今日は高めの気温

 今日は気温が高めになり3月下旬並みになるとの予報も出ている。積雪のあった地域は融雪による被害の可能性が報じられている。屋根雪の落下など、十分にお気をつけいただきたい。

 関東のように乾燥した天気が続いている地域では、こういうときにかえって風邪をひきやすい。インフルエンザはいまだ流行している。さらに花粉症の季節にもなった。今日から対策薬を飲み始めようと思う。最初は軽い副作用があるが、次第に慣れていくというのが私のこの時期の繰り返しだ。

 このまま暖かくなっていくのでもないらしい。次の日曜はかなり冷え込むとか。振り回されるような天気変化に乗っていくしかあるまい。

蔵出し本

 近隣の書店でいわゆる在庫一掃セールがあった。と言っても再販価格が決まっている一般書店では安売りすることはない。それでもすでに流通が減っており、電子書籍になっていない本はそれなりの価値がある。私も文庫本を買ってみた。日本の古典文学である。

 教科書に載らないようなあまり有名でない作品なので、断片的にしか知らない内容が分かるのは嬉しい。注釈は最低限しかついていないが何とか読めるものである。

 学生の頃は絶版になった本を神田や早稲田の古書店街で半日探したものだ。いまはネットもあるし、デジタル化しているものもあるので、そんな苦労、いや楽しみはしなくてよくなりつつある。だが、時間と体力、気力はなくなっておりその意味でもそういう贅沢な時間の使い方はできそうもない。

 私の場合、本にいろいろ書き込んでしまうこともあるので大抵は最終使用者になる。長い間眠っていた書籍をせめて有益に使い尽くしたい。

三寒四温これから

 三寒四温とはよく言ったもので、これから4日間くらいは気温が高めでその後の3日は低温となる予報が出ている。季節の端境期ということだろう。いまのところ風邪をひいてはいないが油断できない。私は何でも流行遅れで風邪をひくのもピークを過ぎてからの方が多い。

 寒さにはある程度なら慣れることができる。ただ、日々の気温の変化には対応できないことが多い。体感は絶対的ではなく、相対的なものなのだ。もちろん生物的限界はあるが、その範囲の両端を除けば、われわれの感覚は直前の状況との比較で成立しているようである。

 三寒四温はこれからしばらく続く。変化に対応できる身体になるべきなのだろう。

選挙公報

 選挙公報は今日から順次届けられるとのことだ。今回は解散から選挙までの期間が心理的に短く、しかも選挙が少ない冬期のため、いろいろ間に合っていない感が強い。

 選挙公報などいい加減にみて、と思っていたがやはりないと候補者選びが難しい。インターネット上にあふれる情報はどこまで本当なのか、あるいは誰かがこさえたフェークニュースなのか判断がつかない。せめて自分の目で確かめたい。その時に公報はやはり必要だ。

 今回は恐らく首相人気の影響が強く出る形になると予想するが、長期政権にいろいろな問題が出ている自民党がどう評価され、何が変わるのかは注目しなくてはならない。

 

2月始まる

 2月は平均気温でみると1月に次いで2番目に寒い月だが、降雪の可能性は1番であるという。関東地方で積雪が起きるのは、関東の南海上を一定の距離をおいて低気圧が通過する必要がある。この条件がなかなか起こらないので、東京は雪が少ない。

 滅多に降らないので、雪への対策はほとんどなされず、脆弱なインフラしかない。12時間の積雪が5センチを超えると大雪注意報、10センチになると大雪警報が出る。数センチでも交通機関が麻痺し、転倒する人などが出始める。

 予報をみる限り、しばらくは関東南部に雪の降る予報はない。乾燥した寒風が吹くだけだ。しかし、今後はいつ降雪があっても驚かないようにはしておきたい。

学ぶ楽しさを覚え続けるには

 学ぶことの喜びを忘れつつある気がする。何でも検索すれば、もしくはAIに尋ねれば、すぐに答えが出てくる時代において、何かを根気よく学ぶことの意味が分からなくなって来ている気がするのである。

 かくいう私のことを考えてみても、語学であれ、その他の技能であれ、かつてはそれなりに関心があり、独学ながらある程度までは習得できていた。それがいまは何というか、そういうことに時間を使うこと自体が億劫に感じられるようになっている。

 本当は学ぶことは自分の進化なり発展なりを考える機会として感じるもののはずだ。それがいまは苦行のようにしか感じられないのは何とも残念でならない。

車道に雪をまくこと

 車道に雪をまき散らす候補者について非難の声が上がっているようだが、明らかにおかしな指摘である。候補者が何党か知らないが言いがかりをつけた人は雪国の現実と厳しさを理解していない無知としか言いようがない。

 選挙活動中であるからだろう。除雪車が車道から除けた雪を、また車道にスコップで戻している候補者に対して非難しているソーシャルメディアの動画が拡散した。雪国に暮らしたことがある者にとっては当たり前の風景であり、そのようなコメントが多数ついてもどうも理解できない人が多いようだ。除雪車ができるのは道に車を通すことであり、人が歩けるようにすることではない。むしろ除雪車が通った後は歩行者の歩く場所はなくなり、車道を歩くしかなくなるのだ。

 そこで雪国の住民のかなりの人は自主的に自宅近くの歩道を除雪し、その雪を車道に投げる。車道には融雪装置があり、しかも車両が通過するたびに雪片は踏まれて溶けていくので、車道に雪を投げることは公共の福祉に寄与する行為であったのである。

 今回の動画批判は、現地の生活実態を知らない人のなしたものに違いない。同じ国に住んでいても、地方社会に、暮らす人々の生活を理解できない。これは日本人のありかたの一面であろう。警告の範疇に属するものである。

    

そうはなりたくなかつた

 そうはなりたくないと思っていた姿になっていることを自覚したとき、底知れない無力感と救いへの渇望を覚えるのである。

 今の自分の姿は二十歳の頃に描いていたものとは全く違う。何というか平凡で、しかも少々陰気だ。上手くいかない毎日に疲れ切ったいまがある。

 でも明日を生きねばならぬ。もうやるしかないのだ。自分を納得させるためのさまざまな言い訳を何通りも考える。この方面の技術に関しては我ながら優れたものがある。現実認識と妥協に関するプロセスを日々磨いている気がする。その努力の結果、大抵の危機的側面を乗り越えてきたのである。

 でもこれは一時しのぎの方策でしかない。どうして生きるためには他者と争うのか。平和が必要と直感的に分かっていながら、悪事を繰り返すのはなんなのか。そういった疑問にいちいち立ち会わなくてはならない。

 なりたくない姿になっている現在も、それに甘んじていることに疑問を感じない自分も、全てを呑み込もうとするいまがある。それはここまでの敗北で獲得してきたいわば財産であり、生活の知恵の最たるものである。なりたくなかった自分をどう続けていくのか。私にとっての課題はまさにここにある。

朝日のかげ

 平日は毎日同じ時間の電車に乗る生活をしている。だから日の出の時間が少しずつ早くなっていることを実感できるのである。

 今日の東京の日の出は6時44分だったようだが、これは冬至の時よりも3分程度早い。そのくらいの差ならよく分からないはずだが、従前の理由により気がついてしまうのである。車窓から見える風景の明るさや、朝日が作る陰影の具合が少しずつ変わっている。

 これからは変化の割合が大きくなる。3月頃に日が延びたと感じられるのはそのためだという。春が来たという実感と花粉の季節の到来が同時に来る。

 朝のルーティンはこのところ固定している。あれこれ考えないのは楽だが、日々の刺激というかそんなものが消えてしまった気がする。だから日の出時刻の変化を感じるのは私にとって実はとても大切なことなのだろう。

 

パンダ不在

 上野動物園のパンダが中国に返還され、ジャイアントパンダは日本からいなくなった。残念であるが、政治利用される絶滅危惧種を日本で飼育することは止したほうがいい。

 この動物はもっぱら政治の具として利用されてきた。1972年の日中国交回復のシンボルとして譲渡されたのが始まりだ。その後、野生動物に関する国際法が制定され、絶滅危惧種を国外で飼育することは禁止され、例外としていわゆるレンタル料を支払うことで許可されたようだ。その資金は絶滅危惧種の保護に使われることになっている。ただ、いわゆるパンダ外交は中国の政策として利用されていることは確かである。

 パンダを飼育する意味が国内的にも国際的にも確認されなければならない。現在の日本において政治色の強い動物をなぜ飼うのか。飼わないことでどのような不利益が生じるのか。思うに世界中の動物が自分の国で見られることは嬉しいことであるが、本当にその必要があるのか。ジャイアントパンダがいなくなった今、このことは大事な確認事項である。