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譬え話の力

 古典文学に接していると、誰でも気づく違和感がある。日本の古文でも中国の古典漢文でも同じだが、譬え話が多くその内容と結論の間に隙間があるように感じることである。

 現代の文章は大抵の場合、まず問題提起がなされ、その問いに答えるように説明が続く。ここに具体例が入る。譬え話もここに含まれる。そして最後に提起された問題の答えが示される。ところが、古典の場合はいきなり譬え話から始まる。何が目的なのか示されないまま、話が始まるのである。最後の数行で短く結論をいう。読者はここまで読んでそれまでの話が何を言わんとしていたのかが分かるという仕組みだ。

 具体例と意見の結びつきは必ずしも理解可能とは限らない。かなり無理があるものもある。譬え話がうまく機能しているか分からない。極端な例を出して主張に誘導しているものもある。古典を読むことでその内容から学ぶことは多いが、逆に古典文学の段階ではできなかったことは何かを稽えることもできるのだ。

 最近、一部の人々の表現に古典文学的な論理展開をして煙に巻くものがあると感じている。いきなり極端な譬え話をして、聞き手を混乱させ、結論部で自説を強引に述べて納得させようとする。多くの人がそれに誤魔化されてしまう。古典を読んでいれば短絡する可能性は減るかもしれない。

使わないなら

 古典の学習が無意味だという人はかつてから一定数いる。特に学習に興味を持てず苦しんだ人に多い。学生たちの愚痴として、また大人の思い出話の一環として語られることが多かったが、最近、影響力のある人までが発言するようになったのは残念だ。

 古典文学の学習は文化の継承に不可欠というだけではなく、母国語の深層部を知るきっかけになるものだ。例えば「うつくし」が可愛らしい意味を中心に用いられていたことを知ることで、現在の「かわいい」文化の淵源がわかる。考え方の型や、人生観の変化も学ぶことができるはずだ。

 学校の古典教育が入試科目として位置づけられ、表層的読解に終始してしまっているのがいけないのかもしれない。このことは回を改めて述べてみたい。

古典の発想

 複雑な時代を生きていると何が正解なのか分からなくなることが多い。というより常に正解が分からない世界に生きている。そんな私たちにとっては一つの指標がある。古典を読むことである。

 私にとっての古典は日本の古典文学作品である。大学時代にこれを専攻したこともあり、私にとってなじみ深い。万葉集の歌を読むとき、中世の説話を読むとき、そこには常に発見がある。未完成で粗削りなストーリーの中に可能性を感じる。国語の教員である私はそれを教材としてのみ扱うことに常に抵抗を感じている。まるで暗号解読のように古典を読む同僚たちの手際よさに感服しつつも、それは古典を呼んではいないだろうとも思う。そして彼らと同様に、しかも少々拙く読解のテクニックばかりを教えている自分の毎日を反省する。

 私はひそかに古典文学をなるべく自分にひきつけて読む意訳を最近続けている。学校では決して教えられない方法だが、日記やブログに書くのならいいだろう。その訳し方では決してテストで得点は取れない。大学にも合格できないが、少なくとも主体的に古典を読むというもっと大切なことはできるのではないか。いつかこのサイトにもそれを載せることができればなどと考えている。