タグ: 日本

ビニール傘

 日本には天候が変わりやすい季節があり、特に突然の雨で足止めを食うことがしばしばある。そこで安価なビニール傘が500円程度で売られており、そこそこの強度もあってよく使われる。しかし、強風などで折れたり曲がったりすることも多く、使えなくなってしまうこともある。それを路傍に捨てて帰る不届きものもいる。ゴミの不法投棄には自主規制をする気質の日本人だが、物によってはこの箍(たが)が外れることがある。迷惑だし、何よりも環境問題対策に逆行している。

 ただ、壊れた傘の行き先は不燃物としてのごみというしかない。何かに再利用できるといいのだが、思いつかない。ネットで検索すると傘のビニールの部分を上手に組み合わせてバッグを作る例が紹介されている。それを専業としている企業もあり、製品を見るともともと傘であったことが分からないほどのデザインのいいものになっている。作り方を紹介しているサイトもあるが、少々敷居が高い。ただ捨てるだけではないという可能性を示してくれているのはいい。

 傘の骨の部分は特に処理に困るが、ある人はうまく組み合わせて園芸用品にしたり、インテリアにしている人もいるようだがこれもかなり技能を要する。しかも一つあれば事足りるものばかりで、大量に廃棄されるものを処理するには向かない。

 使い捨て傘という概念をまずなくすことが必要だ。そして強度を強くすることと、逆に部品を分解しやすくするという矛盾する二つの問題を解決する必要があるように思う。再利用の方法をもっと周知させることも大切だ。身近な環境問題としてエコバッグよりも大事なものの一つがビニール傘の行く末に責任を持つことであろう。

Photo by Adrianna Calvo on Pexels.com

梅雨空続く

 雨が降り続いている。予報でも傘マークが並び、梅雨明けは持つ少しあとのようだ。ここ数日は気温も上がらす、ときに肌寒く感じることさえある。

 本来であれはオリンピック直前の時期であり、さまざまなプレイベントが行われていたはずだ。学校は学期を切り上げて夏やるべきことをいま行うはずだった。例えば部活動合宿は今ごろ行う手はずで宿も予約を済ませていた。

 降り続く雨の中でもマスクが外せない日が続いている。やるべきさまざまなことが流れ、それを悔やむ暇もない。押しつけられた新しい日常に心身の方が流されている。梅雨空はかえって諦めがつくきっかけかもしれない。

融合する力

 新しいものを作り出すことは容易ではありません。無から有を生み出すことを目指すよりは今あるものを組み合わせたり、取り合わせたりすることの方が結果的に新境地に達する可能性を高めます。

 もともと日本という国は地勢上、新発見や発明をするには不利なので、外来のものを自分流に組み直すことをしてきました。物資が限られている中で最大限の効果を発揮できるアレンジをして凌いできたのです。

 私たちはそのことを思い出す必要があります。外来のものをそのまま受け入れるだけではなく和風化するたくましさを取り戻すべきです。現在、世界的評価を受けているものの大半はこの日本アレンジの産物です。文化を融合させる能力を再評価すべきだと考えるのです。

夏越の祓え

 日本の古い習慣に「夏越の祓え」があります。これで、なごしのはらえ、と読みます。19世紀以前の日本では月の満ち欠けを基準とした太陰暦が使われていたため現在とは実際に指す日時が大きく異なるのですが、6月末日は意味のある一日でした。

 夏越の祓えは旧暦では夏の最後の日とされていました。またそれまでに犯してしまった罪や穢れを消し去る儀礼が行われたといいます。それは身体についたほこりでも落とすかのような気楽な罪悪感です。もちろん、どれほど真実として受け入れていたのかはわかりません。呪いの一つのようなものだったのでしょう。

 一年の折り返しに身を清めてリセットをしようという考え方の方に注目します。半年という意識がどれほどあったのかも興味深い。また、清めた身体が様々な能力なり活力なりを復活できると考えていたのかも知りたいことろです。

 旧暦の6月末日は今年の場合は新暦8月中旬であり、古人の祝った日とはほど遠いのですが、半期に一度の心の大掃除の日ということにして今日を送りたいと考えています。

夜明けの地震

 午前5時の少し前に千葉県沖を震源とする地震がありました。最大震度は5弱とのことです。私の住まいのあたりも3程度の揺れが少し長めに続きました。

 今朝はしっかりとした降雨もあり、コロナウイルスの感染の脅威も消えていないとあって悪い要素が揃ってしまいました。このあとの梅雨末期の災害はかなり高い可能性として、大地震の発生は低いけれども影響甚大な要素として常に考えていなくてはなりません。

 日本人の心性を語る上でこの天災との付き合い方は不可欠の要素です。

ロックダウンが正しいのか

 日本の各都市にはロックダウンは出されていません。世界の主要都市が法的に外出禁止を促しているのに対して日本はまだ各人の自主性に任されています。ただ、今日は日曜日ですがほとんどの大型商業施設やエンターテインメント業界、プロスポーツの試合は中止されています。一方で生活必需品を販売するスーパーやコンビニは開業しています。また個人商店や小規模経営のレストランなどは開店しています。よって食料のライフラインに異常はありません。公園に行くと人々はマスクをつけて歩いています。

 日本のこうした方法について批判も出ているようです。今回の新型肺炎はステルスの性格があるようで、多くの感染者には無症状か軽症で済み、それが重症化する要素を持っている人に感染すると悲劇が生じるというのです。これはこのウイルスの病理的な現実であり、尊重しなければならない情報でしょう。感染地域に住む若者が自身の身体には何の異変もないのに、里帰りした先で高齢者に感染させて結果的に重症者を出してしまうということが現に起きています。

 ロックダウンという強制的な方法は短期的な施策としては有効なのかもしれません。ただ、これを続けていくことは不可能です。経済活動が止まれば弱者から痛みを受けていきます。社会保障をするといっても即効性があるとは限りません。私は甘いかもしれませんが、社会活動を継続する方向を模索するべきだと考えています。そのためには今回のウイルスに対して脆弱な条件を抱えている人を保護することが必要になってきます。そのため、年齢や既往歴などに応じて保障の度合いを変えていくことが必要です。こういった方々は一概には言えないものの、経済的に不利な状況にあると考えられますので積極的な援助によって社会から非難していたける仕組みを作るべきではないでしょうか。

 ただ、これは差別などの人権問題を多分に誘発する問題になりそうです。期限を決めた緊急措置であることを周知させて行うべきでしょう。またもっとこの病魔に対する情報を国民が共有する必要があります。私はロックダウンはできて3週間程度ではないかと勝手に考えています。次の手を考えるべきです。

不安軽減

 日々厳しい現実が報道されています。新型と冠する病魔の持つ底なしの不安が人々の冷静さを打ち砕いて行くことが懸念されます。まずは不安を取り除く、もしくは軽減するための具体的な行動が必要です。

 政府や自治体の要請で営業や興行を取りやめたり、削減したりした企業や団体は無数にあります。そこに一定の補償をすることは難しい。できたとしてもその後の経済活動に致命的な打撃となります。できるのは負債の返済を軽減したり、期限を先延ばしにできる制度を早急に導入することではないでしょうか。

 非常事態こそ指導者の腕の見せどころです。決断を期待します。

教員として

 なんとか新学期は始められそうな状況になってきました。しかし、ウイルス流行の峠が見えない現状ではいつまた中断するのかわかりません。たとえば関係者に陽性反応が認められた時点でおそらくまた数週間の学校閉鎖という措置になることは十分に考えられます。すると、これを機にこのような事態でも効果を失わない教育方法を考えていく必要があります。

 大前提として、発送の大転換をしなくてはなりません。教員は情報を伝達するのではなく、学習の仕方を教える存在にならなくてはいけないということです。自ら教えることができない事態が起きるということは今回の件で痛感しています。生徒が一人になってもどうやって学習すればいいのかをはっきりと示すことができることが教員の大きな役割になっているといえます。

 学習の方法論を示せばいいというわけでもありません。もっと大切なのは学ぶ意味をはっきりと伝えられるということです。今の子供達にとって学びは将来の自分の人生を大きく左右する知識とスキルの蓄積の機会です。私自身の人生におけるそれよりも今の生徒世代の方が学びの有無による人生の差は大きく出てしまいそうな気がします。もちろん格差社会は避けなくてはならないですが、現状が格差拡大に向かっている以上、獲得できるスキルや経験は若いうちに積んで置くべきでしょう。そのことを危機感を持って、しかもいたずらに恐怖を煽ることなく伝えることは教員の重大な責務であると感じています。

 根気ややり抜く力も大切であることも伝えなくてはなりません。誰もが効率よく目的を達成できるはずはない。むしろ多くの人は失敗の繰り返しです。そのなかでも挫折することなく、何度でも立ち上がる力を育てることはこれからの日本社会にとってはもっとも重要なスキルであると感じています。これを伝えることも重要です。

 仲間と協力することの大切さも伝えなくてはなりません。一人の力では如何ともしがたい現実が若い世代には待ち受けています。その中で必要なのはともに考える力です。小異を捨てて大同につく力です。小さなことにとらわれて死活問題的な大問題を見失わないようにさせることがなによりも大切です。

 こうしたことを新学期には生徒に伝えていこうと思います。いつ学校が中断しても自ら学びを続け、向上することをやめないい人材を一人でも作ることができたなら、私の存在価値があるというものです。

Photo by Pixabay on Pexels.com

9年目

 今日で東日本大震災から9年目になりました。歳月の流れること速くすでに記憶が薄れつつあります。忘れてはならない忘れたい記憶です。

 地震の発生時は職場にいて午後の仕事のめどが付き始めていたころでした。突然の大きな揺れで動揺しましたが、意外にも冷静に行動できていたと考えます。恐らく関東の地震はものを倒すほどではなかったことや、丈夫な建物の中にいたからでしょう。建造物の一部崩壊による死傷者は東京でも出ていました。

 記憶に残っているのは震災後の不安です。エネルギー不足による暗くなった照明、計画停電、原発事故による放射能汚染の恐怖など、どうしようもできない恐怖感が静かに襲いかかっていました。度重なる余震が落ちつきかけた心をかき乱しました。

 いろいろな意味で厳しい状況の中で平静を取り戻すことができてきたこの時期に、今度は世界規模のウイルス流行で再び社会不安が増大しています。震災9年目にあたって必ず立ち直るという決意を新たにしょうと考えています。

いるところにはいます

 報道によればコロナウイルスの感染を恐れるあまり町が空洞化しているといいますが、昨日近隣の商店街にいったところいつもと同じようににぎわっていました。子どもたちの姿も見られました。メディアリテラシーが必要です。

 レジャー施設が休業したために行き場をなくした人たちは、営業時間を短縮した商業施設に集中しているようです。確かにマスク着用率の高さは異常ですが、この時期の日本ではそれも違和感はありません。一部のメディアの報道では町が静まり返っていると報じていますが、私の見た実態とは大きくかけ離れています。

 そもそもリモートオフィスなり、テレワークなりの転換についてはウイルス流行とは無関係に推進されるべきものであったのですが、今はそれが強制的に進められています。家庭でもできる仕事は家庭で行い、家族や地域とのふれあいの機会を増やすというのは一種の理想的な労働形態だったのでしょう。地域の商店街の賑わいはこのように実現されていくのかもしれません。

 住宅地域の平日の人口も増えており、それ以前より「賑わっている」ということもできそうです。町は静まりかえってはいないという事実を書き残しておきます。もちろん普段とは異なる人口配置がもたらす様々な問題については感がなくてはならない新たな問題でしょう。