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懐かしい曲

 金曜の夜は実はかなり披露している。体力の減退もあるが、いまの生活は毎日が全力で行かなければならないという思いが強く、心身ともに困憊してしまうのである。もっと余裕があったはずなのに。それを思うとさまざまな悪い付帯事項が惹起するので、すぐに打ち消すことにしている。

 疲れた夜にするのはなにか。いろいろ試してみるがどれも神経をかえってすり減らしてしまう。そのなかで成功率が高いのが若いころに聴いた曲を聴くことだ。昔夢中になって曲を聴き直してみると、その当時のことがほんの少し思い出される。当時の若く甘い人生観を思い出すとなぜかほほえましく感じてしまうのである。同じ自分であるのに。

 それを今を嘆く材料にしてしまっては逆効果だ。むしろ、忘れていたひたむきな気持ちを取り戻すことを思うのがいいと思う。そして大抵の場合、そういう方面に心は動くのである。懐かしい曲を聴くのは知らず知らずのうちに失われた何かを取り戻すためのきっかけなのである。

特別な記憶

 覚えていることの中には、いわゆる特別な記憶というものがある。その多くが自分の生き方に深く関与し、多大なる影響をもたらしている。

 妙なものだが、若くして死んだ友の葬儀に立ち会い、焼き場にまで付き合ったことはいまでも深く心に刻まれている。棺桶が焼かれるところへ移動するときの扉を閉める音は、この世とあの世の境界として深層に刻印されている記憶だ。

 他にも特別な記憶はいくつかあって、何かあるごとに想起される。随分昔のこともあるのに、そこに出来するのは常に瑞々しい記憶なのだ。

 特別な記憶の多くは類型的な誇張がなされていて、真実そのものからは遠い。でも、その中で考えたことは虚偽ではなく、必ず一面の真理を踏まえている。そのような記憶が飛び交い、場合によってはその記憶で横溢されるのも意味のあることだと思う。私たちは新しいことを始めるのは苦手だ。だから、過去の記録をそのまま受け入れるのではなく、いまの生き方にあわせて過去を改変することも、残念ながらあるのである。

北千住の銭湯

北千住駅にて

 北千住の駅のディスプレイが変わっていた。前にも何度か書いたが、私は幼年期にこの街に住んでいて断片的に記憶が残っている。銭湯もその一つである。当時は自宅に風呂がなく、銭湯通いは必然の生活風景だったのだ。現在はその面影はない。が、私の覚えている北千住はもっと地方都市感があった。人口は多かったが、平屋がほとんどで下町の情緒が横溢していた。

 銭湯に行くときは父か母に連れられて行き、それによって男湯に入るか女湯に入った。覚えているのは父の頭の洗い方は痛く、少し不快だったことだけだ。男湯には入れ墨の人もいたように思うが特に恐れもしなかった。関心があったのは風呂上がりに紙のキャップで封じられた瓶の牛乳が飲めるか否かだった。恐らく当時の父の収入では贅沢はできなかったはずで、毎回飲めるとは限らなかったと思う。

 銭湯から当時の我が家まではそれほど距離はなかったはずだ。その道なりに多くの人とすれ違い、さまざまな店が声をあげて客を呼び込む姿を見た気がする。夕方から宵の口にかけての賑やかな街の様子が朧気に想起される。

 もしこの千住の街にもっと長く生活していたとしたら、どんな人生があったのだろうか。そんな妄想をすることがあるが、所詮それは無意味なことと思った瞬間に思考停止に陥いる。私はそういうもし、ならば、という段階がいくつもあるのでそんなことを考えては止めることを繰り返しているのである。いまはそれで正気を保ち、日常に立ち向かっているが、まもなく訪れる人生の転機の後で、この妄想に付き合ってみてもいいのかもと考え始めている。

屋上のアイドル

 渋谷に住んでいたころの思い出は数々あるが、懐古の波が起きると止まらなくなることがある。思い出したときに書いておこう。

 高校生の頃だったか、今はなき東急プラザの屋上にちょっとしたステージがあって、ときにはタレントやアイドルのショーがあった。友人と訪れたのは河合奈保子のプロモーションであった。その頃の彼女はデビューしたての新人歌手だった。レコードのいわば手売りのイベントで持ち歌もシングルの両面のみ、いかにもプロの作詞家と作曲家がアイドルのために作ったという感じのコケティシュな曲だった。後に彼女自身がかなり完成度の高い作曲をするとは、そのときは思えなかった。

 彼女にものすごく熱を入れていた友人は、いろんな情報を持っていて、いろいろと説明してくれた。彼はいたって真面目でピアノ演奏が得意な控えめな性格の持ち主だったので、アイドルへの執着は不思議だった。彼のおかげで売れる前のアイドルの姿を見られたのは幸いであったのかもしれない。

 昭和のアイドルたちはいまより過酷な条件でステージに立っていたようだ。一人もしくは数人の単位で営業していた当時は個人の能力や才能、資質に多く依存していた。そのキャラクターが前面に出ることから、個人的な批判に晒されることも多く、中にはステージ上の仮面と真の自分とのバランスを保てなくなってしまった人もいた。

 過酷な世界に咲いていたあだ花と見る向きもあるが、過去の思い出の一つとして記憶されていることを思えば、時間の流れの中に確かに結実したのかもしれない。

メダカの飼育

 子供のころメダカを飼っていた。川で直接捕まえたものもあったが、金魚店で買ったこともある。売っていたのは大抵ヒメダカというオレンジの魚で、普通のメダカは買うものではなかった。いまはその当たり前にいたメダカの方が貴重になっているらしい。

 水槽に適当に小石を入れて水草を入れれば、あまり何もしなくてもメダカは生きていた。今はビオトープとかいうそうだが、アパートのベランダに放置していた手抜き飼育だ。勝手に産卵し、増えたかと思ったらいつの間にか死んだのもいて、そういう世代交代が何代か続き、ちょっとしたアクシデントで全滅したこともあった。

 メダカは身近な生き物でなぜか心が落ち着く効果を持っていた。いまは生き物を飼育する余裕がない。いつかまた鉢の中を見下ろす日が来ないかと考えている。

記憶の修正

 過去の出来事を思い出すときに、どうしても記憶の修正が起きることは常に実感している。他の人の同じ経験談に接したときにいろいろな差異があることに気づくのだが、それまではこうだと思い込んでいる。

 恐らく他人と比較しても互いに変化したものどうしを並べているにすぎない。写真とか動画などの方が事実との比較には良いのかもしれない。ただ、それらの映像も撮影した者の何らかの解釈が入っているはずだ。真実にはなかなか辿り着けない。

 科学的思考という考え方はそういった個人差を排除したもので、これが近代の私たちの前提になっている。でも、直線と思っていたものが実は曲面の上にあり、光さえも曲がると言われればもうその前提も怪しい。日常生活では気づかないほどの誤差であるにしても、実は真実を掴んでいるものはないという事実は変わらない。

 現実の何を意識し、それを経験として認識して、その中から何が記憶に残るのかは人によって違う。また、その日の体調とか周囲の環境によっても変わってくる。その上に経年の修正も加わるのだから、物事は単純ではない。

子どもパイロット

今までで最も家から遠い場所に行ったときのことを聞かせてください。

 距離ではなく精神的な隔たりとしての長距離旅行といえば福岡から東京への小学生の頃の一人旅だろう。父の転勤で福岡市に住むことになった私は、夏休みになぜか一人で東京へ行くことになった。東京には叔母の家があったのでそこを訪ねる旅だ。なぜ一人旅になったのかは覚えていない。恐らく親の配慮なのだろう。

 福岡空港から飛行機に乗ったが、一人旅ということでワッペンを渡された。スチュワーデスのお姉さんがいろいろ世話してくれたのだが、残念ながらこの辺りの記憶が曖昧だ。恐らくとても良い緊張していて記憶の形成を妨げたのだろう。僅かな記憶はそのワッペンを安全クリップか何かで服に付けて、しばらくは宝物のように大切にしていたことだ。

 子どもにとっては初めての経験は負担が大きい。緊張感もあったと思うがこの点も忘却の彼方だ。余計なことを考えない分、案外簡単に切り抜けられたのではないだろうか。飛行機に乗れたことだけで十分満足していたに違いない。

 大人になって一人旅は当たり前になった。どうやって暇を潰そうかということばかり考えて、鉄道も航空機も単なる移動手段のように考えてしまう。子どもパイロットの時のときめきを思い出すべきだろう。それができれば旅はまた楽しくなるはずだ。

自由工作

 夏休みの宿題に自由工作というのがあった。なんでもよいから作品を一点提出することといったことだろう。7月の転校が続いた私にとって宿題の提出は結構逃れられることが多かったが、どうしても出さなくてはならないときは、「水族館」で切り抜けた。これは空箱の一面を縁取りを残して切り取り、セロファンを貼って水槽の壁に見立て、中に糸で吊るした紙の魚を吊るというもので明らかに手抜きであった。

 ある年は転校がなかったのでどうしても作品を提出しなくてはならず、水族館もさすがにためらわれたため、木工のマガジンラックを作ることにした。すると途中で亡父が手伝ってやるということでいろいろ手助けしてくれた。そのうち、やりたいことがやりたくなった父は、丁寧にやすりをかけて、ニスを塗るとなった前に何を思いついたのか金色のスプレー塗料を吹きかけてしまった。子ども心にもこれは変だと思ったが、もうそのときはどうしようもなかった。

 夏休みの宿題に父の作品を出した後の気持ちはあまりよくなかった。褒めてくれた人がいたかと思うが、あまり覚えていない。水族館でよかったと思った記憶は微かにある。

銭湯の牛乳

北千住駅にて

 乗り換えで使う北千住駅にこのようなディスプレイがあった。銭湯の組合が利用促進のためにおいたもののようである。

 幼少期にこの街で暮らしていたのだが、小学校に上がる前のことなので記憶はかなり曖昧だ。限られた記憶の中に銭湯の記憶がある。父に連れられた時は男湯に、母の時は女湯に入ったはずだが、風呂そのものの記憶はまったくない。覚えているのは入浴後の牛乳である。瓶詰めで紙の蓋であった。いつも飲めるのではなく、何回かに1回の楽しみであった。それとのぼせそうになった脱衣所の湿気を何となく記憶している。

 その頃は風呂に入ること自体があまり好きではなかった。髪を無理やり掻きむしられ、湯を掛けられる間、息を止めているのも苦しかった。いま思えば何とももったいないことだ。そういう記憶があるということはこの当時、住んでいた家には風呂がなかったのかもしれない。それも記憶が朧げだ。

 当時お世話になった銭湯はまだあるのだろうか。いまはさまざまな付加価値がないとこの業界は厳しいと聞く。北千住に複数の銭湯が営業しているということは、この地域には需要があるのだろう。牛乳はまだあるのだろうか。

水泳の思い出

 子どもの頃はプールに行った。実は入学した小学校にはプールがなく、水泳は親や親戚に連れられて行ったが泳ぎ方は分からず水浴びの域を出なかった。

 ところが転校した先の学校は水泳が盛んで泳げる距離や種目によって級が設定されており、その取得状況はキャップに付けるリボンの数で可視化されていた。小学二年生にして一等兵のみならず、上等兵や兵長クラスの同級生もいる中で私は無印であった。例えがよくないが当時の私の水泳の時間の緊張感には相応しい。

 そんな金づちを担任の先生には粘り強く指導していただいた。少しだが泳げるようになり、夏の終わりには1本線が増えたことを覚えている。私の今を作ってくださった恩師である。

 プールにはしばらく行っていない。いまも泳げるだろうか。少し心配だがいつか試してみたい気もする。