察することの大切さ

 察すること行間を読むことは大切な能力だ。空気を読むというとちょっとニュアンスが変わり、同調圧力のもとに自分の考えを曲げて忖度することを第一にするといった意味になる。ただ、場面や状況に応じて自らの言動を調節するのはやはり大切な人間の知恵であろう。

 こういうことを無意味だとしてなんでも杓子定規に考え、効率化とか可視化とか魅力的な言葉を使っていかにもそれが優れているかのように説く向きがある。これが主流になりつつある。成功者と言われる人の中にそんなことを言う人がいるからだろうか。しかし、これはかなり危うい考え方になる。

 効率がいいとか分かりやすいといったことは結局自分の属する共同体の中でのことであり、それを離れてしまうと非効率もしくは害悪になることある。近代科学が推し進めてきたことを考えればいい。豊かで便利な生活を追求した結果が公害の発生に繋がり、気候変動もその影響ではないかという意見が大勢を占めている。つまり、近代の人間は自分の身の回りだけを考え、循環するエコシステムに思いが至らなかった。地球全体の仕組みを考えるのは相当な想像力がいる。今日の東京の豊かな生活が、太平洋の島嶼国家を滅亡の危機に至らしめているなどと、高度成長期の日本人は空想すらできなかった。

 自然保護のことに話が集中したがそれだけではない。日本の経済が閉塞状況にある原因の一つが国内産業の不振だ。私たちは安価なものを求めて外国産のものを日常的に使っている。国産のほうが品質がよいなどといいながら、結局安価な方に手を出す。日本のものは売れないから、企業も設備投資がしにくくなり、最後の牙城とも言える高品質、高機能という要素も怪しくなっていく。これも自分の購買行動が結果的にどのような結果をもたらすのかを想像することができないことによるものだ。結果として給与は上がらず、安価な外国産のものしか買えなくなる。高いけれど品質やデザインのよい国産品があるのなら、それを選び価格の分だけ使い続ける方が実は個人としても国としても経済的なのかもしれない。

 そんなことは分かっているんだという人は多い。でもそれが行動に移らないのはなぜだろう。やはり私たちは察する能力、想像する能力を疎かにしているのではないだろうか。そしてそれを涵養するのは日常的な人間関係を豊かにすることであり、文学を始めとする芸術の分野にもっと注目することなのかもしれない。

老兵の戦い方

 多くを望まず自分のできることを恬淡として行うことがこれからの生き方の目標である。それはある意味後退であるが、撤退ではない。最前線には立たないがしっかりと事態に立ち向かう。体力や気力の減退はいかんともしがたい事実であり、それを前提としてやれることを粛々と行うしかあるまい。

 最近の自分の行状を省みるにエラーが多く、十分な貢献ができていない。私は全く手抜きをしていないのだが、それ以上に気力体力の減退の方が大きい。進もうと思っても足が動かないといった感じである。もがくが足掻くが前に進まない。そんな感じである。

 この様な状況になることはなんとなく予想はしていた。しかし、いつその段階になるのかは分からないし、仮に分かったとしても何もできないだろう。加齢という宿命に関して私たちは無力である。敵は見事なステルス攻撃を仕掛け、いつの間にかに本丸まで侵入してくる。そして一気に首を取に来る。

 だから前線で戦うのはもうやめて、後方をしっかり固めることにしよう。老兵にはそれなりの戦い方がある。消え去る前にやれることをやっておこう。

こぶし

 実家の近くの街路樹のこぶしが見頃であった。

こぶし

 春の花として有名だが、まず花だけ咲くので白が際立つ。足元にはもうとうが立ってしまった多くの土筆が並んでいた。季節の息吹を感じることは大切だと再認識した。

脳の老化に

 誠に悔しいことだが、脳の老化を自覚することがある。まだ幾分意識がはっきりしているうちに、いまの焦燥を記録しておく。

 一番、このことを痛感するのはマルチタスクができなくなっていることだ。例えばパソコンで作業中に別のことをやろうとすると、さきほど何をやっていたのかが分からなくなる。これは悲しい事実だが今は毎日経験していることだ。私は研究職をしていた時期があり、自分のペースで作業をすることには慣れていたが、今の職場のように臨機応変を重視する環境には全く馴染めない。その最たるものがパソコンによるマルチタスクである。

 脳が認知に果たす役割は大きい。認知される世界が変わるとならば世界観価値観のパラダイムシフトも起きる。つまり老化がもたらすのは世界の縮小化、歪曲化である。見えるものが変わりかんじることが変わってしまえば総体的世界観も大きく変わる。

 本当に見ているものと脳が捉えるものとに差があるならば、いかにすればいいのか。そのような問は無意味で、私たちは脳というフィルターを通してしか世界を実感できない。だからそのフィルターの調子か変わることは一大事なのである。

 親の老化を見て痛感している。誰にも避けられない脳の老化がある。そうなってしまうともう感じられない何かがある。すでにかなり進んでしまっているが、今の状態で何ができるのかを考えてゆきたい。

 今年の桜は開花がここ数年と比べると遅かった。その分、ここに来て一気に咲いたために美しさが増している。咲き方にもいろいろある。

 このあとは桜吹雪の季節になる。これもまたそれぞれだ。散り際に注目する美意識は引継がれていると思う。どう次の季節に繋いでいくのか。今年も桜に学ぶことにする。

台湾救援

 台湾でまた大きな地震が起きた。天災においては日台共通の憂いがある。日本でも能登半島地震が起きたばかりだが、台湾も大地震を繰り返しておりプレート境界に住まう人間の共通の悩みである。

 台湾は政治的に複雑な立場にある。中華人民共和国との関係上、正式な国交はないが、自由主義経済圏の仲間であり、経済的にも文化的にも繋がりは深い。沖縄県の与那国島とは距離的には至近距離であり、隣国といえる。島国というのも共通点だ。かつて日本が占領した歴史があるのにもかかわらず親日家が多い。日本人も台湾に関する好感度はかなり高く、一度は訪れたい国の一つとして上げる日本人は多い。台湾風という料理はかなり人気がある。

 台湾有事を中台関係に見るのが一般的だが、今回は天災としての有事である。私ができることは少ないがせめて少額の募金でもしてみたい。私が利用したのはYAHOO!Japanネット募金だが他にもあるはずだ。政治的な問題は一度措いて地震という共通の災厄に立ち向かう仲間を応援したいと思う。

職業差別

 職業による差別的な発言をして辞職に追い込まれた知事がいる。報道されたコメントが事実だとすれば市民の代表たる資格はないとしか言えない。度々軽口をたたいては謝罪してきたというから、本人の気質の問題なのかもしれない。

 ただ、変な人の許しがたい行動と片付けてしまうと、労働に対する考え方は変わらない。差別された業種は農業、酪農家、製造業に相当する。これらの職業は人手不足の危機に瀕している。それは労働の対価が低いことにも原因がある。そして彼らがいなくなるとこの国は回らなくなる。

 経済的支援や人材育成のためにやらなくてはならないことがある。それをせずに悪口を言った人を責めるだけは解決はしない。

世代感覚の差

 たまたま立ち寄った食堂で従業員同士で話しているのを聞いてしまった。曰く高校生のアルバイトとは常識がなくて困る。こちらが10言っても2か3しか理解してもらえない。常識というものが通じない。全く困ったものだけれど、来てもらわないともっと大変だから仕方がない。

 要約すればその様な意味のことを数回にわたって別方向から繰り返し話している。さぞかし苦い思いをさせられたのだろう。執拗で悪意がこもっていた。そう話している男を見てみれば彼も私から見れば十分に若い。話を聞いている先輩格の男も私からすれば若手の方だと言える。彼らにとって高校生のアルバイトの振る舞いは許しがたいものらしい。

 それを言うなら、と私は思う。私という客がいる前で、業務上のトラブルを話す神経が理解できないとも言える。非常識と主張している君こそ何か間違っていませんかと言いたくなる。世代的な格差というのはこのように重層的にあるようだ。この文章をお読みなった先輩の中にはこう考える人もいるだろう。何を小さなことをこだわっているんだ。そんな胆力の小ささは理解しがたい、などと。

 学生の頃、新人類などと呼ばれ、最近の若者はと嘆かれた。いまはそれを次のもしくはその次の世代に向けて同じことを考えている。だからZ世代はとか言い方は変わっているけれども。世代による感覚の差は育ってきた環境によって変わる。時間とともに劣化しているのではない。自分に馴染み深い習慣とは異なる振る舞いをされることが耐えられないのだろう。私もそう感じる一人である。

4月1日

 朝目覚めると不思議な感覚があった。なんでもできるという無敵感があった。そうだ私は実はかなり高い能力を持っていたのだ。それを忘れていた。今朝そのことを思い出したのだ。

 いつものように街に出かけた。すると明らかに多くの人が私に注目している。優れた容姿を持つわけでもないのに私が衆目を集めるのはおそらくそれなりの理由があるのに違いない。いまはそれが何かを説明することはできないが、自らの身から溢れる何らかのエネルギーがある。

 それでも少しも私は奢らない。あらゆる羨望も怨嗟も乗り越えていける気がしている。というよりその様な人々の営みがむしろ愛おしいものに感じられる。そうか私は一つ突き抜けてしまったのか。

 今日は何日だっけ。

最後に語らせる過程を

 学習の成果を上げるためには言語化という作業が欠かせない。知り得たことを言葉に変換するということである。もちろん学んだことをすべて言葉にはできない。私たちが目にし、感じ取ることは非常に複雑であり、言葉で言い尽くすことは難しい。それでもたとえ断片的なものであっても、自分なりに言葉に写し取ることは必要な作業なのだ。

 学校での学習、とりわけ受験勉強や資格取得の学習などはもともと目的が限定されているものであるから言語化はし易い。そういったものの教育自体が言語を通して行われているのであるからハードルはかなり低いはずだ。でも大切なのは人の説明をそのまま暗記することではなく、自分なりのことばに変換し自分なりに説明できるということなのだ。結果的にそれが問題集の解説や教師の説明よりも劣ったものでもいい。とにかく自分の言葉で語ることが理解を深める。

 普段の学校の授業にこれを当てはめてみよう。例えば歴史を勉強する際に、教科書の記述に沿って多くの教員は説明し、重要語を板書(黒板に書くこと)したり印刷物にまとめて配布したりするだろう。生徒はそれを必死に写し、空欄を埋めたりして学習したことにする。赤いペンで書いて赤いシートで隠してテストに備える。直後の試験ではこれで対応できるので高得点をとると安心してしまう。ところが少し時間を置いて模試などで同じことを聞かれたり、教科書とは別の方向から質問されると答えが出てこない。こうした経験は多くの人がしているはずだ。

 おそらく教科書の丸暗記の方法は短期的な記憶には向いているが、忘却するのも早い。それはおそらく情報を単なる記号としてのみ取り込んでいるだけで、意味づけがなされていないからだろう。一つ一つの情報は軽量なのですぐに覚えられるが剥がれるのも容易だ。対して自分なりに定義づけされた情報は獲得に手間と時間が掛かるが重みをもつため、簡単には忘れにくくなる。ついでに覚えた関連情報も相互作用して忘れにくくしてくれるのだろう。

 では、自分の言葉に直すために何をすればいいのだろう。学習者の立場で考えれば学習後に自分の言葉でまとめ直す作業をいれる方法がある。講演などを聞くときその場でメモを取ることが多い。上手く取れると安心してしまうがこれが板書を写す学習と同じだ。大事なのは事後にそのメモをできるだけ見ないで講演の要旨を自分の言葉で書くことだろう。専門用語は使わなくてもいいので自分の言葉で説明できるかである。こうすることで学びが自分のものになる。最近の私のノートはこの自分なりのまとめを必ずつけるようにしている。

 教師の立場でできる方法は何があるのか。授業の最後に今日学んだことは何であったのかを語らせる時間を作らせることではないだろうか。教師が板書することは重要事項の箇条書きや記号による図示にとどまる。これをそのまま写しても後で読み直したときなんのことか分からない。そこで、授業の最後に私が今日話したのはどんなことだったのか、何が大切なことだったのかを短文でまとめさせ、生徒間で確認させるのである。自分の言葉でまとめられなければ理解ができていないことになる。生徒同士でまとめの交換をすることで見落とし、聞き落としを防ぐことになる。私はノートを使って隣の生徒に教師のように説明するという場面を作りたいと考えている。果たして効果は出るだろうか。