、何とかならないものか。