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即席麺

 寒くなるとラーメンが美味しく感じる。ただ、本当のラーメンはそこそこ高く、給料が上がらない日本人には日常食の域にはない。味に敬意を払うか、やけくそで飲んだあとにしめで食すかになっている。

 でも、同じラーメンでも即席麺は庶民の味方だ。カップラーメンは出先でも簡単に食べられるし、いわゆる袋麺の類は家庭での調理に耐える。店で食べる本格ラーメンとはまったく別のものとして考えれば結構いける。

 韓国のドラマでラーメンを食べるシーンをみると大抵が即席麺である。プデチゲのように見事に即席麺のポテンシャルを引き出したものもある。韓国メーカーの即席麺は日本でも手に入るが、大雑把に煮て食べるのは、日本製の面倒な拘りがない分楽だ。

 即席麺の発明者と言われる安藤百福は日本統治時代の台湾出身であり、日本での成功の前に別人物が類似品を販売していた記録もあるようだ。彼らも台湾系で、即席麺のルーツは台湾にあったというのは間違いではない。ただそれを商業ベースで成功させたのは日本であったことは間違いない。その後の展開からしても即席麺は「日本食」の一つと言える。

 東アジアに共有される味覚を持ったインスタントラーメンが世界各地に広まったのは、ある意味世界的なニーズに答える食品であったからだろう。

 私が子どもの頃から好物であるチキンラーメンはいまだにあるし、昭和のある時期にはノンフライの高級インスタント麺が大流行した。その旨さに感激したのを覚えている。今から考えればやはりそれなりの味だったのだが。

 カップ麺が普及してからは、調理をしなくなった。熱湯を注ぐだけの調理法なので、いるのはやかんだけ。電子ポットを置くコンビニが増えたので、そこで給湯して路上で食べるというスタイルが当たり前になった。

 食文化にとってよかったのか否かは色々な意見があろうが、即席麺の発明には感謝しかない。

回転寿司店の名前

 不景気な外食産業業界にあって回転寿司店は熾烈な競争をしているようだ。親の家がある地方の小都市にもこの業界大手のチェーン店の支店がある。それもかなり近接している。そこそこの集客はできているようだが、地元の個人のすし屋にとってはいい迷惑だ。もっとも求める客層は違うはずだが。
 さて、売り上げ規模から考えると1位はスシロー、2位はくら寿司、3位ははま寿司である。ちなみにこの町には4位のかっぱ寿司、5位の元気寿司の支店まである。おそらく多くの地方都市が似たような状況であり、寿司はやはり国民食であるであることが分かる。
 さて、店の前に大きな電光看板があるのを見て気づいたことがある。くら寿司はKURA SUSHIであり、はま寿司はHAMA-SUSHIなのだ。ほかも寿司の部分がSUSHIになっている。スシロー以外は日本人なら「ずし」と読むにも関わらずである。ちなみにはま寿司はもともとHAMAZUSHiと表記していたが、今の表記に改めている。
 容易に想像がつくように英語表記を読む対象となるのは外国人であろう。彼らにとって日本料理はsushiであってzushiではない。だから、実際の表音をあきらめて外国人にとって分かりやすくしたのだろう。調べてみると上掲の5位までの全てにSUSHIが入っていることになる。スシロー以外は「sushi」とは発音しないのにも関わらず。
 外食産業は潜在的な人手不足になっており、従業員に外国人を雇用することも多い。寿司店に外国人を雇用するのは抵抗がかつてはあっただろうが、いまはそんなことを言っている余裕はない。そのうち外国人の板前の作った回転寿司を外国人がこれぞ日本の味と称賛するときが来るのだろう。いやもう来ているのかもしれないが。私は何人が作ってくれても技能さえ素晴らしければいいとは思う。

駅弁の魅力

 時々近隣のスーパーで駅弁が売っている日がある。しかし、そこに行かなくては食べられないというのが駅弁の魅力だろう。

 新幹線が走り、車内販売をやめたことから駅弁を食べられる環境はかなり厳しくなった。機関車を増結するための停車時間を利用した。横川の釜飯などは、初めて見たときにはよくも短時間で売り切るものだと感心した。いまは新幹線が知らない間に走り抜けるので、駅弁としてホームで際どく買う釜飯の醍醐味はない。

 それでも全国にはいろいろな工夫を凝らした駅弁がある。その心意気を楽しみたい。旅することが少なくなったこの頃ではあるけれども。

新蕎麦の味わい

 蕎麦が好きな私にとってこの季節は新蕎麦の風味を楽しめる季節だ。私が行く店の蕎麦はせいぜい4割程度の蕎麦粉でできているのだろうが、それでもかなり違う。蕎麦独特の香りや味わいがある。ほんの僅かのことなのだが食に関する豊かさを再認識できる季節なのだ。

秋刀魚

そう言えばしばらく秋刀魚を食べていない。殿様が目黒で偶然食して感動したように、子どもの頃、秋刀魚は私にとっては高級魚であった。庶民の味の代表であったはずだ。

 ところが最近は事情が違う。気候変動に加え、近隣国の漁獲量が増えたことも関係して、秋刀魚は文字通りの高級魚になってしまった。出回るのは型の小さな冷凍物ばかり、秋刀魚を骨も残さずきれいに食べるのはかつては賞賛の元であったがいまは切実な問題となりつつある。

 春夫の詩をどのように読むのか。これも秋刀魚の相場と関係するような気がしてならない。秋刀魚のはらわたを食べられると大人になった気がしたのも懐かしい思い出だ。秋刀魚なんて魚も昔はよく話題になっていましたねなどと考古学的に語られる時代が来るのではないかと危惧している。

蕎麦を食べるようになった

 蕎麦屋に行くとどちらかというとうどんを頼むほうが多かったのが、最近は大体蕎麦を食べるようになった。蕎麦の持つ独特の風味がこの歳になってよく感じ取れるようになったのである。駅の蕎麦屋に寄ってしまうこともある。

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 私にとってはうどんはかなりしっかりと食べたいときに選択する。蕎麦は過度な満腹感を持ちたくないときに選んでいる。この感覚は科学的には間違っているようで、同量ならうどんのほうがカロリーや炭水化物、脂質が低いらしい。違うのはタンパク質が蕎麦のほうが多いことで、これが相対的には体にはいいといわれている。

 蕎麦を食べるのは私にとっては日常であり、あまり身体のためとかそのほかの目的を考えてはいない。歳とともに味覚が変わっていくという話はよく聞くがこれもその一つかもしれない。

カップそば

 寒くなって温かいものが食べたくなることがある。コンビニで買えるものといえば、揚げ物や肉まんの類があるが、かつてほどほしいと思わない。自分の中で繰り返しているのはカップ麺である。一番小さなサイズは小腹を満たすのによい。

 いろいろな種類があり、そばやうどん、ラーメン、ワンタン、様々なスープ類などいろいろ選べる。私としてはやはりそばを推したい。本物との距離が近く、後味もよい。

 多くのコンビニでは湯沸かしポットが利用できる。これに湯を満たせばあとは数分待つだけだ。ベンチに座れたなら立派なファストフードになる。しばらく続けることになるだろう。

あんバタ

 高校時代の思い出の一つにあんバタがある。校門からほど近いパン屋で売っていた。百円以下だったと思う。店で焼いたコッペパンにバターを塗り、その上に小倉餡を挟んだよくある何の変哲もないものだ。バターとなのっていたが、マーガリンだった可能性も高い。

 やたらと甘くカロリーが高いもので、食べごたえがあった。高校生の頃は部活帰りにこの店によることにしていた。制服のない高校だったので店を一色に染めることがなかったことだけは幸いだった。これを頬張ることを目標にしてあまり楽しくなかった部活を切り抜けた。高校生にとってはそれで十分だった。

 コンビニで似たようなものが売っているが、味がまるで違う。冷静に考えれば今のものの方が遥かに美味い。でも、思い出のバイアスを入れたなら、高校横のパン屋に勝る味はない。あの頃のことはなかなか思い出せなくなっているが、あんバタのことは忘れられないでいる。