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寒波の前の静けさ

 明明後日くらいから寒波が関東にも流れ込むらしい。マフラーや手袋がいる段階に入る。でも今日はかなり暖かい。というよりこの程度の寒冷に順化してしまったようだ。ここから冬へ向けてのギアチェンジが要る。

 気象の常として、寒波の前には一時的な快適な期間がある。あたかも悲劇の始まる前の緩和のシーンのような感覚である。北陸に住んでいた頃はそれを痛切に感じたが、この列島に住まう以上は程度の差こそあれ、似たようなものだ。小春日和の後に猛烈な寒波が来るのかもしれない。

 私たちは暖房器具を持つ建物を有し、防寒の具も幾つか身につけている。昔の人たちはさぞ大変だっただろう。そのことを思えば、今の生活の安楽を喜ぶべきなのかもしれない。

もう終わりですか

 霜月も今日で終わり。あまりにあっけない。もちろんこの月にもいろいろなことがあり、得ることも失うことも多かった。それにしても痩せ細った秋のように、この月はあっという間に終わってしまう。

 明日からは十二月ということは年末ということになる。私の生活体系においては単なる通過点に過ぎない。でも、やはり年が変わることには特別な感情が伴うものである。

 残り1か月で何ができるのか。そういう考え方をしなくてはならない。私の基本的な考え方として、残された時間で何ができるのかという期限付きの思考がある。だから、あっけなく過ぎていく時間に対しては少し敏感にならざるを得ない。

おせち料理の意味

 最近はいろいろなところにおせち料理の予約の広告がある。贅沢な具材をふんだんに用いて数万円という価格で予約を受け付けている。すでに受注終了というシールが貼られたものもある。私などはどうしてここまで投資しなくてはならないのかと考えてしまうが、価値観はさまざまあってよい。

 おせちの原点は節日の供物にあるのだと考える。季節の節目に神に季節の収穫物を備えることで、神に満足してもらい、次の年の豊年を予祝する。神はここまでやってくれたのだから来年もという気持ちになると古人は考え他のだろう。だから、あくまで神饌であって、人はそのお下がりをいただくのに過ぎなかったはずだ。

 それがいつのまにか人間がその贅を尽くすためのものと考えられるようになる。信仰の枠から外れれば、限りなくその内容は形式化し、高級食材を使う方がよいとされていく。神様を忘れ、自分が神であるかのように振る舞うが、神である資格は経済力に裏打ちされたものだ。変動の激しい基準である。私のようにいつまで経っても神様になれない人もいるが、神になったり、落ちぶれたり、その繰り返しをしている人もいるはずだ。

 おせち料理を食べるとき、一瞬でも自分の信じる神もしくは尊敬すべき人やモノを思い浮かべるといいのかもしれない。するとその重みがその味を荘厳なものに変えてくれるはずだ。¥ではない単位の幸福が得られるかもしれない。

紅葉見頃

 先日、紅葉もしくは黄葉を見てきた。近隣の公園であるがそれなりの見応えがあった。いわゆる名所の紅葉は確かに綺麗なものだが、純粋に季節の移ろいを味わいたいのなら、混雑のない近隣の公園や雑木林を見るのがよい。その意味では東京はこれでも植生が残っている都市である。

センター南のライトアップされた黄葉

 個人的にはユリノキの黄葉と落葉はダイナミックでよい。大きな葉が舞い落ちる様は見応えがある。葉の形も変わっていて、落下時には風に舞いやすい。ほとんどが黄色になる黄葉だが、稀にアントシアニンが生成されるらしく、赤みを帯びたものもある。

 紅葉を楽しむのは心やりとしてはいい。ただ、公園などでは落葉してからの処理に多くの労力が使われているはずだ。管理している方には感謝するしかない。

ハナミズキの紅葉

 ハナミズキの紅葉が見頃になっている。もつとも、今年は紅葉の色が濃い樹木とそうでないものとの格差がある。日当たりのいいところの樹木は燃えるような赤が印象的だが、日陰がちの場所の木は褐色の方が目立つ。街路樹の場合、方位や周囲の建物によって、日照の状態が変わり、それがハナミズキに反映されているらしい。

 ハナミズキはアメリカからもたらされた植物である。ソメイヨシノと交換されたらしい。だが、今となっては日本の風景を彩る大切な樹木である。花の方に注目が集まるが、真っ赤になる紅葉の時期にも見どころがある。街路樹としてもよく使われるが、あまりの赤さに立ち止まる人も多いようだ。

 私にとっては通勤の道筋にあるささやかな楽しみなのだ。

秋を見つめる

 二季という言葉が今年の流行語の候補になっている。この言葉自体は前からあって、私のブログでも2022年に使っていた。それ以前から春秋のやせ細りは危惧されており、気候変動を具体的に示す言葉として使われ続けている。

 されど秋の情緒はやはり感じたい。先日紅葉の色づきのことは書いたが、自然の推移から受けるさまざまな感情はどんなに小さなことでも大切に味わいたい。夏から冬への過渡期ではなく、秋そのものの蓄えているものを見逃さないようにしよう。

 類型的な速断はやめて現実に向き合うことがいまの生活には必要なのだ。

色づき

 11月になって紅葉が進んできている。近隣の街路樹などのそれをみる限りではどうも色づきがよくない。感覚的なことなので正確かどうか分からないが、赤みより褐色の度合いが強いように感じた。

 紅葉の原因とされるアントシアニンという物質は秋になって葉の中で生成される。赤い色味を表現する色素である。生物学的には葉の老化の過程で太陽光から受けるダメージを軽減する働きをしているらしい。この色素の生成には光合成と寒暖差が必要とされるが、今年の場合、9月と10月の日較差が例年より小さかったために十分にアントシアニンが生成できていないのではないかというのである。

 これだけではないが今年の紅葉は色づきが足りないというのは概ね理屈は成り立つようだ。いわゆる異常気象は人体にも相当な影響を及ぼしていると考えられるが、不動のように見える樹木にもかなりの打撃であるらしい。

 それでも場所によっては綺麗な紅葉を楽しめる。余裕があれば出かけていって観賞したい。ただ、街路樹の必死な営みにもあわれを感じてみたいのである。

風邪かな

 最近は外出する機会が増えて疲労が蓄積気味である。ここ数日、わずかに喉の腫れを感じる。市販薬を飲んでみたが、どうもよくも悪くもならない。副作用の眠気だけが襲いかかってくる。

 インフルエンザが少しずつ流行しているようだ。コロナウィルスも過去のものではない。多少の免疫をつけた分、かつてのような劇的な重傷化は起きないというだけだ。とりあえず予防のためのマスク着用と、防寒のために薄いコートを着るようにする。

 風邪などひいている暇はないのだ。やるべきことは山積し、それも崩れ始めている。少々厄介な戦いだが、勝ち残るしかない。

衣更

 このところ雨か曇りの毎日で、気温もこの季節ならではの水準にまで下がってきた。特別なことはなにもしていないが、不思議な思い入れが芽生えたのは事実だ。

 かつてに比べて、衣更の時期が後になった。夏服が見られたのは先週までで今週はほぼ全員が上着を着ている。中には薄いジャンパーを着ている人も出てきた。

 この傾向は来年以降も続くのだろうか。更衣の概念自体が変わりつつあると実感している。