
以前も書いた隣家の蜜柑の木が豊作の果樹のために大きく撓んでいる。中には地面に付きそうな枝まである。
道に面したこの木は手を伸ばせば誰でも取ることができる。にもかかわらず誰も手を付けず、鳥たちも餌にしていない。まるでもう少し甘くなるのを待っているかのようだ。
木には言葉がないのでこの状態をどう考えているのか分からない。実の中に仕込まれた種を遠くの適地に運ばれることを期待しているのだろうか。多大なエネルギーを消費して自らの生命を危険にさらしてまで結実させようとする命の営みに感服する。
日々の思いを言葉にして
タグ: 植物

万葉集にも秋の七種として数えられているオミナエシは、秋の風景の基本的な色合いを見せる。原風景の中にある野草だ。
ところが私のすみかの周囲からはほとんど見えない。黄色い花はあるがその多くが外来種だ。中にはブタクサのような厄介なものも含まれている。オミナエシは繁殖において劣勢らしく私の生活圏から消えつつあるということだ。
オミナエシには女郎花という漢字が当てられる。ここでいう女郎はお嬢様というくらいの意味だろう。万葉時代から優美な女性の姿にたとえられている。そう思うと愛おしくも感じる。
外来種による植生の変化には人間の歴史が大きく関与している。今見る風景も今後はどうなるか分からない。オミナエシの咲く風景が古典の風景であることは伝えていかなくてはならないことなのだろう。
急に寒くなり、冷たい雨も降って驚く身体を如何に御していくか。大事な局面である。マスクを外していいと言われても、別のウイルスも心配になる。そんな微かな不安をしばし忘れさせてくれる風景に出会った。
通勤途上の道に植えられている蜜柑の木に鈴生りに実っている蜜柑が色づき始めているのを見つけた。毎年なるのだが今年は特に豊作のようだ。誰の所有物なのか分からず、持ち主も摘果しないので大抵カラスたちのごちそうになるのだが、今年はカラスだけでは処理できないかもしれない。
すぐ近くにゴミの集積所があるので、それこそカラスか何かがあさってこぼれた中に蜜柑の種があり、それが育ったのだというストーリーを考えてみた。やや無理があるけれども。
この蜜柑の立っている位置は道路の建設予定地の近くであり、今後の運命は分からない。まだやったことはないが、一度くらい蜜柑泥棒をしてみようか。

なでしこは万葉集でも詠まれている。大伴家持は恋人をこの花に例え、特に大切にしたようだ。
日本人女性はこの花に例えられることが多い。ナデシコと呼ばれる花は幾つかある。日本の在来種はカワラナデシコとかヤマトナデシコとも呼ばれるもので、鮮やかなピンク色が印象的だ。白に近い花もある。細く分かれた繊細な花びらもいい。山野に自生するが、園芸店でも売っており、鉢植えする人も多い。先に述べた家持には自分の庭に播種したという歌があり、園芸の伝統は古い。
万葉集の秋の七種にも詠みこまれている。伝統的な秋の花ということになる。繊細そうな花だが、意外に強い。また、完全な自然林には咲きにくく、里山のような環境の方が繁殖しやすい。そういうことも含めて日本女性に例えられているのだろうか。

『万葉集』でもっとも多く詠み込まれている植物は桜ではない。桜は5番目であり、4番目は橘、3番目は松、2番目は梅、そして一番多いのは萩なのだ。もっとも万葉仮名では「芽子」などと表記され、これをハギと読むことにしている。
ちなみに日本では「萩」といえば写真のようなマメ科の植物を指すが、本来古代中国の「萩」はヨモギ科の植物を指すらしい。秋の植物といえばハギということで「萩」がハギと読まれるようになったのだろう。その意味で「国字」として使われているということになる。
萩が多く詠まれたのはこの植物がかなり古くから日本列島に自生していたことに加え、何らかの信仰的な要素があったからかもしれない。実りの秋に豊富な花をつけるこの植物に何らかの意味を感じたのかもしれない。やせた土地でも繁茂することに生命力を感じたのも知れない。
このように秋の植物の主人公であった萩だが、若い人に道端に咲くこの花を指さし、その名を訪ねても答えられる人は少ない。文化の基本は自然との関係である。もっと関心を持ってもらってもいいのではないか。