タグ: 植物

無意識の選択

 新緑の季節である。万緑といってもいい。緑に励まされ、力をもらえる気がする。ここ数日心身のバイオリズムが下降している私にとって、この光景は何よりもありがたい。

 草原に目を凝らすとすすきの穂が残っている。この植物は強いので枯れても形が残ることが多い。しかし、それに気づく人は少ない。私も最近発見したのであり、しかもすぐに忘れる。風薫る季節とすすきの亡骸は結びつかない。そういうものはたとえ視界に入っても認知の枠からは除外される。

 私はよくものを見ているようで、実は見たいものを見ている。現実そのままを見ることは難しく、ある程度の枠組みの中に入ったものを捉え、そうでないものを取り除いているのだ。写真に撮った風景の印象が変わることがあるのはそのためだろう。

 今は風景に癒しを求め、そこから得られる何かを期待している。考えてみれば歳時記の季語と言うのものはそうした見たいもの感じたいもののリストなのかもしれない。

若葉

 新緑の季節である。最近気づいたのだが、このころの若葉は黄色味が強い。恐らく日に当たるうちに濃い緑になっていくのだろう。若葉は目立ちやすい。これは生物学的には不利なのかもしれない。それが他の生き物を支えているならば意味があることかもしれない。植物をみるといろいろなことが考えられる。

5月

 連休の谷間ではっきりとしないが今日から年度の2つ目の月が始まる。今朝は入り込んだ寒気のせいで肌寒く、午後は暖かくなるかわりに雷雨になりやすいという。

 5月といえばやるべきことが少しずつ軌道に乗り始める頃だ。また、うまく行かないことは何かが見え始めるときでもある。これが過剰に感知されると気持ちがくじけやすくなる。

 うまくいく方が奇跡であり、大体は成功も失敗も同時に起こるものと考える方が当たっている。ついていると思うときは、その裏にある多くの不運に気づいていない。逆もまた真なのである。

 行き詰まったときは木々の新緑を見よう。5月はそれには最適な季節だ。植物の生命力を感じて自分の糧にしてみよう。

シャガ

 山野に自生する草花の中では美しさの上位に入ると私が思うのがシャガである。射干とか著莪と書かれることもある季語の一つだ。

 この可憐な植物は中国原産という。種子を作らないため、植生地を広げにくい制約を持ちながら、日本で広く分布するのは、この花を愛好する人たちが持ち運んだからだと言われている。山道などでも見るが、これも人が植えたり、かつて住んでいたところであったりするという人為的要因が考えられるそうだ。

 美しさ故に子孫繁栄に繋がるという例の一つと言えるのかもしれない。

スズラン

 この頃のきれいな花の一つにスズランがある。清楚な感じがする花で子どものころは北国に行かないと見られないと勝手に考えていた。

 ところがあとになって園芸店で普通に売られていることが分かり、よく当たりを見回すと鉢植えなどで育てている例を見かけるようになった。多少コツがいるらしいが、決して難しい草花ではないようだ。

 この花は見た目の清楚さとは裏腹に強い毒性を持っている。触ったり、香りをかぐくらいならば何の害もない。ただ、食べると非常に強い毒が場合によっては死に至らしめるのだとか。まさに両極を有する花なのである。

 もっともスズランを食べようなどと思う人はいないだろうから、多くの場合は美の世界の存在として翫賞される。この花にまつわる個人的な思い出とともに、見るのが楽しみな植物なのである。

クレマチス

 隣家のクレマチスが咲き並びだした。鮮やかなコバルトブルーと白の二種だ。もう何年も見させていただいている。南国を感じさせる派手な花柄たが、植物学的にはあれは花びらではなく萼なのだという。

 南国と書いたが、現在の園芸種のクレマチスが出来上がるには、日本に自生しているカザグルマや中国由来のテッセンなどが交配されているという。シーボルトが日本から持ち出し、品種改良されたというから、紫陽花などと似ている。

 俳句の季語としてはテッセンがよく使用される。蔓草の丈夫なのを鉄線に例えたのだろうか。その鋭い響きと、実際の花の可憐さの対比が面白い。美しいものには、何らかの裏があるというストーリーも浮かびやすい。

 クレマチスをみると少し豪華な気分になるのがいい。困ったことは日常に溢れているが、それをわずかに忘れさせてくれる。

藤波

 藤の花が咲き始めた。公園などに見られる藤棚はとても美しい。よってくるクマンバチには驚かされるが、彼もまた花の虜になった仲間と思えばよい。あちこちに藤の名所はあるが、私にとって印象的な場所があるので紹介しよう。

 富山県氷見市にある田子浦藤波神社の藤は一見の価値がある。これは万葉集に収められているこの辺りで作られた藤の歌にちなむものである。8世紀の半ば、越中国守となった大伴家持は、任地の風土を多くの作品に残している。ひみのあたりは低湿地だったらしく、布勢水海と呼ばれる湖沼もしくは入江が存在したようだ。藤波神社はその推定地の中にあり、浮島のようになっていた小丘と考えられる。

 神社の歴史も藤の花も万葉時代まで遡れる保証はないが、地元の人がそう信じてきたことは尊い。その神社の藤は山藤の類で、境内を覆い尽くすように絡みつき圧倒している。私が訪れたのは随分前のことだから、今はどうなっていることだろう。

 私が見た藤の花では最も印象的なものの一つだ。他にもあるがまたいずれご紹介したい。

三色すみれ

 スミレの仲間は実は結構強い。万葉集の赤人の歌に詠まれているからスミレ自体はかなり古くから日本人に注目されていたことになる。三色すみれはパンジーのことだが、この可憐な姿に反して結構強い。

 富山にいた頃、冬場の花壇の彩りを保つのはパンジーであり、積雪を経ても生き残り、チューリップの咲くまでの隙間を埋めてくれた。

 東京に帰ってもパンジーの強さを実感することがある。アスファルトの破れ目の僅かな隙間にもパンジーは咲く。こんなところにもと思う。花のサイズを小さくして適応しようとするのは雑草のような強さである。

 パンジーを見るたびに雪国の冬場を慰めてくれたことに感謝している。

シラン

 紫蘭は蘭と名の付く植物の中ではもっとも身近だ。ことごとしい世話はいらないので庭先に植えられる。ある程度まとまって植えられているものを目にする。

 調べてみると原産地は日本を含む東アジアで、野生種もあるらしい。この国の風土に適合してきたということになる。ただ蘭があるというだけで何か贅沢な気持ちになれるのはこの花の良さである。

 すでに開花が始まっており、群生が咲きそろうのもあと僅かだろう。心遣りには最適な花である。

ヒナゲシ

 道路脇の僅かな空間にヒナゲシがこぼれ咲きしている。恐らくどこかの庭から来たのだろうが、それと思われる家は代替わりして園芸には興味がなくなったようだ。花だけが敷地外に生き延びた。

 ヒナゲシは虞美人草ともポピーとも言われ、名前ごとに印象が異なる。可憐で華やかなお花でいかにも弱々しい趣きだが、こぼれ咲きに耐えるだけの繁殖力がある。見た目と異なる生命力に驚く。

 項羽の無念に例えられる草花が存外逞しいというのは意外だ。いやそれ故に悲劇性は増すのかも知れない。