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感動のツボ

 最近、感動のツボが変わってきている気がしている。凝りに凝った仕掛けよりも、純粋に当事者の人間性が垣間見えることが感動の種となっている。作り込み過ぎた仕掛けはそれが人工知能の作った精巧なフェイクであつても感情移入できない。

 私自身のことしか言えないが、おそらく大抵の人たちにとってもこれは当てはまるはずだ。どんなに上手く作ったストーリーも、実話に劣ることがある。創作者はこのことを意識して、創作を限りなく実際のことのように装う。

 最近はかつてディープフェイクと言われていたものが簡単にできるようになっている。作られた偽物が氾濫するようになると、人々が求めるのは多少辻褄が合わなくても人間らしさがあるものに惹かれるようになる。そこにはさまざまな矛盾があり、辻褄が合わないこともある。それを含めてリアルな実感を覚えるのである。

 先日、人工知能に一定の設定を指定してシナリオを書くように指示してみた。数分の間にかなり凝ったストーリーを作り、体裁も整っていた。内容も一見するとよくできていて驚いた。そこに足りないのを敢えてあげるとすれば、意外性ということだと思う。論理の飛躍を意図して行うということは人工知能には今のところ苦手なようだ。

 何に私たちは感動するのかを詳しく研究することで人間とはどのようなものなのかが分かるのかもしれない。

交差点の風景

 先日、救急車が駅前の交差点に差し掛かったとき、ドライバーは停車し、道を開けるのに協力していた。こういう機会には何度も遭遇しているが、協力の精神が形に表れるのは気持ちがいい。

 ところが件の救急車は交差点内で立ち往生してしまった。歩行者が止まらないのだ。中には駆け足でその前を通り過ぎようとする人もいる。どういう訳か歩行者の方が非協力的なのだ。

 自分が交差点に取り残されることの方を心配してしまうのか。余裕がないのか。歩行者優先の精神が緊急時にも働いてしまうのか。交通ルール、マナーの欠如なのか。原因は分からない。

 人の判断力は状況によっていくらでも変動する。問題はいますべきことを常に考えることなのだろう。

小学生の心

 小学生が主人公の小説を読むたびに思うのだが、果たしてこのような考え方を小学生がするのだろうか、何か根本的な間違いがあるのではないか。書いているのは大人の作家であり、大人の見方で小学生を描いている。そういった疑問が湧く。

 もちろん、これは見当違いな批判である。小学生の話は小学生でなければ書いてはならないとは言えない。過去の人物のことも同じだ。その時代に生きていないならば小説として書けないというのならかなり窮屈になる。むしろ、それらを乗り越えて別人格を作り動かすことが創作の醍醐味というものだ。

 しかし、それでも気になるのは自分が小学生のときと比較してしまうからだろう。果たしてこんなに深い考えを持てていただろうか。そう考えると違和感を禁じ得ないのだ。

 矛盾したことを言うが、小学生の頃の考え方を思い出すことがほとんどできない。どんなことをしたとか、どこに行ったというようなエピソードは記憶していても、そのとき何を考えていたのかは忘却の彼方なのだ。アルバムを開いたとしても断片的な思い出しかない。

 思うに子どもと大人は接続していながらも、どこかに越えられない境界線があるのではないか。その境界を越えられるのは一度きりであり、不可逆の流れが支配している。だから、大人になると子ども時代が急に縁遠いものになり、歳を重ねるほどに理解しがたいものになる。

 子どもを主人公とした創作をするのはそのことへの抵抗なのだろう。絵本のように本当の子どもが大人の作った作品を読むときもあるが、作者と読者が同じ境地に達している保証はない。小学生の心は神秘に富んでいる。かつては自分もそうだったのにもかかわらず。

肩を押す

 偶然であるが駅で金縛りのように動けなくなっているどこかの学校の生徒を見つけてしまった。恐らく覚悟を決めて駅までは来てみたものの、通学路に踏み出すことができないのだ。

 私のような世代にとってはこういう行為は甘えか、精神的疾患などと分類されて、全うには扱われなかった。でもこれは特殊ではない。かなり高い割合で同じような状況に陥る生徒はいるのだ。

 彼らの肩を押すのには何をどうすればいいのだろう。強要するのはよくないし、放置するこもできないとなれば、とにかく待つしか他はあるまい。ある程度、待っている存在がいることを示し続けることが結果的に彼らの肩を押すことになると考える。

 五月ではなくても、いつでも心の不調は起こりうる。子どものも大人も変わらない。そして、私自身も例外ではない。せめて、自分ひとりではないことを意識するだけでもなにかに備えることはできそうだ。

期待感

 期待感を抱きやすいのがこの季節である。年度の変り目と言うのが大きいが、花開き水温むという自然の移ろいも関係している。

 根拠のない思いだと言われればそれまでだが、人は気持ちで動くものであって、やはりそういう感覚は大切なのだ。私たちには考えたことをどこがで実現させようとする深層心理があるのかもしれない。

 ならば自他に期待感をもたせるのは世のためにも自分のためにもなる。冬は終わった。素晴らしい春になる。これだけでもいい。そのように思い、発言することでほんの少し何かを変えることができる。

 

遠景

広い風景は気持ちがいい

 遠い風景を見ると心が落ち着くことがある。山の上とか、建物の上階から見下ろせばよりその効果が高い。なぜだろうか。

 おそらく身体的な理由があるのかもしれない。ある体内物資が分泌されるといった説明だ。これについてはよくわからない。ただ、別の理由もあると思う。

 遠くを見ることで自分の位置が相対的に把握できるというのは大きいのではないか。自分がいまどこに位置し、世界とどのような関わりを持っているのかが直感的に理解できる。また、風景を俯瞰することで日常のレベルでは気づかなかった視点、視座を獲得することが快感をもたらすのかもしれない。

 風景の中に自分の存在を客観視し、周囲との関わりを感じることができることこそ、遠景を見る愉しみであると考えるのである。

抽象画

 抽象的な絵画は苦手だった。単なる色の羅列のように見える絵はよく分からないし、題名をみても無題とあったりするとお手上げだ。笑ってしまったり、時にはイライラすることもあった。

 ところが先日、件の絵画に対したとき不思議な思いになった。脳の何かに作用したのかめまいのようなものを感じたのだ。そこにいろいろな幻影が浮かんだものもある。

 抽象的絵画の中には意図的に描かれたものが多いようだが、中には画家が実際にそのように見えたものを具現化したものもあるということだ。ならばこれは脳の深い層にあるものの見え方と関係を持っているのかもしれない。そう思うからそう見えるだけかもしれないが。

 美術館に行くことが脳の深部に触れることに繋がることは以前から気づいていたが、それを痛感するようになっている。

爽やか

 俳句で「爽やか」は秋の季題だ。気温、湿度とも適度になるこの時期を示す言葉となる。今年はずっとマスクを着けて生活しているせいか、本当の爽やかさを実感できない。

 おそらく様々な不安が秋晴れを素直に味わえない原因になっているのだろう。どんな青空も白い雲も気持ちまで晴らすことは難しい。いや、もっと大きな風景写真を見なければならないのかもしれない。都会の切り取られた空ではなく、もっと大きな枠組の空を見なければ。

 私はどんどん視野が狭くなる呪いを掛けられているに違いない。そんなふうに考えている。秋は爽やかなはずだ。秋の力に期待したい。

歴史的な場所

 史跡を訪ねる人はいつの時代も後を絶たない。それは歴史の授業で学んだからだろうか。それは一つのきっかけに過ぎない。おそらく人をひきつける要因にはもっと深いものがある。

 私たちは過去の人々が確かに生活していた場所に赴くことで、現在地を確認しようとしているのではないか。不断の時間の流れの中で、物事は常に変転し、その無常の現実さえ見失っている。大抵は意識しないでいられても、ある時突然思い浮かぶ不安定な気持ちを抑えてくれるのが歴史なのではないか。

 過去は輝いているとは限らない。否定したい負の記憶も含まれている。ただ、それも含めて振り返ることが、現在を安寧な気持ちで生きるための条件なのではないかと考えるのだ。

声援

 声援に意味があるのかという素朴で根本的な問いを考えてみる。言わずもがなの結論であると先に述べておく。

 何かをするのは当事者であり、どんなに周囲が動いてもそれだけでは意味がない。手を貸したり、資金的援助をしたりと何らかの実質的な支援をするならば別だが、声をかけるだけの行為に効果はあるのだろうか。

 私たちはそれが有意義であることを経験的に知っている。それは私たちの行動が言葉によっているからだ。私たちはごく自律的な身体行動を除けば言葉によって行動している。どのような言葉で行動するかによって行動の程度が大きく変わるのだ。

 だから行動を加速する言葉は効率を上げ、抑制する言葉は過度な刺激から身を守るきっかけになる。だから、声援には意味がある。