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駅の伝言板

 電車の車内の動画で伝言板を話の中心に置く話が毎日映写されている。男女のすれ違いを描く純愛ドラマの風で、音声がないのにもかかわらずひきつけられてしまう。ふと気づいたのだが、駅の改札付近にあった伝言板は最近はほとんど見かけない。どこに行ってしまったのだろうか。

 「シティーハンター」ではこの伝言板が話の発端として利用されていた。新宿駅にあったことになっている。いまは個々人の連絡は携帯電話などで連絡できるし、公共の看板ならいたずらや、プライバシーの問題も出てくる。だから、シティーハンターを呼び出すことも現在ではそう簡単にはできない。ソーシャルメディアに書いたならば、発信者の特定は黒板以上に正確にできてしまう。

 私自身が駅の伝言板を使ったのは一度だけだ。待ち合わせの相手が遅刻してきたときに、「先に行く」といった内容を書いたことある。たいてい私の方が遅刻していたので、伝言板を使う必要がなかった。いつ来るか分からない、途中で何かあったのかもしれない、そもそも約束自体を忘れているのかも。そういった疑問は今では相手へのメールで確認できるだろうが、昔はそうはいかなかった。それでもコミュニケーションは成り立っていたし、許しあえるゆとりはあった。

 駅に伝言板があった時代の方がもしかしたら豊かな人間関係があったのかもしれない。そんな幻想を思い浮かべてしまうのである。

備蓄米を食べる

小泉農水相の備蓄米供出のアクションは批判もあるが私は評価すべきだと思う。異常な米価の高騰に一定の影響力を及ぼすはずだ。ただこれはあくまで緊急処置であり、恒常的な食糧自給のシステムを確立しなければ問題は解決しない。米作りがより魅力的な産業であり、国内のみならず海外にも訴求するものとして発展させる必要がある。

 古米、古古米といった過年度米の味についてはさまざまな意見がある。また調理法についても検索すればいくらでも見つかる。瞥見するに、水を多めに、また日本酒やみりんを使用料加えて炊くといいらしい。

炒飯やピラフなどの炒める料理や、釜飯などの出汁を吸収させる料理にも向いているようだ。何でも工夫次第ということになる。

かつて記録的冷害による不作となった年に、急遽カリフォルニア米やタイ米が輸入された。タイ米は品種的に別扱いされるものであるが、米国産米(よく考えてみれば矛盾する表現だ)は同種ということで期待されたが、日本のブランド米との差ばかりが指摘されて不評だった。

いまはそこまで米に味を求める層が減っている。米の食感にうるさかったはずなのに、いまはだいたい同じならば構わないくらいにセンサーが緩慢になっている。ファストフードチェーンで供給される米の多くは外国産という報道もあるが、食べてみるとさほどの違いはない。というより、高次元の区別をする気持ち自体が失われている。

備蓄米を食べて経済的危機を救うのは良策と思う。まずいと思う向きは買わなくていい。米が依然として日本人の主食である限り、それを確保する方策を固めるべきなのだ。

切り取り

 発言の一部を巧みに摘出し、ときに組み合わせて発言の内容を曲解することがよく見られる。切り取りと言うそうだ。短い動画が世界的に流行しているがこの歪曲された情報はその中でループされている。

 話法に譲歩の型というものがある。簡単にいうと、一般的にはAだが、私はBだと考える、といった論法で、筆者のいいたいことはBの方でAは比較される材料に過ぎない。しかし、悪意のある切り取りではAの方が引用され、真意は伝わらない。

 受け手としてはそれがどの程度の引用なのかを考えなくてはならない。本当にそんなことを言っているのか。限りなく原資料に遡及する努力は必要だろう。ショート動画やソーシャルメディアにそれが掲載されていても鵜呑みはできない。

 発信者の方も工夫が必要になる。切り取られにくい論法を考慮しておく必要があるのだ。どこが引用されても曲解されない工夫はやはり必要である。メディアリテラシーは細部に渡り必要になっている。何が本当でどこにまやかしが潜んでいるのか。常に注意しなくてはならないのだ。

表現の多様性

 表現の多様性は生活の質を上げるためにも不可欠である。言語による表現は我々の思考と行動の全てに影響を与える。実際には連続的でしかも不定形の世界を言葉はあたかも定形のピースが存在するかのように世界を切り分ける。これは多くの言語学者が述べていることなので改めて言うまでもない。

 使える言葉が少ないと世界の切り取り方は雑なものになる。現代社会は大量生産にとって物が増え、さらにインターネットなどの情報サービスの発展により、物質を超えた情報が重視されている。なんでも機械が処理するせいか、人間が使う言葉の方は貧弱になっており、使える言葉の数が減少しているかのようである。極端にプラスかマイナスしか表現できない。評価の種類が少なく、判断者の意図が正確に伝えられない。

 言葉の数を適度に増やすことは意識して行うべきことだろう。教育の担当者はこの点に十分に配慮すべきだ。そして、個々の学習者が言葉に対する好奇心を持ち続けることが必要なのだ。

最後まで言い切る国語力の重要性

 最後まで言い切らないのは奥ゆかしさであり、日本では美徳とされている。しかし。意図的に言い切らないのと、能力がなくて言い切れないのではまったく様態が異なる。最近は「言い切れない」事例が増えているような気がする。

 細かなニュアンスを避け、大づかみにものをいう場合に「~的」とか「~系」といった表現で済ませてしまうことはよくある。「みたいな」「っぽい」のような口語表現も含めるとかなり多い。さらには例えば「東京に住んでいる人々」を「東京住み」とまとめる表現もよく見られる。これらは会話の中で 使う分には問題ないし、同じような言葉を使う仲間内ならば親近感を高める役割も果たせる。しかし、これをそのまま文章にしてしまうと誤解が生じる可能性がある。口語的表現と書き言葉の差はまだあるのだ。

 書き言葉に会話体的な表現が多用されるようになったのはソーシャルメディアへの書き込みが普通になったことによるのだろう。それらのメディアで展開される言葉遣いは独自の進化を遂げて話し言葉でも書き言葉でもない表現を多数生み出している。ネットスラングともいうべき表現は、これも一種の仲間意識を高める言葉であり、ジャーゴンなどと呼ばれる言葉の一種である。

 四六時中ネットにアクセスしている世代にとってこうしたネット上の言葉は、日常生活とは別の次元における言語表現になっている。話し言葉でありながら文字として入力せざるを得ないという事情が独自の表現をつくり出した。そして時々それが日常生活に降りてきて、リアルな生活の中で使用されているのだ。

 幅の広い、おおざっぱな表現はネットでのチャットに向いている。多くを入力しなくても読者が察してくれる安心感がある。それを繰り返しているうちに明確な表現を工夫することを忘れていっている気がする。さらに生成型AIが文章を書くようになるとますます私たちは物事をきっちりと言葉で考えることをしなくなるのかもしれない。これは大問題であろう。

 物事を言語化して考えないとなると、判断は感情的になりやすい。また、論理的な思考を踏まなければ時々の判断は、その都度刹那的に消えてしまうことにつながる。経験がのちに生かされることもない。だからどんなに野暮だと思われてもしっかりと言い切ることは大切である。そういうことを教えられるのは中等教育の期間だろう。本当は作文やスピーチの指導にもっと時間を割くべきなのだろう。

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郵便料金値上げ

 日本郵便は定型内の封書の最低料金を110円に値上げすることを発表した。はがきも85円になるという。最近は手紙を出す機会が減ったが、やはり大切なやり取りは紙で行っている。値上げは様々な面に影響を及ぼす可能性が高い。

 実際に手紙を出そうとするとまず切手の販売がコンビニエンスストアなどで行われているから、そこまではよい。ところが投函できるポストが十分になく、それが躊躇の材料になる。また収集の回数も減っており、最終の収集時間が夕刻である場合、帰宅時に投函すると翌日に郵便局に行くことになってしまう。

 要件だけ伝えるのなら電子メールの方が何かと便利だ。同時に何通も出せるし、かさばらず紛失もしにくい。検索可能なのもいい。ただ手紙の質料には代えがたい価値がある。それだけしかないというモノとしての価値を感じられるのは手紙のいいところだ。

 あるメッセージのためにいろいろなものを総動員して書き上げる手紙の大切さを忘れないようにしたい。

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シャツの文字

What does it mean?

 文字の入ったシャツを着ることがある。大体が英語だがフランス語やその他の言語のものも見かける。そしてその意味についてはあまり考えない。

 日本語の書かれたシャツはスポーツのユニホームなどにあるが学校のクラブなどではよくあるのに、プロのチームになるとほとんどない。日本語は私たちにとって日常であるので特別な感じが出ないからだろうか。シャツの上に書かれるのは意味が分からないくらいがちょうどいいということになる。

 シャツに書かれている文字を訳すととんでもないことが書かれていたり、綴りや文法が間違っていたりする。逆に海外で売られている日本語が書かれたシャツをみるとこれもおかしな間違いが多い。恐らく意味よりもエキゾティズムなり、非日常性なりが求められているのだろう。

 外国の文字は記号でありながらも個別の意味との結びつきよりも、別のものを表すシンボルとして使われるということなのだろう。

しゃべりすぎ

 授業の反省はいろいろあるが、しゃべりすぎたときは特に気をつけたい。説明しきると教員としては満足するが、生徒側の立場では意味が異なる。

 自分の知っていることと知らないことでは、同じ分量でも理解にかかる熱量が違う。知らないことを並べられたらどうだろう。それを処理するのにはかなりの労力を要することになる。このことを考えるべきだ。

 しゃべりすぎないこと。伝える目的を考えることが肝要だ。いつもそう思いながら忘れる。このブログにこんな話題を時々書くのは、私が反省しても実践できない証だ。自戒のためにもその都度書くことにする。

伝わらない思い

 コロナ禍を経て失ったことは数多い。痛切な悲しみもあった。諦めたこともあった。ただ得たこともある。その一つが人との関わり方の多様性を学べたことである。

 ディスダンシングという拘束を味わった私たちは、それでも思いを伝えるための方法を考えた。デジタルデバイスの活用はその代表だ。しかし、テクノロジーの力だけではない。マスクをしてもコミュニケーションができるように伝達の方法を工夫した。大げさなリアクションはその一つである。

 また、何をやっても伝わらないこともあるという事実を痛感した。それも大切な確認だった。自分の思いがすべて伝わるなどという幻覚を少しだけ排除することができた。

 私は4月からは特に求められない限りマスクをしないつもりだ。花粉症対策薬が効き続けることが前提だが。新年度はどんな年になるのだろう。コミュニケーションの限界を知った私はそれを乗り越えられそうな気がしている。

ハイブリッド

 日本の文化を一言で言うならば雑種と言うことなのだろう。こういうと国粋主義者には必ず批難される。だが、雑種こそ最強であることは様々な事例から明かされている。

 雑種と言わずにハイブリッドといえば少しはいいのだろう。一つの色に染め上げない選択こそ、この国の叡智である。ただ、単なるごちゃ混ぜではなく、何らかの秩序を求めるのが日本らしさだ。日本風というのは素材とか方法論ではなく、他に根源のあるものをミックスしてもそこに一定の美意識を持ち込み整然としたものに見せることなのだろう。

 だから、ほとんど日本らしい要素がないものであっても、でき上がったものは他国にはあまりないユニークなものになる。それが和風の本質なのだ。

 こうしたことは日本に限らずどの国、地域にもあるはずだ。ただ日本の場合はこの混ぜ合わせの度合いが深く細やかだということになろう。

 日本の発言力が低減しているという考えがもし当たっているとするならばこのハイブリッドの能力を発揮できていないことによるものだ。下手に他国に合わせる必要はない。しかし、つねに他国の文化を取り込む寛容さと貪欲さは必要だ。