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ノートに

 ノートといっても紙面のもののことをいう。そのノートにいろいろな情報なり、思い付きを書いたものがたくさん並んでいるというのは私の思う理想であった。知識なり経験なりが物理的な形となって蓄積していくというイメージがあるからだ。

 しかし、現在は書くためのノートがたくさんある割には埋められていない。何もたまっていないのだ。それはとても残念であるし、なぜか悔しくもある。このブログのようにデジタル上に書き残したものを集めるとおそらくそれなりの分量にはなる。私の場合は質より量だ。内容より継続が目標になっている。

 それでも大学ノートやらコクヨの野帳やらに何かを書き続けたいという思いは常に持っていて鞄の中には何冊ものノートがある。それらは書かれることなく、自宅と職場やその他の場所の間を移動し続けている。いつかはそれが活用されることを期待しているのだが。

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読書量

 読書量といわゆる国語の能力はおそらく相関関係があるはずだ。たくさん本が読めるということは、文字から内容を理解できているということであってそれだけで読解力のある証だろう。

 ただ、本を読まなくても国語の点数がいい子どもはいくらでもいる。つまり、読書量は国語の点数を取る必要条件ではない。点数を取ると断ったのはあくまで従来の大学入試のような問題を想定しているからだ。より深い読解をここでは考えないことにする。

 国語の試験で聞かれることは論理の展開を把握できているかどうかだ。だから極端なことをいえば、内容が本当に理解できていなくても正解は書けてしまう。国語の成績はいいのに、その知識の深みが感じられない人がいるのはそのせいなのだろう。

 読書量は国語の成績のためというより知識や知恵の厚みを担保するものとして重ねるべきなのだ。

俳句でも

 俳句は有季定型の文学であり、情ではなく景を描くことによって、結果的に作者の感情を表現する文学です。ある景物にどのような感情を抱くかは民族性や地域性があり、それがこの文学のローカルな一面を作り出しています。

 俳句という言葉自体はグローバル化しており、haikuは世界語となっています。極めて短い形式の中で行なわれる文学表現という行為は民族を越えて広がっていることになります。

 俳句の楽しみ方の基本は句会ですが、この句会システムはデジタルとの親和性があります。無記名で提示された作品の中から気に入った作を選び、最後の披講で作者がわかるというのはとても分かりやすい。これをたとえばG-Suiteを通して生徒諸君との間でデジタル句会を行うことも可能かもしれません。

 俳句には吟行という楽しみもあるのですが、集まれない近づけないいまではせめてデジタルで句会でもなどと考えてしまうのです。

考える基準

 自由に考えてもいいと言われても私は困惑するばかりです。自由に考えるというのは無から何かを生み出すくらい難しい。

 何かを考える基準として例えば宗教的な知の枠組みとか哲学者の言葉とか、歴史的事実とかは確かに役に立ちます。さらに身近な人たちの言葉も大きく影響しているのは事実です。

 なんらかの基となる言説があって私たちは自分の考えをまとめることができる。まとめるまでは無数の試行錯誤の繰り返しです。それをある言葉にまとめあげたときに、さらなる命名前の体験に挑戦できるようになるのでしょう。

集中できる場所

 自室では仕事ができないという人の気持ちはよく分かります。生活のための空間という位置づけができてしまうとそれを変えるのは難しいのです。

 仕事をする上で図書館やカフェにわざわざ出かけてやった方が能率が上がるという人がいます。私もそうでうるさくて仕方がないはずのコーヒーショップの方が読書が捗ります。恐らくいまはこれをやるときという割り切りが場所の移動によって自覚できるからでしょう。場所と意志とは連動するのです。

 わざわざ金をかけて他人の空間を借りるよりも、遥かに高い家賃を払っている自宅の方が使用されるべきであることは理屈では分かっているのです。しかし、気分というものは簡単ではありません。

 自分が集中できる場所を探すことが何かを成し遂げるには不可欠であるとつくづく考えているのです。

中央林間図書館

 神奈川県大和市の中央林間図書館は東急ストアなどの複合商業施設の中にあります。蔵書は少ないですがショッピングをしたついでに気軽に立ち寄れるなかなかいい場所です。

 図書館のあり方については各自治体で様々な試みがなされています。中央林間図書館の場合は気軽に利用できる点で優れています。図書館というと私語厳禁の密室的な雰囲気がありますが、ここはショッピングセンターの中にあるためかなり開放的です。図書館とタイアップした星乃珈琲店も隣接しており、おしゃべりやコーヒーと読書とを両立できる空間まで用意されているのです。

 最近は労働時間の短縮のために職場を早めに引き上げる必要がありますが、その時間で資格取得のための勉強や趣味の読書をする人も増えているようです。そんなときに気軽に利用できる図書館の存在はありがたい。私もこれからしばしば立ち寄ることになりそうです。

学び直し

 教員の役得の一つとして、近くにいろいろな教科の教員がいるということがあります。これを利用しない手はない。そこで学び直しといくことにしました。

 教材は生徒諸君が卒業時に残していった問題集や参考書がありますので、それを使えます。なぜかほとんど使った形跡すらないのはなぜかわかりません。でも報われなかった学びの本たちに活躍の場を与えてあげることにしたのです。

 継続できるように学びの記録はスタディプラスというサイトにつけることにしました。問題集単位の記録なので何をどこまでやったのか分かりやすいのがよいところです。いつまで続くのかお立会。

 生涯学生と考えていますがそれを形でも表わそうということです。最近読んだ脳科学の本によれば高年齢者の脳も学習次第で活性化するのだとか。真偽のほどはさておくとしてとりあえずやってみたいと考えています。

前を向くこと

 何番以内、平均点以上、そんなことより別の目標を考えようよ。それが今の私の口癖です。

 生徒諸君の関心事は順位や偏差値ばかりです。これは他人との比較です。他人と比べるだけでは自分の努力はなかなか報われないように見えます。周りの人たちも頑張っているときには相対的な位置は簡単には向上しないし、場合によっては下がってしまうこともある。努力は報われないように見えます。

 果たしてそうなのでしょうか。明らかに前回より頑張ったはずなのに成績が出ない。やっても無駄なんだと短絡する前に他人との比較ということの意味のなさに気づくべきなのです。比較する必要があるとしたら、それは過去の自分と現状との比較であり、努力の量が増えているならばそれは立派な向上と言えるのです。

 結果はすぐには出ないこともある。出るのが相当後になることもある。ただいつかは何らかの成果が出る。その出方が人によって違うのです。遺伝的には私たちは実に不平等な環境にあると聞きます。違う車に乗っているのに速さだけ競っても意味はない。むしろどれだけ前に進もうとしたかを自己評価するべきなのです。

 そのためにはやはり横を見るのではなく、前を見ることが大事なのでしょう。目指したい目標は何か。どのような人生を送りたいのかをそのつど考えていく必要があります。進んでいくうちに目標が少しずつ変わっていくのは仕方がない。そのつど何かに狙いを定めて取り組んでいくことに意味があるのです。

読書推進

 読解力の低下が話題になっています。中高生だけではなく、大人世代にも共通する社会問題です。

 読解力の低下が読書の習慣がないのと相関関係にあるというのはおそらく事実です。文字だけの情報から発信者の意図をくみ取るのには、経験が必要です。特に文章を構造的に把握する力は纏まった本を読むことで培われるものです。では本を読みなさいというだけで事態は解決するのかといえば、そんなに簡単なものでもありません。

 私たちは興味のあることには時間を忘れて熱中することができます。読書に熱中するためには興味のある内容を読ませる必要があるのです。読ませたい作品があるのは事実であり、それが一定の効用を持つのが明かでも、読書を押しつけるだけではならないのです。

 興味のある本を選ばせて読ませる時間をもっと与えなくてはならない。そのための工夫も必要になるでしょう。

やってやろうじゃないか

 先生は漢検の級もっていないんですか。生徒に聞かれたとき用意している答えがあります。私が高校生の頃、漢検がなかったんだと。

 大抵はここで引き下がるのですが、時々このバリアを突破されます。それならいま受けたらいいじゃないですかと。これも苦笑いでかわしてきたのですが、どうも後味がよくない。そこで一念発起することにしました。来年度中に準1級に合格しようと思います。ブログに書くのは公約のつもりです。

 準1級は実用レベルを越えた漢字の知識が問われます。ほとんど使われることがない文字や熟語が大多数を占めます。デジタル時代では入力できる文字が少ないので、このレベルの文字は使えないことも多い。漢文学の知識も要るようです。

 目標は大きい方がよい。ならばやってやろうじゃないか。いまはそんな気持ちになっています。