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同じ風景を見ても

 同じ風景を見てもそこから何を感知するのかは個人差がある。まったく同じ対象から感じ取るものは違うのだ。このことを多くの人は感覚的には知りながら、実際には思い違いしている気がする。

 事実なり現象なりそういう具象的なものは絶対的なものと考えられやすい。でも、ある現実をどのように解釈するのかは個人差がある。この事実を私たちはしばしば忘れる。個人の間の争いはまさにここを源泉とする。それが集団の、国家の、イデオロギー間の格差として現出することになる。

 ただ、以前よりもこうした問題は分かりやすくなった。私が子どもの頃は自分の属する集団の秩序が絶対化され、それに従わないものを排除することは当然のことと考えられていた。常識という黄金ワードがすべてに優先するかのような錯覚をしていたのである。それが、もしかしたら自分たちの思い込みに過ぎないという相対化がなされたのが現代の高度情報社会の成果だと言える。

 これは良いことのように思えるが、実はそんなに単純ではない。自分の信じる基準が実は相対的なものであり、物差しとして役に立たないかもしれないという疑念は、自らの立ち位置を極めて曖昧にしてしまったのである。あなたの感想でしよ、と言われると尻込みしてしまう自分が出来してしまったのである。

 物差しを失った人間にとって、頼みの綱になるのは何か。多くの人にとって、それは既成の物差しをわが物にすることだろう。そのときにその尺度に対する批判精神が働けばよいのだが、大抵の場合、無批判に受容されてしまう。世の中がそんなふうに動いているのだから、私もそれに従うべきなのだと。

 するとその先にあるのは時勢に流される意志なき個人だ。自分にも自集団にも責任を取らない人間たちの結束なき群衆が幅をきかすことになる。それを自由と呼ぶのか無秩序と呼ぶのかは立場によって分岐するが、いずれにしても御しがたい事態に至ることは間違いない。

巨大な都知事候補ポスター掲示板

 都知事選挙のポスター掲示板の大きさには呆れている。数字は30までふっているが、不足することが予測されているため、欄外にも枠がある。それでも足りなくなる可能性があるらしい。

 首長選は政党の選挙ではないが同じ政党から複数立候補するのはやめてほしい。質より量で衆目を集めるのが目的だろう。選挙をビジネスにすることは明らかにおかしい。そのためにかかる経費は都民の税金からなる。今からでも候補を絞るべきだ。

 都知事は注目度が高く、ある意味首相よりも民心を掴みやすく、政治家にとってはうまみのある仕事なのかもしれない。また、選挙に出馬するだけで一定の宣伝効果がある。だからといって金に任せて気軽に立候補するのはいかがだろう。結果的に民主主義の質の低下をもたらしている。子どもたちに都知事選のあり方は残念な事例としか紹介できない。

 都民以外の方が巨大な掲示板を見かけたら是非笑っていただきたい。そして次にこの国の行く末を案じていただきたい。

磯野波平は54歳

 サザエさんの父親の波平は54歳の設定である。そう聞くとかなり驚く。65歳くらいだと感じている人が多いのではないか。

 ただ当時の男性の平均寿命は60歳くらいであり、ならばあの風貌は当然だ。余命は10年をきっているのだから。

 源氏物語において光源氏は四十の賀を行う。平安時代において40歳は後期老齢者の仲間入りをする年齢であった。光源氏はここから柏木による不倫により、転落の人生を始める。現代の40歳は中年と呼ばれるかもしれないが、中にはかなり若々しい人も多い。少なくとも老齢ではない。

 人生のスケールが過去と現在では大きく異なるということだ。現在は幸いにも高齢化が進み、人生をゆったり構えていられる。歴史的にいえばこれは偶然であり、今後さらに長くなるのか、短くなるのかは分からない。

 波平さんがあの容貌なのはおかしいということの解釈が、老けすぎなのか若すぎなのかは、時代によるということになるのだ。個人的には波平よりも高齢な己が彼ほど存在感がないことを焦るばかりである。

日にちとしての過去最高気温

 このところPCの天気予報ウィジェットに今日はこの日としての過去最高の気温になるかもしれないという意味の表示をしばしば見る。今日などはおそらくその日になるだろう。私の住む町の予想最高気温は33℃であり、過去の最高気温は2007年の31℃である。

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 ひとつ前の記事で書いたようにこれからは次第に気温は下がり続ける。10月7日ごろに夏日を脱すると予想されている。つまり10月まで夏がずれ込んでいくということになる。10年位前、将来、日本は四季がなくなり夏と冬だけになるかもしれないというテレビ番組があった。まさかと思ったが今それが現前にある。

 なんでも最高を目指すべきだとは昨今の風潮であり、そのために多くのものを犠牲にしてもいいというのが暗黙の了解になっているようだが、こと気象に関してはなるべく突出してほしくはない。寒暖を不快に思うだけならばいいが、生態系に影響が出れば、農業や漁業などが影響を受ける。その結果、食糧危機が生じれば世情の不安定化にも直結する。

 よく言われるようにこの気候変動が人間の生活に由来するものであるならば、やるべきことを始めなくてはならない。本当に持続可能エネルギーというものが存在するのかわからないが、変えられるなら変えた方がいい。少なくともいらない消費は控えるべきだろう。生産活動だけが人間が生き延びる方法だという考え方を変えなくてはなるまい。

 言うは易く行うは難しである。今ある生活の水準を下げて生きるという選択が私たちにできるのだろうか。今このようなことを書いている私は十分な照明と冷房の入った部屋の中でタブレットパソコンをインターネットにつないでいる。その電力を作っているのはおそらく化石燃料がもとであり、それは多大なエネルギーを消費して原産国からタンカーかなにかで輸入されてきたものだ。狐とか狸とか熊などの野生動物が話せるとしたら、どの口が言うとなじられそうだ。

 こういう時代はいつまで続くのだろう。ふと、そう思うことがある。私が生きている時間はもう限られているが、その後の世代は今と同じような生活ができるのだろうか。温暖化もしくは寒冷化の気候変動に耐えうるのだろうか。そんな漠然とした不安を覚えてしまう。それも今年の長すぎる猛暑のせいだ。

面白さを伝えられていない

 最近の反省は学習の効率ばかりを追い求め、楽しさを伝えられていないことだ。今の世代には面白さや身近さが大切なのだと最近気づいてきた。方針転換を考えている。

 効率よく上手にやることに関しては最近の世代は非常に長けている。デジタルデバイスを駆使して瞬く間に終えてしまう。ただそれらの多くは作業であり、印象には残らない。過ぎていくだけなのだ。

 本当に残るスキルなり、知識の獲得には先に呼べた自分とのつながりを感じることが必要なのだろう。その表現の一つが面白いということであり、興味や関心を引くということなのだ。

 では、どうしたらそのような教え方ができるのだろうか。流行におもねるのではなく、何か大切な要素がある気がする。それを考えるのがこの夏の課題の一つだ。

副操縦士

 マイクロソフトは生成AIを組み合せてIT業界のゲームチェンジャーになろうとしている。WordやExcel、PowerPointなどのソフトウェアに生成AIを組み合わせることで画期的な事務系ソフトウェアを作ろうとしている。しかもその名はCopilotという。

運転手は君だ? 車掌は僕だ?

 副操縦士を意味する言葉を商品名に置いたのは、あくまでも主体は人間であり、AIはその補助役だと言いたいのだろう。ただし機長の座は安泰ではない。副操縦士が優秀すぎるのだ。

 Excelで自動作業をしようとすれば、これまではマクロとかコンピュータ言語の知識が不可欠だった。それが将来的には日本語で指示するだけでプログラミングしてくれることになりそうだ。もうこうなるとソフトウェア自体がブラックボックスだ。箱に入れるだけで見事に求めるものを出してくれる。ただ箱の中身で何が行われているのかは知らない。

 そういう時代がすでに始まっている。便利だが説明できないものに囲まれる環境に覆われつつある。シンギュラリティは近い。

 私たちは機長席を死守すべきなのだろうか。安全で無事故率が限りなく100に近いなら、副操縦士の昇進を祝うべきなのか。

 私としては少なくとも自家用セスナにおいては機長であり続けたいと考えている。その結果墜落死しても構わない。いつまでも飛び続けますがどこに行くのかは教えませんというよりましな気がする。おかしいだろうか。

古典教育不要論者の気づかないこと

 古典教育に対する批判には伝統的なパターンがある。そんなことをやるならばもっと実用的なことをやったほうがいいという考えだ。これをかなりの学識者がいうから騙されてしまう。

 古典不要論者は自らの意見が古典の知識でできていることに気づかないか敢えて無視している。古典を学ばずに過ごせば実用的な人間になれるだろうか。プログラミングを教えろという人は、おそらくそのスキルを習得するのに苦労したのだろう。そして成功し、もっと早くからやっていればよかったと考えたのだ。投資などの金融スキルを子どものときから教えろという人もいる。さぞかし儲かっているのだろう。

 気をつけなくてはならないのは、プログラミングもファイナンシャルスキルも年々習得しやすくなっており、何も小中学校で教えなくても十分にものになるということだ。こういうやり方が決まっているものはコンピューターに代替されていく。

 人工知能の発展は答えのある問いの処理には人間は敵わないことを痛感せしめている。大事なのは非定型かつ意味のある情報をどれだけ持つかであろう。古典文学や歴史から学ぶことは多義性を持つ曖昧なものが多いがそれ故に大切な思考の材料となるものだ。それを学ぶのを止めようというのは自ら進んで機械の配下に降ろうと言っていることと変わらない。いい加減にこのことに気づくべきだ。

矛盾を教える

 人間のできることの最高値は矛盾を教えることだと考える。理屈ではおかしくても経験上、文化的にこうでなくてはならないということはいくらでもある。それらを簡単に因襲のごとく囲い込もうとしてもうまくいかない。

 私たちのできる最大にして最良の方法は、この論理矛盾を受け入れる度量を持つことである。うまく説明はできないが確かにそうだ、ということはいくらでもある。その現実を踏まえるべきなのだ。

 効率を重視しすぎるシステムではこの論理矛盾が挟み込まれる余裕がない。だから最適解を提示しても実現不可能ということが多い。辻褄は合わないがこうすることがよいということは人間しかできない指導法だ。私はそういうことができるようになりたい。

即時性

 現代の人々の気質として即時性の偏重がある。すぐに結果が出なければやる気にならないということだ。答えが出ないものは無価値とさえ考える。いろいろなことが即座に実行できるようになったために、結果を求めすぎる。

 私のような世代にとっては、すぐに結果が出るようなことはレベルの低いことだった。本質的なことはなかなか形にならないものであり、具現化するために様々な努力をすることこそ人生の要諦と考えた。

 だが今は違う。結論が出ないものは価値が低いと考えられがちだ。超高速のコンピューターに途中の計算をさせ、結論を急ぐ。結論の出ない問いはそもそも発問が間違っていると考える。考えてみればとても窮屈な思考回路だ。

 このような性急な環境では状況対応型の考え方しかできない。何が真実かとか、善悪の判断とかそういうものは後回しになりやすい。貧困な思想しかできない。

 恐らく私のような時代遅れの人間に出番があるとすれば、日々の判断にあくせくせず、少し引いて考えることを提案する役になることだろう。失笑や嘲笑をものともせず、真実を探る尊さを示すしかない。

 そうすればわずかに数人が気づくかもしれない。答えがあることばかりが良いのではない。むしろ容易には解答が見つからないことの方が価値が高いこともあるのだと。

経験と感触

 物事の本質を見るためには直感が必要なのだろう。ひらめきと言ってもいい。それはまさに天から降ってくるような感覚だ。

 その直感はどのように培われるのだろうか。天賦のものという表現もある。しかし、これは先天的な要素だけではうまくいかない。経験と感触の記憶のようなものが影響していると言われている。

 天才と言われる人は何もせずに能力を発揮できると信じられている。ただ、その才を表出する前に基盤となった経験をしていることが多いようだ。一見結びつかないような出来事から才能を開花する養分を得る。自分でも意識しないうちに準備ができているということになる。その組み合わせが起きる可能性が低いため、天才は希少なのだ。

 天才にならないまでも、私たちは一見結びつかないが経験やそこから得られた感触が知的活動の基盤になっていることに気づかなくてはなるまい。役に立つことだけをやろうとする昨今の風潮はその意味でかなり危険だ。シンギュラリティを恐れている人間が進んで機械の思考システムに近づこうとしている。