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第一印象

 初めて接したモノやコトに対して抱いた印象は大切にするべきだと考える。それが結果的に思い違いであったとしても、そのときどのように感じたのかを覚えておくことには意味がある。それは対象の評価というより、自分自身が対象とどのように関係したのかを示すことになる。

 個人的な経験では、第一印象がそのまま対象の評価に結びつくことはあまり多くない。大抵はその後の展開で大きな価値観の変更を迫られる。その後に形成されたイメージが対象に対する考え方を形成する。

 ならば第一印象は無意味なのかと言えばそれは違うといいたい。さまざまな条件を配慮せずにこうだと思ったというイメージは時にはその本質を考える材料となる。理屈ではない何かが大切なのだ。

 ただ、この第一印象は極めて短命で風化しやすい。さまざまな要因で変化しやすい性質を持っている。そして、それがいかに衝撃的なものであれ、すぐに新しい印象に上書きされてしまう。だから、そのときどう見てどう考えたのかはかなり意識的に記憶しなくては残らない。そのためにも未完成の評価を記録する方法があればと考えている。

日常のメタ認知

 その立場にならないと分からないことがある。例えば偶数月の15日になぜATMが混雑するのかということをつい最近まで知らなかった。それが切実な問題であることを知るとこの日をとても切なく思うようになっている。近くが見えなくなることの苦しさも最近痛感している。視力は単にそれだけではなく、総体的な判断力、処理の速度にもかかわるから重大な問題なのである。高齢者がしばしばうろたえたり、不機嫌になったりすることをなかば冷笑していた自分がいま逆の境遇にある。

 後輩のときは先輩の理不尽な行動に反発していたのに、自分が上の学年になると同じ事をしてしまうというもの学校ではよく見られる。昔から今に至るまで変わらない。時に大変革を訴える者が出ても、その後継者はすぐに絶えて、また理不尽な先輩が登場する。学校を卒業してもこの習慣は変わらず、世の中の上司と呼ばれる人の中には、部下の立場を慮れなくなっている人がいる。学校と違って数年で卒業しないから厄介である。そして彼が退職したときに部下のいない悲哀を知ることになるまで続くのであろう。

 自分の身の回りの世界をどのようにとらえるのか。結局自分の目で見たもの、感じたことを基準にして価値観を形成することになる。それが社会の実際の在り方と乖離してしまったとき、独善的な生き方が展開するのだろう。自戒を込めていうが、日常をメタ認知する努力を失ってはなるまい。そのためにも他人の生き方への関心を深めなくてはならないと思う。文学を学ぶ意義もそこにあるはずだ。

日没

 日の入りの時間が早くなりつつあることを実感するようになった。今日は17時54分だった。日中は相変わらず暑いが、日照時間が減れば少しずつ気温は下がっていくはずだ。

 そういえば空の色も少し変わってきた。とても緩やかだが、夏から秋への移ろいが進んでいる。

概念の更新

 自分の考えていたことと現実が大きく異なるという事実に時々出会う。自分の中でかってに作っていた想像の姿が現実には全く別のものであるという発見だ。これは知識の不足からくることもあるが、むしろ自分ではそう思っていたのに現実は違っていたということの方が多い。

 なにかの対象についての概念は日々の経験や、他者から受けた情報などで少しずつ形成される。しかし、どういうわけかどんなにたくさん情報があっても自分が作った骨組みにそって取捨選択がなされ、結局は現実とは遠い概念が生まれてしまうことになる。そして、一度ある程度それが出来上がると修正することが困難になる。思い込みというものが形成されるのだ。

 日常生活において自分の身近で常に繰り返されるものは、それに対する概念が更新されていくが、少々縁遠いものだと誤った概念が修正されることなく残ってしまうことがある。それがあるときなにかのきっかけで急に真実に接することになると、最初に述べた衝撃が発生することになるのだ。齢を重ねていくとそういう機会は減っていくがそれでも必ずある。長年考えていたことが実は間違いであったことを知るのは驚きと羞恥とそして喜びを含んだ感動をもたらしてくれる。

 大切なのはそういう概念の更新を怠らないことなのだろう。もうなんでも知っている。なにも学ぶことはないといった学習停止をどうやったら避けられるのか。それが私にとっての大きな課題なのである。

世代感覚の差

 たまたま立ち寄った食堂で従業員同士で話しているのを聞いてしまった。曰く高校生のアルバイトとは常識がなくて困る。こちらが10言っても2か3しか理解してもらえない。常識というものが通じない。全く困ったものだけれど、来てもらわないともっと大変だから仕方がない。

 要約すればその様な意味のことを数回にわたって別方向から繰り返し話している。さぞかし苦い思いをさせられたのだろう。執拗で悪意がこもっていた。そう話している男を見てみれば彼も私から見れば十分に若い。話を聞いている先輩格の男も私からすれば若手の方だと言える。彼らにとって高校生のアルバイトの振る舞いは許しがたいものらしい。

 それを言うなら、と私は思う。私という客がいる前で、業務上のトラブルを話す神経が理解できないとも言える。非常識と主張している君こそ何か間違っていませんかと言いたくなる。世代的な格差というのはこのように重層的にあるようだ。この文章をお読みなった先輩の中にはこう考える人もいるだろう。何を小さなことをこだわっているんだ。そんな胆力の小ささは理解しがたい、などと。

 学生の頃、新人類などと呼ばれ、最近の若者はと嘆かれた。いまはそれを次のもしくはその次の世代に向けて同じことを考えている。だからZ世代はとか言い方は変わっているけれども。世代による感覚の差は育ってきた環境によって変わる。時間とともに劣化しているのではない。自分に馴染み深い習慣とは異なる振る舞いをされることが耐えられないのだろう。私もそう感じる一人である。

寝落ち

 睡眠不足の日々が続いている。寝落ちという言葉は大袈裟だと考えていたが、最近は本当に落ちる。それも突然なので困る。

Are you sleepy?

 ならば早寝すればいいということで床に就くと、一度は寝てもすぐに目覚める。浅い睡眠になっているのだ。高齢者の眠り方と聞くが、残念ながらこれである。よく眠れないから毎日眠い。実によくない。

 半跏思惟像の如く品よく居眠りしたいものだが、おそらく醜態を晒しているに違いない。半覚醒の状況でアイデアが浮かぶこともある。それだけがよいことといえば言える。

10月後半に

 今日から今月も後半に入る。今日は少し気温が上がるとの予報だがさすがに秋の深まりを感じる。長すぎた夏のせいなのか、快適となった今頃にかえって疲れを感じているのだ。

 いろいろ試しているうちに少し生活が複雑になってしまった。これからは整理を少しして生活をシンプルにしていく。何でも片づけて自己満足することには与しない。見た目は変わらなくともやりやすいように作り変えていくのが目標だ。

 鞄をリュックのようにしていたのをやめた。するといままで背負っていたために感じなかった重みを感じている。いまより持ち物を減らさなくてはならない。軽量化するために持つ道具の選び直しをせねばなどと考える。こんなふうに季節の変わり目は生活の仕方を見直すことも必要だ。

交差点

 交差点を見下ろす席に座ると、いろいろな人間模様が見える。それは仕組まれていないドラマのようだ。多くの人がそれぞれの目的に向かって歩く。それぞれの速度とそれぞれの歩き方で。

 なかには信号を待ちきれず歩き出してしまう人もいる。速度が遅くわたり切れない人もいる。大きな荷物を担ぐ人も、ジョギング姿で駆け抜ける人も。それぞれがそれぞれの目的で交差点を通り過ぎる。

 彼らが10分前に何をしていたのか、2時間後には何があるのか、そういったことを妄想していると不思議な気持ちになる。そして自分もまたこの交差点を渡って今日の務めを果たす。

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現実味

 周りを見回すとやけにスタイルのいいそして完璧なメイクアップの女性、相撲取りのような立派な体格の若い男性、初老のサラリーマン、優秀なエンジニアというようなスタイリッシュな男性がいる。偶然ではあるが、いかにもと言えるような人たちに囲まれた。

 私が強烈な違和感を覚えたのは彼らが放つ存在感がどこか現実離れしているように思えたからだ。まるで演劇のキャラのように際立っていたのである。それは日常というものが喪失される感覚であった。

 おそらく個々の人物については彼らの日常を見せたまでであり、特別なことではなかったはずだ。その組み合わせに私が勝手に違和感を覚えたのに過ぎない。さらに推測すれば、それぞれの人物が自らの存在を少しずつ飾っているために、それが複合してアンリアルを演出したといえる。

 日常の複合が非日常になることを再確認したという話である。こういう経験はしばしばあるが今回はそれを表現することができた。

方針転換

 私の中で健康を気遣い無理をせず無難に生きるという人生観が揺らぎ始めている。長生きをして何になるのだろう。長生きを最終目的にするのは間違っているのではないかと思うようになった。

 大切なのはいま何ができるかであり、自分のやったことがどれだけ他者の幸福に寄与するかということなのだ。長く生きることはその結果であり目的ではない。

この歳になってようやく気づいた。今やれることを少し背伸びしてでもやるべきなのだ。おそらく理想通りにはできない。ただ、できるかできないかの二択ではなく、どれだけやろうとしたのかが大事だ。結果を出さなければ人は評価しない、そこに名誉や利害関係が絡むと話は一層複雑になる。でも人の評価それ自体が相対的であり流動的なものなのだ。やったけどできませんでしたは、何もやりませんでしたよりはましだ。もちろん他人に迷惑をかけないという条件は守らなくてはなるまいが。