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感動のツボ

 最近、感動のツボが変わってきている気がしている。凝りに凝った仕掛けよりも、純粋に当事者の人間性が垣間見えることが感動の種となっている。作り込み過ぎた仕掛けはそれが人工知能の作った精巧なフェイクであつても感情移入できない。

 私自身のことしか言えないが、おそらく大抵の人たちにとってもこれは当てはまるはずだ。どんなに上手く作ったストーリーも、実話に劣ることがある。創作者はこのことを意識して、創作を限りなく実際のことのように装う。

 最近はかつてディープフェイクと言われていたものが簡単にできるようになっている。作られた偽物が氾濫するようになると、人々が求めるのは多少辻褄が合わなくても人間らしさがあるものに惹かれるようになる。そこにはさまざまな矛盾があり、辻褄が合わないこともある。それを含めてリアルな実感を覚えるのである。

 先日、人工知能に一定の設定を指定してシナリオを書くように指示してみた。数分の間にかなり凝ったストーリーを作り、体裁も整っていた。内容も一見するとよくできていて驚いた。そこに足りないのを敢えてあげるとすれば、意外性ということだと思う。論理の飛躍を意図して行うということは人工知能には今のところ苦手なようだ。

 何に私たちは感動するのかを詳しく研究することで人間とはどのようなものなのかが分かるのかもしれない。

前景と後景と

 実際にはそんなに単純ではないが、例えば現実を舞台に例えるとすっきりすることがある。物事には間近に起きていることと、その背後で起きていることがある。それらは根本的には関連しているのだが、敢えて分けて考えるといいことがある。

 私たちは間近で起きていることに気を取られやすい。個々の現象は複雑でそれに対応するだけで日々の暮らしの殆どが終わる。うまく対応できたときはよいが、それができないときは懊悩激しく神経をすり減らす。

 でも少し遠くを見ると日常の困難が些事の様に見えてくることがある。近視眼的な考えを超越できれば新たな可能性が生まれる。

 舞台に幕を引いて前景と後景の世界を別視点で見せる技法がある。中には紗幕を使って半透明にし、非日常空間を創出することもしばしば見られる手法だ。実人生ではそんなに意図的に視線の変更はできない。だから、意識してレンズの焦点を遠景に向けてみることも大事だと思う。

自分の目で見ること

 自分が見られる世界は限られている。だから、見渡せる範囲のことを世界と思うのかもしれない。この見渡す範囲は情報機器の発達によって広がったかのように思える。インターネットによる情報の伝達は画面上だけではなく、しばらくすれば五感にわたる様々な感覚をも伝えることが可能になるかもしれない。

 でも、やはりどんなにその技術が発展しても、自分が関係することができる世界はやはり限られている。機器の力を借りて分かったかのようなつもりになれても、それを実感として掴めるのかといえばやはり少し違うのかもしれない。私たちはこのことを忘れがちだ。

 人工知能の発展とともに私たちが直面している世界の捉え方はまた変化していく可能性がある。自分が目の前にあるものを本当に自分の神経とか感性といったもので感受することをやめてしまうのではないかという懸念である。自分の受け取り方は間違っているとか、ほかの受け取り方と比較して劣っているのではないかと考え出すと、もう自分でものを見ることもしなくなる。すると目の前にあるものでも自分では見なくなってしまう。そういうことはもうすでに起きている。

 本当に大切なのは何かを子どもたちにちゃんと考えさせたい。私の課題の一つがそれである。

かけないことの幸せ

 私は近眼でそれに老眼も加わっているから、眼鏡がなければ遠くは見えないし、眼鏡をかけると近くが見えない。実に不便である。近視の方はほぼ変わらないが、残念ながら老眼は少しずつ進行している。

 面倒なので眼鏡をかけずに過ごすこともある。1メートル先の風景はぼやけてよく分からない。特に人の表情は判別できない。だから、人のことを察して振る舞いを変えるということはできない。不便だが気楽でよい。余計な気遣いは要らなくなる。

 大切な情報を幾つも見逃すことにもなる。見えていたことが見えなくなることで、失うことは多い。無意識のうちに視覚から得ていた事実は捕捉できないものとなる。ただ、雑多な情報に振り回されることもなくなるとも言える。

 なるべく多くのものを見て、外界の変化を見落とさないようにするのは本能としてのあり方かもしれない。さらに昨今の情報至上主義の世相にあっては「視力」は必須、不可欠のもので私のような考え方は否定されるはずだ。

 でも、あまりにも多くを見ようとし、精神をすり減らすより、ときには見えない時間を作った方がいいのではないか。眼鏡を外すことによって私はあまりに生々しすぎる現実にフィルターをかけるのである。

眼鏡を外して

 結構な近視に老眼をかけ合わせた面倒な目を持っている。最近、それでも眼鏡を外して歩くことが増えた。細かいものは殆ど見えない。男女の区別は出来ても、表情は読み取れない。

そういう視力で世界を見るとかえっていろいろ考えるようになった。見えない分だけ想像するようになるらしい。そして、反対に余計なものを見なくなる。これはむしろいいのではないか。

 もちろん、瞬時の判断を求められる場面においては視力不足は致命的だ。スポーツ選手が引退するのは筋力よりも視力の衰えによるのではないか。それほど瞬間の判断やそれに伴う行動は視力不足には厳しい。

でも、さほどの緊迫感がないときは、むしろ余計なものがみえない方が都合がいいような気がしている。

見たいものしか

 見慣れた風景を何らかのきっかけで写真にとり、後から見直してみると思わぬ発見があることが多い。毎日見ている風景にも関わらず、ここにこんなものがあったのかと発見し驚いてしまう。

 私たちの知覚は多分に選択的で自己中心的だ。結局気になるのものしか見ていない。視角に入っても意識されなければ映像として感知されない。

 絵を描くときにそれを実感する。描きたいもの以外は省略してしまう。あるいは描きたくないものは意識から抜けているといった方が事実に近いかもしれない。見えているのが風景なのではなく、見ているのが風景なのである。

 このことを考えると、視覚による記憶というものがいかに恣意的なものであるかを再認識できる。百聞は一見に敷かず、されど真実にはあらず、である。

手触り

 バーチャルな時空が急速に広がっているいま、密かに渇望されているのは手触りなのではないか。そのときに一回限りで現れる感覚こそが大切な要素なのだと気がつくことがよくある。

 ここでいう手触りとは文字通りの皮膚感覚の介してのものにとどまらない。たとえ触れることができなくても、それに接しているという生の感覚が得られるものをすべて含めるとする。極めて主観的な感知であり、容易に定量化しにくい。

 しかし、対象と同じ次元を共有しているという思いは、実は結構大事なものであったのだ。その安心の中でいろいろなことが可能になってゆく。最近はこの感覚がないがしろになりつつある。

何かが見えたら

 何かに見える一瞬を逃さないことが大事なのかもしれません。それは一瞬の出来事のことが多いようです。

 日常の光景の中に時としていつもと違った輝きを見せるものがあります。違和感という言葉で処理されてしまうのですが、この違和感こそが何かを見つける糸口になるのかもしれません。細かな変化を見逃さないことが大事です。

 ただ、厄介なことにそういったものには表現すべき言葉がない。言葉がないのでそれを保存することが難しいのです。近似値でもいい。そのものではなくその状況を記すだけでも新たな何かを見つけることに繋がるかもしれない。そんなことを考えています。

次を考える

 積み立てNISAを始めて経済の成り行きにも関心を持つようになりました。いまはコロナウイルス流行をきっかけとする世界的な株安が発生しています。日々目減りしていくこづかいの額にため息をつく毎日です。

 ウイルス騒ぎは社会のあらゆる局面に多大な影響を及ぼすています。中には明らかに行き過ぎな点もあります。ただ、縮小する経済の未来を予見する機会を見せてくれているのだと考えるならば、この時期を体験する意味があります。事前に対策を立てるシミュレーションなのです。

 生産人口が減少し、流通の規模が縮小したり、人手不足が慢性化する状況は最近の社会の実態と似ています。そうした中で何ができるのかを予測して行くことが求められます。いまあることを前提とせず、次の状況を常に考えて生きることがこれからはますます重要になってくるのでしょう。

冷え込み

 今朝は寒波が戻りかなり冷え込んでいます。立春を過ぎたばかりですが早くも寒の戻りです。

 天候だけでなく景気も低調になっているのは、やはり新型肺炎の大流行による経済への影響が懸念されるからでしょう。欧米の一部ではアジア人差別にも発展していると報道されていますが実のところはどうなのでしょうか。

 個人的にもこの時期は気持ちがふせぎがちになります。花粉症による憂鬱が大きいのですがそれ以外にも年度終わりの多大な業務を考えると心がめいるのです。

 万葉集の大伴家持は春愁を表現しました。心躍る季節にあっても晴れない心情を陳べたといわれますが、春が単なる明るい季節ではなかったのは奈良時代から、そして大伴家持が学んだ漢詩文の時代からの伝統であったのです。

 冷え込みが終わっても愁いの中で生きなくてはならない。などと大袈裟に考えてみたりしています。