高い能力と引き換えに

 人工知能があらゆるところで使われ様々な応用がなされている。その能力には驚くべきものがあるが、より驚くのは電力消費の多さだ。

 人工知能の頭脳にあたるサーバーは従来より性能と規模が大きく、そこで消費される電力は飛躍的に増えるらしい。その多さは一つの国家の年間消費電力に匹敵するとも言われる。その電力をどのように確保するのかが問題になる。

 つまり、AIの時代になってもやはりエネルギー問題は解決できず、伝統的な水争いが起こる可能性があることになる。電力消費のなるべく少ない機械の開発が急がれるが、人工知能の構造上、電力不足からは免れることはできそうもない。高い能力を引き出すにはやはり地球資源を消費しなくてはならないようだ。解決策を人工知能に考えさせようか。


二季となるのか

 今日の読売新聞に日本は四季から二季の国になるかもしれないとの記事が出ていた。夏の暑さが梅雨前から始まり、梅雨もはっきりとせず猛暑が何日も続き、残暑という範疇を越えていつまでも暑い日が続いたと思ったら、いきなりさむくなり驚く。秋は痩せ細り、すぐに冬が来る。春もまたはっきりとせず、いつの間にか終わる。

 実感としては二季となる前に春夏冬の三季となり、やがて春も痩せて二季となるのかもしれない。春秋が全くなくなる訳では無いが、過渡期の現象として季節とは考えられなくなるかもしれない。

 偶然だがこの傾向は文学や芸能の世界ではすでにあった。古今和歌集の四季の部立の歌を見ると圧倒的に春秋の作品が多く、内容的にも深い。夏冬はその隙間を埋める程度の位置づけのように見える。しかし、現在のポップスの歌詞を四季で分類すれば夏冬が圧倒的に多く、春は卒業や桜の歌が大半で、秋の歌はかなり少ない。気候変動を先取りしていたのである。これには因果関係はないと考えられるのであるが。

 秋の語源が満足するという意味の「飽き」に由来するかどうかは分からない。ただ、収穫期の秋は食料確保という点においては理想的な季節であったはずだ。古代中国から秋の憂いの概念が取り込まれて一層複雑な感情となったが、秋が精神的に大切な季節であったことは間違いない。

 その秋が日本の気候から消滅しつつある。自然現象の変化が生態系に及ぼす影響は大きいが、それとともに精神文化も甚大な影響を受けることになる。

かけないことの幸せ

 私は近眼でそれに老眼も加わっているから、眼鏡がなければ遠くは見えないし、眼鏡をかけると近くが見えない。実に不便である。近視の方はほぼ変わらないが、残念ながら老眼は少しずつ進行している。

 面倒なので眼鏡をかけずに過ごすこともある。1メートル先の風景はぼやけてよく分からない。特に人の表情は判別できない。だから、人のことを察して振る舞いを変えるということはできない。不便だが気楽でよい。余計な気遣いは要らなくなる。

 大切な情報を幾つも見逃すことにもなる。見えていたことが見えなくなることで、失うことは多い。無意識のうちに視覚から得ていた事実は捕捉できないものとなる。ただ、雑多な情報に振り回されることもなくなるとも言える。

 なるべく多くのものを見て、外界の変化を見落とさないようにするのは本能としてのあり方かもしれない。さらに昨今の情報至上主義の世相にあっては「視力」は必須、不可欠のもので私のような考え方は否定されるはずだ。

 でも、あまりにも多くを見ようとし、精神をすり減らすより、ときには見えない時間を作った方がいいのではないか。眼鏡を外すことによって私はあまりに生々しすぎる現実にフィルターをかけるのである。

花水木の紅葉

 街路樹のハナミズキが紅葉し、落葉も始まっている。晩春の白い花が印象的だが、秋は紅葉と赤く色づく実が印象的だ。

 紅葉の仕方は日の当たり方で変わる。様々なバリエーションがあり、緩やかなグラデーションになっている。一つの木の中なかでもそうだが、樹木ごとにまた違った色合いになっている。

 すでに木枯しが吹き、今朝も寒さを覚える。一気に晩秋の趣きになった。史上最遅の富士山冠雪が報道され、クリスマスのデコレーションが設置され始めた。季節は変わる。私の心も変わる。

身体を使わずにものを知ることは

 デジタルが世界を支配する時代において、生の感動がますます重要になっている気がする。自分の情動に従って行動するという生物にとって当たり前のことができなくなっている。それが現代の問題点なのだろう。

 デジタルの世界は現実の描写をなるべく自然のままに再現することを目指す。ただ、どんなに技術的進歩があったとしても、作りものは作りものであって、それ以上のものではない。懐に飛び込んでその世界のありさまを見ることの大切さは変わらない。

 ネットで検索して、あるいは人工知能に答えを生成させてそれで分かったように考えてしまうことには、致命的な問題を感じる。身体の動きを伴わない認知行動がどのようなものなのかを考えなくてはならない。

アメリカに憧れるのは

 アメリカ大統領選が近づいている。様々な調査ではほぼ拮抗しているらしい。民主主義の国家としては当然と言えるが昨今のアメリカの情勢を見るに、議論がなされる国というよりは分断が進む国家という印象が強い。

 アメリカ合衆国は資本主義国のリーダーであり、世界の秩序を守る国というのが長年の認識だった。利権が絡む怪しい案件もあるが、世界の安定を守る一定の役割を果たしてきたのは事実だ。それが最近怪しい。

 トランプ氏にせよ、ハリス氏にせよ。どちらかが選ばれれば、暴動が起きる可能性が高いという。トランプ氏落選のときの暴挙が再現される可能性がある。民主主義という制度が本当に理想的なのかを世界に示すことになる。アメリカ国民には冷静に行動していただきたい。日本人としてもアメリカを理想とするだけではなく、批判的に評価できるようにならなくてはなるまい。

青春18きっぷが変わる

 青春18きっぷはかつて一日有効の5枚つづりの回数券で、普通電車なら何度でも乗れるというありがたいものだった。学生時代はこれを使って旅をしたこともある。期間内ならばいつでも使えたので、夏に二回の旅をしたこともあった。とにかく時間がかかったが、今のように時間的な制約がなかった学生時代にはありがたいものだった。

 今年の冬期切符からは制度が変わり、連続する3日、もしくは5日間だけ使えるようになり、分割ができなくなるらしい。その期間に使い切らなければならないとなるとかなり用途は絞られてしまう。自動改札を通過できるようになったので、乗り換えのときの手間はかなり減るが、それよりも使い勝手が悪くなることの方が大きく、改悪と考える人が多い。

 青春18とは面白い命名だが実は利用者の多くは元青春の世代であり、リタイア世代も利用する人が多いらしい。私も連続する5日が自由に使える日が来たら普通電車の旅に出てみたいとも思う。逆に言えばそういう人でなければ使いにくい。奇数の切符だから3角形、もしくは5角形の旅をすることになる。そういうことをいちいち考えられるのが青春ということなのだろう。

繊細な子供たち

 繊細な子供が増えているという。打たれ弱く挫けやすい。兄弟がいないか、いても一人で幼いころから複数の大人たちに大切に育てられてきたから、怒られる経験があまりなく、ストレスに対する耐性が育たないまま年齢を重ねている。その結果、心のコントロールができないのだ。

 ドメスティックバイオレンスのような極端な挙措は言語道断だが、ある程度の愛ある緊張感は必要だった。それが何でもストレスを与えることは悪のような風潮ができ、甘やかされた子どもが、そのまま大人になる。善悪の判断も曖昧になりがちだ。

 私はこれを他人事として語っているのではない。私自身も叱られることへの耐性や反発力のようなものが損なわれている気がしてならない。両親は溺愛タイプではなかったが、それでも理不尽に叱りつけることはなかった。そのせいなのかは分からないが、些細なことにストレスを感じ、それに押しつぶされそうになる。

 昔はよかったとは思わない。ただもう少し力強く生きることも必要ではないかとも思う。何でも合理的に整備された環境で疑問を持つことなく毎日を送るのは、理想ではあるが生きる力を削ぐことにも繋がってしまう。

 その意味で部活動やその他の集団活動を大切にすることは不可欠だ。疑似的社会集団の一員として、ときには失敗や衝突を経験することで理屈だけではどうしようもならない社会の現実を知るのは無意味ではない。

 それなのにそういった活動はいまは評価が低く、学校の場合は教員のサービス残業でようやく成立している。教育は教室の中だけで行われるのではない。

 平和な時代に逞しさを涵養することはなかなか難しい。下手に規律を強要すると全体主義への扉を開くことになるかもしれず、自由を制限する可能性もある。注意深く考えること、振る舞うことが求められる。

ユリノキ

 宮前平駅からの急坂の富士見坂の街路樹はユリノキである。背の高い、葉の形に特徴がある落葉樹だ。

ユリノキの街路樹

 すでに色づき始めているが、落ち葉の季節になるとかなりダイナミックだ。高木であり、葉が大きいのと、独特の形状のために空中を舞う時間が長い気がする。

 ユリノキの名はチューリップにもユリにも見える花に由来するらしい。葉の形から命名された軍配木というのもなるほどと思わせる。黄葉し、落葉するからこそこの木は魅力的だ。ただ、落ち葉の掃除は大変だと思う。

 秋にこの坂を登るのは私の楽しみの一つだ。