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フレーム

 美しい絵画をみると感動するが、その中には額縁の存在もあることをつい忘れてしまう。額縁は作品を引き立てる大切な役目を果たしている。

 昔の絵画の中には絵の中に縁取りのような模様が描かれているものもある。それは中央の絵画とは付かず離れずの関係にあり、テーマをまさに側面から支えている。宗教画なら天使や悪魔、妖怪などが図案化されている。絵画世界を俯瞰しているかのような存在だ。鑑賞者はさらにその上から見ていることになるから、重層化した世界を見ているような感覚になる。

 普通の絵画でもフレームは創作と現実の境界として機能する。囲まれた世界は例え偽りであっても受容することができる。創作であることを示す目印と言える。

 パーチャルリアリティにしても、拡張現実にしても今のところはコンピューターの画面というフレームに収まっているから目印がある。しかし、恐らく近い将来、画面を飛び出した非現実が現れるだろう。そうなると私たちは自分で目に見えないフレームを作り出さなくてはなるまい。それを忘れると思わぬ悲劇が始まる可能性がある。

AIは著作権を知らない

 AIのChatGPTなどで質問するとたちどころに回答がある。しかし、これはAI自体が考えたものではなく、既存のデータから適当なものを拾い合成しているようだ。だからときにキメラ的な回答になることもある。

 とても便利なのだが少なくとも今私が無料で使っているものの場合、典拠は示されず、どのような改変をしたのかも分からない。だから、AIが独自に考えたように見えるのだ。

 イタリアでは著作権侵害などの理由でこのシステムの使用を制限するらしい。著作権に関しては厳しいEU諸国が追随する可能性は高く、AI検索システムには一つの関門ができた。

 とはいえ、画期的な検索方法を使わないという選択はあり得ないだろう。典拠や回答の生成情報を付記することはさほど難しいこととは思えないし、著作権法に対応した運用もなされるはずだ。

 私は著作権に限らずこの自動検索の過程に意味的理解がなされていないことが懸念事項と考える。配慮とか尊敬といった考え方が存在しないと思わぬ結果になり得る。それをクリアすることが何よりも優先すべきことである。

画像生成

 人工知能を活用した自動画像生成ツールがある。静止画のレベルならば写真と見紛うほどの質の画像が瞬く間に完成する。恐らく既存の人気画像の要素を取り込んでいるのだから、それを合成した生成画像が満足感の高いものになるのは必然なのかもしれない。

 言葉に関心があるものとしてこのシステムには非常に興味深い要素がある。それは作画の指示を言葉によって行うことである。例えば、若い、男、爽やか、カジュアルな服といったようにフレーズを並べる。またそうであってほしくない要素も指定する。例えば不潔、悪党、入墨などだ。これらの要素を除いて作画するのだ。

 絵画が言語によって指定されるのは人間の認知行動の本質に触れているのかもしれない。実際の絵画は画家の長い時間をかけての修練が不可欠だ。だが、何を描こうかと思う出発点は言葉なのかも知れない。

 ならば優れた絵を描こうとするならば操れる言葉の種類が豊富である必要がある、これが少ないと類型的で単純な絵しか生まれない。人間の認知行動や表現行動を可視化したものと思われる。

 いい絵を描けるように、つまり多彩な表現や行動ができるように使える語彙を増やすことが大切だ。これは生徒に対する分かりやすいメッセージになる。

速度制限

 いつの間にか通信の量が増えてしまい、いわゆるギガ不足状態になっている。月末まであと数日なのでこれで持ちこたえることにした。メール以外の殆どが使えない。

 原因はクラウドへの写真のバックアップにモバイル通信の制限をかけていないことだった。これには設定で解決できる方法があることを知り、早速始めた。来月からはそういうことはないだろう。

かつてのモバイル機器に比べて通信にかかる容量は飛躍的に増えている。ネットは格安プランでいくなどの変更が必要なのかもしれない。画面より本を開けという天啓と考えることにしよう。

Someone to watch over you

 川崎駅周辺に100以上の監視カメラが設置されるのだという。川崎市長は全国で最も安心できる街にすると記者の取材に対して述べたらしい。川崎は現在訪れるとかなり整然としているが、かつては犯罪も多く発生していたので危ない街という印象がある。おそらくそういう先入観を払拭したいという考えもあるだろう。

 川崎に限らず設置者の公私を問わないならばすでに多くの監視カメラが設置されている。警視庁が設置するカメラは分かりやすいが、そのほかにも駅の改札付近のカメラやコンビニエンスストアのカメラ、個々人が防犯のために玄関から外を写しているカメラなどがある。さらにこれは盲点かもしれないがいわゆるドライブレコーダーは移動しながら街の様子を記録し続けている。

 すでに現代社会は監視されている社会なのである。いまのところはそれを統合することは難しいかもしれないが、やろうと思えばできてしまうテクノロジーはそろっている。犯罪が起きないようにするため、起きてもすぐに犯人を特定するためにはこうした技術は有益だろう。ただいつも誰かに監視されているということを忘れてはならない。世間の目がゆるさないという日本人が伝統的に持ってきた価値観はすでに形而上学的なものではないということなのだ。

 エラ・フィッツジェラルドの名曲 Someone to watch over meのようなロマンティックな状況とは少々違う。

表情筋

 正しい名称は知らないが表情を形成する筋肉はとても複雑な動きをしているに違いない。わずかな表情の違いを私たちは読み取る。だからそれに応じて微妙な形を作り出しているのだ。

 人工知能で作画したアニメーションはかなり自然に近い動作を生成できる。ただ顔の表情となると何か違和感が生じる。説明が難しいがそうはならないという動きになる。手作業のアニメでもこの問題は完全には解決できない。我々はアニメーションにおける表情の型に慣れてきているので不気味さを感じないだけなのだろう。

 歳をとると表情が乏しくなるらしい。他人を見てもまた自分自身のこととしてもどうやらこれは当たっているようだ。表情筋にもそれなりの体力がいる。顔のトレーニングもやはり必要なのだろう。

画像生成

 AIによる画像生成の技術は見るものを驚かす。最近はキーワードを入力するだけで絵画や写真のように見えるものをごく短時間で作り上げる。知らない人が見れば人が描いたものと見間違うほどだ。

 おそらく私たちの画像認識というものはある程度パターン化している。それをコンピューターは膨大な映像データベースから抜き出し、それに近いものを組み合わせてくるのだろう。組み合わせの仕方にもある程度の型があるから、それを使えば自然に見える絵になる。チャットするプログラムと基本的には同じなのだ。だから、ときには奇妙な絵になってしまうこともある。

 今のところは、絵画や動画生成を瞬時に行うことは難しいようだ。それが可能になれば、言語プログラムと作画プログラムを連動させ、ホログラムのような表現で投影すれば、リアルタイムで会話する疑似人間ができあがる。ロボットテクノロジーが追いつけば形而下の世界に現れることになるのだろう。

 言葉でも映像でも騙されやすい私たちがこうした事態にどのように対処すべきだろうか。そのためにも問題発見力とメタ認知の力を身に着けさせるべきだろう。これこそが教育のやるべきことなのだ。

機械とおしゃべりすれば

 機械とおしゃべりすることができるようになった。私がパソコンを使い始めた頃、munouというプログラムがあり、話しかけると返事するのを楽しんだ。ただ、ほとんど無意味な返事しか返ってこなかったのですぐに飽きた。

 会話するおもちゃとしてのファービーも似たようなものだった。見当外れのリアクションがあっても人間の方で勝手にかわいいと判断し、ペットのようにかわいがった。

 いま爆発的に普及しつつあるChatGPTも基本的にはそれと同じだ。ただ、膨大なデータベースから確率の高い組み合わせの情報を瞬時に自然な言語で提示してくるので不自然さはほとんどなくなっている。基本的には昔のプログラムとは変わらないので人間側が不自然だと感じる可能性が極めて低くなったということに過ぎない。

 その点を踏まえた上で、AIに問いかけるのは一定の意味がある。多くの人はこう思うはずだという多数意見を検索できれば様々な判断の材料になる。大いに使うべきだろう。何かに行き詰まったときに回答を求めれば真の解決策は得られないかもしれないが、ヒントにはなる。

見た目レトロ

 松本零士作品の代表作、銀河鉄道999は蒸気機関車のような姿をしながら、実は驚くべき高性能という設定である。宇宙戦艦ヤマトは発進時に最新兵器としての姿を現すが、銀河鉄道の方は、宇宙空間でも煙を吐きながら進む。これには過去の風景を未来に描くというロマンが表現されている。

 この感性は尊重されていい。最新の機能を持ちながら実は最新鋭というスタイルには憧れる。例えば、昭和世代では懐かしいサニーや2000GTの形なのに実は電気自動車だったり燃料電池対応だったりする車があれば魅力的だろう。最新型なのになぜか窓ガラスはハンドルで回して開けるというのもいい。誰か造ってくれないだろうか。

 人間もそうでありたい。見た目はくたびれた老人であっても実は最先端の技能を持っている。感性も新鮮だ。しかもそれを奢ることなく、謙虚な行き方をしている。そういう人は憧れである。見た目はレトロ、実は最新型というものに憧れる。また、そういうタイプの人になりたい。

無人化

いらっしゃいませ

 外食産業で無人化が進んでいる。と言っても、内情は知らないのであくまで客の立場での無人体験をまとめてみた。

 某回転寿司店では入口でロボットが出迎える。彼は日本語がかなり流暢に話せるが、きまり文句以外はできないようだ。この点は最近の人間と変わりない。残念ながら人間の話を聞く度量はないらしくタッチパネルで希望する席種や人数を聞いてくる。作業が終わると丁重にお礼して席の位置を印刷した紙をくれる。

 あるファミリーレストランは席に座るとタブレットがおいてある。客はここでもスクリーンの沼に誘い込まれ、自分で注文をする。かわいいウエイトレスやかっこいいウエイターは来ないが、彼らに間違った注文をされる心配はないし、ご注文はこれで「よかったでしょうか」を聞かずに済む。

 別のファミレスは注文した料理を自走するロボットが持ってくる。残念ながら人型ではなく、自動ワゴンとでもいうべきものだ。なぜか陽気な音楽を鳴らしながら動くのは、そこどけとは言えないからだろう。彼、もしくは彼女には言語能力はない。

 先日入ったレストランは座席案内も注文も配膳も人の手で行っていた。これが一番落ち着く。多少の間違いはあってもいい。やはり人のぬくもりは大切だ。食事が終わってお会計は、というとこれがセルフだという。勘定書のバーコードをスキャンすると金額が表示される。現金を入れるか、スマホでバーコードのお返しをするかで会計を済ませる。ありがとうございますとも言わない。会計が済んだらただ消え去るのみだ。

 以上がすべて揃った店にはまだ入ったことはない。でもそのうち普通になるかもしれない。ロボットにいらっしゃいませと言われ、タッチパネルで注文した料理がロボットによって運ばれる。すでにネットで会計は済んでおり、あとは帰るだけだ。食べ散らかした食器や残版の類はロボットが音も立てずに見事に片付け、除菌までする。これは数年後に見られるかもしれないし、来年かもしれない。

 今日は少し塩辛いなと思ったら、後でお詫びのメールと謝罪用のポイントが届くかもしれない。先日調理ロボットがハッキングされ、塩分センサーに異常が発生していました。今後はセキュリティに注意していきますと。