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宇宙で人生を描く

 松本零士さんが逝去されたと報じられた。心よりお悔やみ申し上げます。私の世代は松本作品から多大なる影響を受けている。

 宇宙戦艦ヤマトは企画作品であったようで、松本零士の世界そのものではないという。ただ、人物設定や容姿についてはほぼ個人の提案が通っていたという。銀河鉄道999や宇宙海賊キャプテンハーロックなどは母性愛や友情、さらには文明批判の要素があって興味深いものだった。もっともそのメッセージは子どもには分かりにくいところもあり、宇宙を舞台としながらも、実は日常の人間ドラマを描いているのである。

 初期の作品などはさらに生活感が強く感じる。その生活臭をSFの殻を被せて客観視できるようにしたのが松本零士作品の魅力であろう。また読み直してみたくなった。

みんなで支える

 日本のアドバンテージを考えるとみんなで支えるという考え方に親和性が高いということではないか。現代人はかなり利己的だが、それでも仲間に対する思いやりには長けている。これは人種とか地域性とかではなく仲間と認めたものに対する気持ちだ。

 これは同時に仲間でないものを斥ける排他性と表裏一体である。中根千枝氏の先駆的研究が指摘する通り、他所者に対する冷たさは日本人のもう一つの側面だ。この事実を忘れてはならない。我々は仲間としないものにはかなり手厳しい。理論的に反目しているならばよいが理由なく相手を認めないことも普通に行われる。

 民族論者ではないがこうした国民性を活かすことも考えるべきことだろう。仲間に対する優しさと仲間でないものに対する冷淡さはいかにして活用すべきだろうか。様々な答えが考えられる。

 結果としてみんなのために貢献できる国民性は地球市民としては益となる。つまりは地球市民という概念を獲得することが日本人の強みになる可能性があると感じている。遠い目標だが、達成不可能ではなさそうな気がする。それが日本人のポテンシャルだろう。

和食

 よく和食は健康にいいと言われる。概ね正解のようだが、それだけでもないらしい。最近は高齢者も積極的に肉を摂るべきであり、和食だけでは健康年齢を伸ばせないと言われている。西洋的な食事だけならばよくないが、和食だけでもよろしくないということなのだ。

 思えば和食とは日本の文化の反映だ。日本文化は時代とともに海外の良いものを取り入れ、独自にアレンジしてきた。平安時代の食事と現在のそれは全く異なる。だから、時代の要請に基づいて新しい調理方法や素材を用いることは和食の伝統にもなりうるのだ。これこそが和食であり、それ以外にはないという考え方はJapanese Styleの本質ではない。懐の深さこそが日本文化なのだから。

 だから、いわゆる和食にこだわり、海外の食生活を忌避したり、逆に和食の欠点を論いその本質を考えないのは的を射ていないということになる。これからどんな和食が誕生するのかそれが楽しみである。







マウント

 ここ数年よく聞くようになった言葉にマウントがある。相手より優位であることを意図的に示し、心的な有利に立とうとすることであるという。本来は物を乗せるという意味である。物理的に上に乗せなくても、コンピュータのプログラミングにおいて、一定のシステムを加えていくことにも使われている。また、格闘技では相手に馬乗りになり制圧すること、柔道における寝技のようなものを指すこともある。このマウントという言葉が頻繁に使われるようになっているのはなぜだろう。

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 様々な要因があると思うが、一つには自分の個性が埋没してしまうことへの反動にあるのではないか。格差が厳然としていた身分社会ではマウントは当然であり、改めて言うまでもない。不平等な日常の中で暮らしていれば、そしてそれが当たり前であれば優位を訴える必要もないし、劣位を悩むこともない。構造的な問題は長い時間を経て解消されようとするかもしれないが、短期的には精神的な葛藤はおきない。歴史に学ぶことで分かる。長く続いた封建社会の間の人々はどうして不満を訴えなかったのだろうかと考えれば、現代人が思うような人権なり平等の意識が希薄だったからというしかあるまい。

 現代社会でも格差はあるが、それは丹念に覆い隠されている。法の下に国民は平等であり等しく権利を持っている。実際にある格差はその許容範囲の中にあるものであり、暴動を起こして社会転覆をするまでもないことなのだと日本人のほとんどは考えている。それでうまくいっているのだから、世の中をあえて乱す必要はない。

 でも、この意識は人々を等質化するあまりに、個々人の存在価値を軽くする方向に進みやすい。平等ということはAさんもBさんも等価値であり、置き換え可能ということになる。それでは私の存在というものは機械のねじのようなものと考えるべきだろうか。心理的にはそうはいかない。だれもが自分は特別な存在と思っているはずだ。その意識の表れとして、私は人とは違うということをあえて表明することが起きる。どうせなら自分は他より優れていると言いたい。それがいまマウントと呼ばれている行為なのだろう。つまり、マウントをすることは強がりであり、場合によっては悲鳴のようなものだったのだ。

 マウントはおそらくする方より、された方が感じることが多い。それは先に述べた相手も自分も同じ資格・能力なのにどうしてことさらに自分が劣位にあると感じさせることを言うのかという批判、非難からの心理なのだろう。私自身もそう感じたことが多々ある。

 しかし、よく考えてみれば人間が等価値であることは幻想であり、人それぞれに個性がある。個々の技能や能力にもある基準を設ければ優劣が発生することもある。というより、みな違うのが当たり前だ。だから、私はお前より優れている、そんなことも知らないのかと言われたら、それを認めるしかないこともある。そして、そんな当たり前のことをなぜことさらに口に出さなくては済まないのかと憐れむべきだろう。たまたま優れた才能なり知識なりがあるのに、それをうまく使えず自分より少し知らない人に向かって自慢している程度なら、その能力は使えていないということの証だ。宝の持ち腐れ、もしくはその力の不足を嘆いているのだと同情すべきことである。

 私たちは平等の意味を考え直す必要に迫られている。平等とはみんなが同じというわけではない。本当は随分違っていても、それらを同じものとして権利を与えるための方便だということを考えるべきだ。社会が作ったかなり人工的な仕組みである。その仕組みを使えば多様な人々が共生できる。今の流行語のマウントはこのことが曖昧になっていることを表しているのではないか。

読み聞かせ

 読み聞かせというと幼い子供に本を読んで聞かせることと考える。しかし、この方法は実は中高生や大人にも必要なのかもしれない。

 圧倒的な読書量がいわゆる知識人の教養を支えていた時代があった。ところが今はあまり本を読んでいなくても要領の良さで試験に受かってしまい、エリートになっているという人物によく出会う。国語の試験のような枠組みが決められた読書はできるのだが、自由に作品の世界を想像したり、作者のメッセージをくみ取ったりするのは苦手である。読書量そのものが減っているから、基本的な読解力が落ちているのかもしれない、

 そこで他人に本を読んでもらい、それを聴きながら作品世界を味わうという方法がある。読み聞かせられたテキストを頭の中で舞台を作り、心の中で映像化するのである。これは読書量が少ない人には有効な方法である。言葉によって形のないものを見えるようにするという試みは、想像する力をはぐくみ、情感豊かな人生を歩むための方法として有効だ。私も朗読の動画を見たり、音声のサービスを時々聞いている。

 読み聞かせなくては本が読めなくなった現代人の知識や感性の不足を補うものと言える。





















詩作の意味

 詩の魅力というものを考え直している。散文は情報を伝えるのには向いているが、緻密な論理にすればするほど零れ落ちるものが出てしまう。情に属するものだろう。

 詩はそれを拾い上げることができる気がする。もちろんかなり曖昧になるものもあるが、詩でしか掬えないものが確かにある。芸術を好む人はこのことを体感として心得ている。一つの言葉に、フレーズにこめられた意味と、その周辺にまとわりついている様々な感触を感じることができるからだろう。

 詩を読む機会はどんどん減っている。それとともに心が瘦せていることを実感している。私は時々詩のノートを広げ、駄作を連ねることにしたい。作品の出来そのものより、詩を書く行為そのものが自分にとっては大切なものと感じている。

失われた感触

 時代が変わるとなくなるものがある。現代社会は進歩が速いためにそれを人生の中で感じることができる。私でさえそれをいくつも感じることがある。

 視覚的なものは大きく変わり続けている。街の風景は刻々と変わり、少し前のことを思い出せない。もっと前のことを考えてみる。いまは住宅地として有名な場所もかつては雑木林の連続であった。薄暗さのなかに踏み込みにくい雰囲気があった。うっかり足を入れると不可思議な動物に襲われるかもしれないなどと、子どものころは真剣に考えたものである。

 耳で聞く感覚にもなくなったものは多い。駅の改札で聞こえていた改札の際の鋏の音はある世代以下の人は知らない。原宿駅の改札にも駅員たちが並んで鋏を入れていたことは記憶の隅にある。客がいなくても空うちをしていたので、常に鋏の音が響いていた。その後、紙の切符を機会に入れる方式となり、今は非接触型のカードやスマホ、スマートウォッチをかざすだけなので音は出ない。確認の電子音がわずかに響くだけだ。非接触を信じられない人がカードを読み取り機に当てる音が耳を驚かすことはあるが。

 嗅覚も変わった。かつては下水道の普及が足りないところがあり、どんな町にもどぶ川があって悪臭を放っていた。今はめったにない。これはいいことだが、使ったものは適切に処理しなくてはならないと思う気持ちが人任せになっている。ものを大切にしない気持ちがどぶ川よりも社会悪を発生させる可能性がある。

 触感もなくなったものがたくさんある。ダイヤル電話を回すときの指先の緊張感を私は覚えている。回すときは思い切ってやらなくてはならない。躊躇してしまうとうまくストロークが計れないらしく間違い電話になってしまっていた。

 味覚は常に変わり続けているから、逆に変化には気づけない。昔のお菓子はもっと甘かったし、何か体に悪そうな合成的な味がした。そういうものは今は少ない。おそらく、子どもの自分に今のお菓子を食べさせたらおいしさに感動するに違いない。その代わりに砂糖の代用甘味料などが入っているので、人体に将来どのような影響が出るのか分からないともいう。昔と今とどちらがいいのか分からない。

 失われてしまった感覚はいくらでもある。時々それを思い出すことで、いまの生活を客観できるかもしれない。

毛筆体験

 冬休みの宿題に書初めの提出という課題が出される小学校もあると聞く。ご家庭としてはいい迷惑だろう。新年早々に子供が墨で家や服を汚す。明らかに下手な字を書く子供にがっかりする。あまりにもいい加減な方法で書いてそのまま出そうとするのにも、まじめな親ならば何か言いたくなるはずだ。習字なんて時代遅れのものをなぜやる必要があるんだ。そう思う人も多いはずだ。宿題として容認できるか否かは考えないことにして、私はそれでも毛筆体験は必要だと思う。

 筆で字を書くためにはいろいろな準備がいる。普段使っている筆記用具とは異なり、持ち方も扱いも特殊だ。だからいつもとは違う脳の使い方をする。これだけでも意味がある。普段しないことをすることは大事だと脳学者の大半は異口同音に述べている。

 さらに書こうと思っても思い通りにかけない。よく分からないが墨の濃度や筆先や半紙の材質などにより、結果は異なる。変数があまりにも多いので書いてみないと分からないという偶然性が高い。それも大切な要素だ。規格製品を使うことに慣れている私たちには、世界で一つだけという実感を覚えることが減っている。お手本をまねして書いても、自分の作品はそこにしかない。そしてそれが貴重だ。字がうまいとか下手とか言う前に、自分が書いた唯一無二の文字があるということに意味がある。

 どれか一枚を選ぶというとき、その基準は何か。自分で一番うまくいったと思う作品をどのように選ぶのかも興味深い。文字とはどのようなものなのかはその人なりの理想に従っている。だから何を選ぶかは自分を考えることに近い。

 いろいろな意味で毛筆体験は大切だと思う。子供の宿題ではなく、すべての人がやるべきだ。どんな字でもいい。自分にとっての理想が文字化されて、しかも理想の字形になったとすれば、本当の意味がある。

 かくいう私は筆ペンでくらいしか書く機会はない。本当は心を落ち着け墨をすり、そのほのかな香りを感じたい。今は無理だが、いずれそういう生活ができる環境を設けたいとも考える。筆ペンでもいまは毛筆に近いものもある。とりあえずはそこからだ。

数え年

 日本でもかつては数え年という方法で年齢が計算されていた。明治時代になり1873年に満年齢の方法が導入され、1902年には数え年の方法は法律上からは除外された。その後も慣例的に数え年は使われ続け、現在でも年祝いや厄年といった伝統的な年齢通過儀礼では数え年が優先されることもある。でも、ほとんどの人は数え年の存在を知らず、起算方法も知らない。生まれた瞬間に人は1歳であり、元旦を迎えるごとに1加算される。だから12月生まれの人は、生後1か月もかからずに2歳になる。

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 韓国では数え年による年齢の言い方が普通であった。国際化の影響で今年の6月からは満年齢で統一することにしたそうだ。とはいえ、日本同様に生活に根付いた部分ではこれからも使われ続けるのだろう。韓国では年齢が敬語の使用にも大きくかかわるため、韓国人との会話ではまず年齢を知ることが大切だという。数え方が違うので、干支を尋ねたり、西暦で確認したりする必要があったというが、これからはその心配はなくなるかもしれない。

 元旦に一斉に皆が歳を取るという考えは実はそれはそれで面白い。正月のめでたさがまるで異なる。太陽暦の1月1日は厳冬期であり、寒波に襲われることも多い。春の気配はほとんどない。その中で何がめでたいのかといえば、西暦年が一つ加算されたこと以外は実は何も変わらない。かつての先祖が感じていた元旦と現在のそれとはまったく感覚が異なるといえるだろう。

 個人の誕生日の意識も変わった。古典文学や、史書に登場する人物の誕生日に関する記事はとても少ない。異類譚などでは誕生時のエピソードを書くことはあっても、誕生日の祝いに関する記事はない。誕生日を祝う習慣が存在しなかったのだろう。数え年にとっては個人の誕生日は重要ではないからだ。満年齢になって誕生日を祝う習慣が輸入された。個人の人生が意識され始めたということになるのかもしれない。

あえて日本らしさで

 人口減少が著しい日本は、経済政策の失敗もあって縮小傾向から逃れられない。でも、それはいわば長期的な展望であり、短期的もしくは中期的な方策でいくらでも変わりうる。そのことを考えなくてはならない。

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 ひところガラパゴス化ということばがはやった。従来型の携帯電話をガラケーなどといったが、今考えるとかなり優秀な機械であった。あれだけの筐体にインターネット機能やそのほかいろいろなものが詰め込まれ、なおかつバッテリーの持ちがよかったではないか。そのまま発展していれば、現在のアメリカ型のハイスペック志向の発展とは違ったものがあった可能性がある。

 ガラパゴス化という言い方は国際的な動向と反するものに対して称されたものだが、いいかえれば独自性であった。独自性は国際的な基準に合わないため国際競争では不利になると言われる。たしかにその面はあるが、見方を変えればほかのどこにもない方法を維持することには意味があったのではないかということになる。

 技術的な話にすれば数日前に考えたように電気自動車の開発技術の問題がある。国際的なトレンドは電気自動車に流れているが、日本では電気で走ることにはそれほどのメリットはない。むしろ全面停止の危険性を秘めている。ならば、日本的なハイブリッド形式とか、水素由来のエネルギー開発とか、再生可能エネルギーの開発だとかをやめるべきではない。資源のない島国なりの生き残り方を考えるべきなのだ。

 文化的な戦略もそうだ。アニメの文化は日本のものだとよく言われるが、作画技術でいうならばCGを使った海外作品の方が優れているかもしれない。日本作品の細部へのこだわり、メッセージ性などのユニークさが評価の源であることを考えて発信するべきだ。音楽も海外には通用しないと思い込んでいるが、日本のポップスは様々な国や地域の音楽の要素を複合して独自なものになっているという。これもセールスポイントと考えるべきなのだろう。伝統文化といわれているものも、見せ方を工夫すればもっと高い評価が得られるはずだ。

 国際標準で競うことだけが正しいのではない。独自性を維持することも大事な方法であることを確認しておきたい。