交差点の風景

 先日、救急車が駅前の交差点に差し掛かったとき、ドライバーは停車し、道を開けるのに協力していた。こういう機会には何度も遭遇しているが、協力の精神が形に表れるのは気持ちがいい。

 ところが件の救急車は交差点内で立ち往生してしまった。歩行者が止まらないのだ。中には駆け足でその前を通り過ぎようとする人もいる。どういう訳か歩行者の方が非協力的なのだ。

 自分が交差点に取り残されることの方を心配してしまうのか。余裕がないのか。歩行者優先の精神が緊急時にも働いてしまうのか。交通ルール、マナーの欠如なのか。原因は分からない。

 人の判断力は状況によっていくらでも変動する。問題はいますべきことを常に考えることなのだろう。

関東梅雨明け、早すぎるけれど

 関東地方は梅雨明けだそうだ。はっきりしない梅雨だった。夏と冬に侵食されてその他の季節が希薄になっていく現象に梅雨も巻き込まれているらしい。

 これからかなり高温の毎日が続くが、雨も恐らく降るだろう。ゲリラ雷雨のような短期集中型の大雨だ。スコールのような雨という形容があるがもはや日本はスコールの降る国になったのだ。それに見合うインフラを造らなくては立ち行かなくなっている。

 古典文学の世界では春秋こそが詩情溢れる季節であり、夏冬はその間の季節に過ぎない。その不粋な季節が今やこの国を覆い尽くそうとしている。ならば文化というものも少しずつ変わらざるを得ない。未来の日本が果たしてどのような情緒を重んじているのか。気になってきた。私はもうこの世にはいない世界だが。

明日から暑くなる

 ここ数日、少しだけ暑さが和らいでいる。雨も降って梅雨らしい天気だ。ただこれも長続きせず、明日からはまた夏の暑さが戻ってくるらしい。しかも週明けは猛暑日もあるとか。油断している身体は少々鈍ってきている。これからの夏をいかに過ごすかだ。

景をもって

 風景を歌うことで心情を表すのは俳句などでは基本の考え方だが、それ以外のジャンルにおいても、あるいはいわゆる文学的な表現が要求される場面ではなくてもそういう感性は大切だと考える。

 これには喜怒哀楽や人情の機微を景から感じ取る力が必要になる。それには感性のアンテナを高くして、いろいろな経験を積むことが必要だ。優れた叙景詩や風景画をなす人たちがしばしば高齢であったり、若くとも特殊な経験を持っていたりするのはそうしたものの見方が培われてきた結果なのだろう。

 景をもって情を写す。古来から言われてきた境地をほんの少し分かりかけてきた気がする。

熱中できる余裕を

 何かに熱中して時を忘れてしまうという経験は誰にもあるだろう。今はそれを時間の無駄使いと考えてしまうが、実は大切なことだとも思う。何かに打ち込めるというのはそれだけでも幸せなことなのだ。

 恐らく熱中できる余裕を今はなくしている。1日本を読んで何もしなかったとか、限りなく歩き回って何の用事も足さなかったといったことがなくなっている。少なくとも何らかの意味づけをして自己満足をする。それができなければ自責の念に苛まれる。

 よく考えてみれば余裕のない不幸な日々なのだ。すぐに答えを出さなくてはならない最近の風潮に背くことも必要なのかもしれない。そこから始まる何かもある。

心配なアメリカ大統領選挙

 高齢のバイデン大統領の健康状況が不安視される中で、共和党の代表候補のトランプ氏が演説中に狙撃されるという事件が起きた。資本主義社会の頂点にあるアメリカ合衆国のこのような状況は不安としか言いようがない。新しいリーダーが求められている。

 バイデン大統領は伝統的なアメリカの外交を行えるリーダーだったが、さすがに高齢の弊害は否めない。国際社会において存在感を示すべき人物が心身の健康状態を懸念されるようでは不安でならない。討論において精彩を欠いたり、人の名前を言い間違えたりすることが頻繁に起きているようだが、81歳という年齢を考えれば無理もない。本当であれば大統領を支える人として活躍するべきであり、自らが指揮をとるべき年齢ではないと考える。

 元大統領のトランプ氏が今回狙撃の被害者になったことで、民主党の大統領選への戦略は変更せざるを得なくなった。これまでは前政権末期に起きた連邦議会襲撃事件の扇動者として非難する側にあったが、トランプ氏自身が暴力の被害者となったことで、風向きが変わってしまう可能性がある。ただ言えるのは、トランプ氏の政策ではこうした暴力が誘発されやすいということだ。今回は自身にそれが及んだが、この指導者のもとでは常に被害者が出る可能性がある。

 どちらの候補にも問題があり、どちらが次の大統領になっても不安が大きい。こうした状況をアメリカ国民はどう感じているのだろう。別の候補者がなぜ現れないのか、なぜ支持されないのかが不思議でならない。民主主義は行き詰っているのだろうか。

注文出版

 書籍の流通において新しい方法が広まりつつある。PODと呼ばれるもので、注文を受けて印刷し製本して販売するというものだ。プリント・オン・デマンドの略で、不良在庫を出さないため結果としてコスト安になるのだという。

 絶版になった本はなかなか手に入らない。それらをもちろん電子書籍化して再販する方法もあるが、やはり紙面で読みたいというものも多い。特に古典的な作品は電子書籍としてよりも紙面として読みたい。自由に書き込んだり、メモを付けたりしたいものである。こういう場合にPODは役に立つ。

 昔からお世話になっている平凡社の「東洋文庫」でもこのPODサービスが始まるそうだ。古書店では何倍もの値がついていたり、そもそも入手困難な作品も多いので注文すれば手に入るというこのサービスは有益である。ただし、本の仕上がりはおそらくソフトカバーになりオリジナルとはかなり異なるものだろう。こういうこだわりがある人は古書店巡りを続けなくてはならない。

 いろいろな形で書籍が展開されていくことは大切だ。書籍流通の場面で販売会社が大きな役割を占めている日本の出版界にとっては大きな革命にもなるだろうが、良書にアクセスできる手段となるならば大いに注目をしていきたいと思う。

チョコレート、パイナップル

 子どものころじゃん拳の勝ち方で進める歩数がかわるグリコという遊びをよくやった。先日、公園で同じ遊びをしている子どもを見た。伝承されているらしい。

 この遊びでのじゃん拳勝利時の獲得歩数は、

グー グリコ 3歩

チョキ チョコレート 6歩

パー パイナップル 6歩

 であろうかと思う。ただしこの数え方は日本語としては不自然だ。短歌や俳句を作れば分かるが、文字数と音の数とは一致しない。いわゆるモーラという考え方をする。チョのような拗音は1つと考えるが、ナッのような促音は2つになる。レーのような長音は2であり、撥音も1つとして数える。だからチョコレートは5となり、パイナップルは6である。このルールにすれば勝敗が変わるのかもしれない。

 チヨコレエトの水増しがもたらしてきた悲喜劇を云々しても意味がない。ただ子どもの遊びが日本語の特徴を知るきっかけになることは注目していい。

 

駄文を綴るしか

 自分の考えていることを言葉にして吐き出すことは意外にも難しい。私はこのブログで雑念を結構書いているつもりなのだが、実はそれはほんの一部に過ぎない。言い切れないことがたくさんあり、無理に言葉にしてもなにか違う気がする。

 手元にはいつも手帳があるが、すぐに書き込めるようにと用意してもなかなか書くことがない。書こうと思った次の瞬間には興味が別に移って何を書こうとしていたのか思い出せない。デジタルでもアナログでも同じだ。大事なのは例えば自分が経験したことの意味を知っていることだろう。それがなければすぐに消える短期記憶にしかならない。

 自分の考えていることを一覧化することは積年の夢である。自分の思考の後を残せたらいいと思うのだが、そうもいかない。ひたすら無駄だと思いながらも駄文を 綴っていくしかあるまい。

曇天模様

 久しぶりに朝から重い曇天だ。雨も落ちてきた。そういえば梅雨の只中だった。すっかり忘れてしまった。こういう年は大雨になりやすいと聞く。何事もなきことを祈る。