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面白さを伝えられていない

 最近の反省は学習の効率ばかりを追い求め、楽しさを伝えられていないことだ。今の世代には面白さや身近さが大切なのだと最近気づいてきた。方針転換を考えている。

 効率よく上手にやることに関しては最近の世代は非常に長けている。デジタルデバイスを駆使して瞬く間に終えてしまう。ただそれらの多くは作業であり、印象には残らない。過ぎていくだけなのだ。

 本当に残るスキルなり、知識の獲得には先に呼べた自分とのつながりを感じることが必要なのだろう。その表現の一つが面白いということであり、興味や関心を引くということなのだ。

 では、どうしたらそのような教え方ができるのだろうか。流行におもねるのではなく、何か大切な要素がある気がする。それを考えるのがこの夏の課題の一つだ。

教科書2冊配布もしくは

 義務教育の教科書は税金で賄われている。裏表紙にはこれは国民の税金で提供されているものだから大切にするようにという注記がある。しかし、この教科書が重い。

 いくつかの教育委員会では教科書を学校において帰ることを許可している。荷物を軽くするためには仕方がないという訳だ。タブレットやパソコンは持って帰れという。私は逆がいいと考える。

 教科書類が重いのは事実だが、大抵の場合、毎日の詰替ができていないことで必要以上に重くなっている。資料集などは自宅に置かせ、授業で必要なものだけを持参させるのがよい。パソコンやタブレットは学校に置いて行かせ、充電もできるようにすればいい。鍵のかかる充電器具の確保などの設備投資はいるが。

 家でネット検索をさせる必要はない。多くの家庭では子どもに貸せるパソコンを持っているかもしれないので、家庭での検索は禁止などと言っても無意味だろうが、少なくともデジタルデバイスで宿題をやらせるべきではないだろう。

 紙媒体の教科書による学習効率はやはり高い。だから、家では伝統的な学習法に集中させた方がいい。この方が成果が上がるはずだ。子どもの頃からデジタル機器になれさせるべきだ。使えないと困るという親は今のデバイスの使いやすさを知らないのかもしれない。少なくとも義務教育の間にプログラミングやデジタル処理技術は教える必要がない。余裕があり、趣味的にやりたいならば学ぶべきだが、少なくとも他の基礎的学習の時間を削ってやる必要はない。

 それでも鞄が重いというならば、検定教科書の2冊目を有償で販売してもいいと考える。価格設定は高めでもいい。1冊の教科書に書き込んで使い尽くす方がいいと思うが、必要な人には売るという方法もある。コンピューターを使って考えたふりをするよりも遥かに期待できることが多い。

結びつける学習

 脳の構造として何かを学ぶときに自分にとって意味のある情報を優先するということが分かっている。逆に言うと無意味だと思われるものはなかなか習得できない。これは年齢を重ねるほど顕著な傾向になるそうだ。

 私がいろいろなことを学ぼうと思ってもそれがなかなか身につかないのは結局、自分にとって本当に必要だとは思っていないからなのだ。なくてもいいことは身につかない。少なくともそういう価値観をもってしまった瞬間から、習得の順位は下がってしまうのだ。だから、逆に価値を上げることさえできれば学習効率は上がることなるはずだ。

 学校の勉強がうまくいかないという人もテストの前になると少しはやろうとする。学習の成果が評価されると思えばやる気になるからだ。しかし、それがなければ何もできない。できなければ効果が上がらない。普段の学習も何かに結びつけたほうがいいということになる。そうすることで脳が優先順位を上げてくれるはずだ。

面倒な文章は

 ビジネスの場面にはほとんど意味がない文章のやり取りがある。手続き上出さねばならないが、実は受け取る側もよく読んでいないというものである。よく考えてみれば無駄だ。

 ならばやめてしまえばいいのにとも思うが、そう簡単ではない。言葉を使ってやり取りがなされたという実績を残す必要があるのだ。そうすることで丸く収まる。

 こういう考え方をする限り、ならばいっそのことこのような文書は機械に任せてしまおうということになる。いまでもかなりの分野はテンプレートを少し触っただけの心のこもっていない文書がやり取りされている。それを少々問題視する向きもある。注目されてしまえば書かざるを得ない。この前と同じコピーが届いたと言われる前に。

 そこで登場するのが生成AIである。ある程度の注文を行えばそれなりの文章を作成する。その都度、少しだけ気の利いたことを含めば、素っ気なさは解消できる。ただ心がこもってないことは変わらない。少々人間らしい文章を書いて相手をごまかそうとしているだけだ。

 相手もこのことは十分に承知しているから、相手の心のこもっていない文書を、心を込めずに読む。しばらくしたらこの読むのも自動化されるはずだ。相手の文書を読んでその内容を分析し、相手の誠意なり、信憑性なりを数値化して示してくれるアプリを使うことになるだろう。

 コンピューター同士が相手の動向を考えて処理する中で、人間はますます人間関係の機微を考えられなくなる。相手の会社にはいかない方がいい。ボロが出てトラブルを引き起こすことになるだけだ。

 文書作成のレベルならもうかなり高水準で自動化が達成されているし、これに静止画や動画を加えることも後わずかで実用化しそうだ。われわれは、コンピューターに全てを委ねてはなるまい。考えなくなった脳はたちまち退化し人間の可能性を著しく低めることにつながるだろう。

音読、手書き

 情報が何でも手に入る時代になり、私たちの世代はさまざまな矛盾に直面している。子供たちに何かを質問するとかなりよく知っている。中には少し専門的な用語も出てくるので相当な博識なのかと思ってしまう。さすがに現代の子どもは違うと感心する。しかし、この思いは簡単に覆されることが多い。

 同じ子どもに同じ分野の別の質問をすると答えられないということがある。それもどちらかといえばだれもが知っている初級レベルの内容と思われることにおいてもその傾向がある。また、先に感心した専門的な話題を別の要素と組み合わせて尋ねると何のことを言っているのか分からないといった反応になる。ここに違和感を覚えてしまうのだ。

 おそらく今の子どもは情報を点として覚え、その数を多めに持っている。だが、その点はほかの点と結びつけられることは少なく、孤立した知識になっているのだ。これはコンピュータで検索した結果をクリップしている状態と同じだ。物知りだが物は知らないという逆説が見られる。

 そこでいま何が足りないのかと考えれば、情報を点ではなく線で、そして面でとらえることの大切さなのだろう。それには読書することや講演を聞くことで一つ知識や情報の背景にあるものを知ることが肝要と言える。読書もそのままにすると、点としての知識吸収になりやすいので、音読の形で自然な人間の認知の手順を再現した方がいいと考えられる。そして、考えたことを手書きでまとめる。音声化と言語化というごく当たり前の活動が人間の脳には欠かせない。これを飛ばすと偽物知りが生まれることになるのではないか。

プログラミングは大事だが

プログラミングを子どもに教えたいという親は多いらしい。間違いではないがそればかりであると必ず失敗する。プログラミング用のコンピューターに通じる言語を覚えることは今後さほど重要ではなくなるかもしれないのだ。

人工知能の発達でプログラミングの基本は自然言語でかなりできるようになっている、すると大切なのはまともな言葉遣いができるということになる。伝わる日本語が使えているのかが問われることになる。

さらに誰にでもできるプログラミングは専門家の力は要らないことになる。人間の思考の癖を知り、それを先回りしてプログラミングに取り入れることが大事だ。ならば学ぶべきは人間の思考のパターンである。それには文学や歴史の学習が役立つ。

 理系の時代などという人はいるが実は理でも文でもない人間に興味をもつことが何よりも大切だ。親御さんにはこのことを言いたい。もっと本を読ませ、もっと遊ばせ、もっと他人や社会と関わらせた方がいい。昭和世代が必死に覚えたことは機械がやってくれる。ただ人生の経験の厚みは補えない。子供時代にそれをやらせるべきだ。

教える勉強法

 学習したことを定着させるには言語化が欠かせない。私たちは受容した情報の大半を言葉に置き換えて覚えるからだ。記憶するためには言語化をいかにうまく行うかが影響する。

 言語化の方法はいろいろあるが、その一つに学んだことを誰かに教えるということがある。実際に教える相手がいない場合は架空の人物に向かって教えるのでもいいのだという。先生ごっこは実は最高の学習方法だったのだ。

 ノートに学んだことをまとめ直すのでもいいのだという。多くのノート術を説く本に、講義の後のまとめが大切だと書かれている。自分のことばにして文字として書き出すことで知識は定着する。

 言葉にするのは面倒だし時間もかかる。だが、この一手間こそ学習効果を上げる簡単かつ効率的な方法だったのだ。

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矛盾を教える

 人間のできることの最高値は矛盾を教えることだと考える。理屈ではおかしくても経験上、文化的にこうでなくてはならないということはいくらでもある。それらを簡単に因襲のごとく囲い込もうとしてもうまくいかない。

 私たちのできる最大にして最良の方法は、この論理矛盾を受け入れる度量を持つことである。うまく説明はできないが確かにそうだ、ということはいくらでもある。その現実を踏まえるべきなのだ。

 効率を重視しすぎるシステムではこの論理矛盾が挟み込まれる余裕がない。だから最適解を提示しても実現不可能ということが多い。辻褄は合わないがこうすることがよいということは人間しかできない指導法だ。私はそういうことができるようになりたい。

漢字練習

日本語にとって漢字は不可欠だ。恐らく漢字がなければ貧弱なコミュニケーションしかできない。漢字はもともと古代中国の文字だから、日本語は外国語に支えられていることになる。

字を書こう

これは別に日本語だけの現象ではない。ヨーロッパな言語の多くも、自国語以外が発祥の語彙が多数含まれ、文法までも他言語から取り入れている。日本語の場合はそれが文字という目に見えるものだから分かりやすいというだけだ。ちなみにひらがなもカタカナも漢字の省略から生まれている。

さて、漢字を書けることは日本語話者にとっては重要な課題だが、この能力が少しずつ低下している。その原因の一つが、デジタル化によって漢字を手書きする機会が減ったということがある。複雑な字形の漢字は、つねに形を確認しておかなくては忘れてしまう。そして確認の方法が書いてみることにあるのだ、

例えばいまこのブログはiPhoneでフリック入力している。仮名で入力すると漢字の候補が挙がる。その中から相応しいものを選ぶのだが、この際に漢字の字形はほとんど瞬時に見るばかりで、詳しく確認していない。万一、少し違う文字をそれとなく紛れ込ませていたならば、それを選んでしまう可能性は十分にある。

 こうした生活を繰り返していると漢字が書けなくなっていく。書けないと漢字を使う機会は減るから、次は読めなくなることに繋がる。

私自身の問題として漢字を書く機会を確保しなくてはならないと考えている。それには積極的に手書きの文章を残すことがいい。その中で漢字を極力使うことにしよう。人に言う前に、まず自分の言語世界を守らなくてはならない。

お土産倶楽部

 部活動もいろいろあるが、地方の学校にぜひ作ってほしいのが新作民芸品を創作するクラブだ。その地域を表し、なおかつ可愛らしかったり、有益だったりして買い求めたくなる。そういうお土産を創作するクラブだ。

 最終目標として採算が確保できることを前提にしたい。そのためには地域の歴史や経済、流通などの現状を把握する必要がある。地元の商店主や観光行政の責任者にアドバイザーになってもらい、実益が得られる部活動にすべきだ。中学生や、高校生が向いている。

 地域を活性化するのは若い世代だろう。アイデアは彼らが生み出す。大人たちはその実現のためのサポートをすればいい。うまく行けば地域として大きな恩恵がもたらされる可能性もある。田舎であることは不利ではないということを地域として証すべきだ。