小学生の心

 小学生が主人公の小説を読むたびに思うのだが、果たしてこのような考え方を小学生がするのだろうか、何か根本的な間違いがあるのではないか。書いているのは大人の作家であり、大人の見方で小学生を描いている。そういった疑問が湧く。

 もちろん、これは見当違いな批判である。小学生の話は小学生でなければ書いてはならないとは言えない。過去の人物のことも同じだ。その時代に生きていないならば小説として書けないというのならかなり窮屈になる。むしろ、それらを乗り越えて別人格を作り動かすことが創作の醍醐味というものだ。

 しかし、それでも気になるのは自分が小学生のときと比較してしまうからだろう。果たしてこんなに深い考えを持てていただろうか。そう考えると違和感を禁じ得ないのだ。

 矛盾したことを言うが、小学生の頃の考え方を思い出すことがほとんどできない。どんなことをしたとか、どこに行ったというようなエピソードは記憶していても、そのとき何を考えていたのかは忘却の彼方なのだ。アルバムを開いたとしても断片的な思い出しかない。

 思うに子どもと大人は接続していながらも、どこかに越えられない境界線があるのではないか。その境界を越えられるのは一度きりであり、不可逆の流れが支配している。だから、大人になると子ども時代が急に縁遠いものになり、歳を重ねるほどに理解しがたいものになる。

 子どもを主人公とした創作をするのはそのことへの抵抗なのだろう。絵本のように本当の子どもが大人の作った作品を読むときもあるが、作者と読者が同じ境地に達している保証はない。小学生の心は神秘に富んでいる。かつては自分もそうだったのにもかかわらず。

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