旅の途中

 ごく稀に自分は何でこんなことをしているのだろうと思うことがある。日々の生業にあくせくして、他人からの毀誉褒貶を受けながら、お前は何をしているんだと考えてしまう。子どもの頃から植えつけられた価値観のもとで、何か絶対的な基準があるかのように幻想して毎日を過ごしている。でも、一歩引いてみればそれは恐らく幻覚のようなものだ。多くの人が同時に見ている夢の中でそれに相応しい振る舞いをしているのに過ぎない。

 いま正しいと思ってやっていることは、基準が異なれば全く違う評価になる。現実と信じている日常は多くの人がそのようであれと考えている幻覚のようなものだ。何が正しいのか、邪悪なのは何かと言った弁別は言ってみれば時価のようなもので座標軸が変われば全く別の世界が出現する。

 私たちは生きる世界を選択することがほぼできない。個人の理想を追求するのはよいが、それが自分のパートナーにどのように響くのかは全く分からない。自分にとっては理想的な世界であっても、隣人には苦痛そのものかもしれない。誰を基準にするかで世界は大きく変わってしまう。

 だから、いまの身の回りの世界を絶対的なものとみるのはやめた方がいい。たまたまその世界にいて、多くの人がその世界の立ち回り方としてやってきたことを模倣しているのに過ぎないのだ。いろいろな世界がある可能性を忘れてはならない。そんなことが分からない自分はまだ旅の途中にいて彷徨っているのだ。

演出

 平凡な毎日にあやをつけるためにはそれなりの演出が要る。それは一種の生活の知恵であり、必要不可欠なものだ。

 民俗にハレとケの日があるのは、ケの日をより豊かなものとするために、散財してまでもハレの日を設けたのであろう。現代社会は毎日がハレの姿をしているが、実際の日常はしばしば退屈である。その鮮度を落とさずに保つためにも、特別な行事が挟み込まれている。

 ならば我々は人生を送るためにさまざまな演出された毎日を送っていることになる。それが文明人の知恵であり、叡智でもあるのだ。私は民俗学を学びながら、この普遍的事実を忘れかけていた。つまらない毎日と突き放す前に、演出された日常を楽しむことを思い出さなくてはならない。

はね返り

 明日は少し気温が上がり、その後急激に寒くなるそうだ。こうした天候の変化の有り様は都会生活を始めてからは観念的に把握しているが、地方に暮らしていたときはもっと体感的に分かったものだった。

 空気が澄んで山が大きく見えたと思ったら翌日は雷を伴った雪が降る。それが北陸の冬の始まりだった。その頃はそこはかとない覚悟が求められる気がして極度に緊張したものだが、今となっては懐かしい。雪の脅威を感じなくなった時点で東京の人になってしまったのかもしれない。

 明日のはね返りはそのときの緊張感とは比べられない穏やかなものになるだろう。ただ、軟弱になった心身に寒波がいかほどしみるのか分からない。恐らく私はこの方面に於いては過去に学ぶことができない愚者なのである。

忘れてしまったこと

 忘れていることがある。日ごろの雑事に追われて基本的なことを忘れるのである。例えば朝の日の光を迎えること。日没後の暗闇で考えることなど、自然の営みを感じることはとても大切なことなのにも関わらずである。

 自分に合っている環境は今の状態ではないのかもしれない。毎日の生活の中でそれが分からなくなっているだけなのだ。一度積もり積もった日常の塵埃を振り払わなくてはならないのかもしれない。その必要性が刻々と近づいている。

やりたいことシフト

 やりたいことのシフトが必要かもしれないと思っている。やりたいこととできることの差が少しずつ出てしまっているのだ。

シフト

 無理をしても何とかできると思って過ごしてきた日々の中で、実際にできるときとできないときがある。十中八九できなくとも、残りの一二でできれば何とかなってきた。野球選手より気が楽だった。

 でも今はあらゆることがデータとなり、始める前から実現可能性が明示されるようになると、さらに自分の状態が過去のそれとは比べられないほどになると、無謀に何かを続けることだけが良いことではなくなる。できないことはできないと認める潔さも必要だ。

 ならばやりたいことを変えなくてはならない。諦めるのではない。最終的な到達点とか、やり方を修正するのだ。これは逃げではなく新たなる挑戦の仕方である。

検索の意味

ネット社会になって大きく変わったのは大量の情報の中から超高速で検索ができることだ。私が学生の頃は索引という本があればそれに頼り、なければカードを使って自分で索引を作った。それも一冊の本なら何とかできたが、本棚全部の検索となると諦めなくてはならなかった。恐らくいまの世代の人に話したら笑われるだけだろうが、ある言葉の用例を探すために本棚いっぱいの本を何日もかけて探し続けるというのが学生生活の大半を占めた。

何でも検索で分かる?

 いまはデータベースさえあればその労苦はない。さらに最近は人工知能が検索の先のことまで提案してくれる。検索した結果を表やグラフにしたり、そこから読み取れる内容を提案してくれる。学生時代に何ヶ月もかけてやったことが、1分足らずでできてしまう。

 ただ、これで万能になったわけではない。人工知能は尋ねたことに対して極めて上等な返答をするが、何を問題点として何を考察するのかという道筋に対しては示さない。特に常識から外れる思考については元から除外しているようで、突飛な発想ということに関しては役に立たない。

 検索した情報をどのように組み合わせるのか、何を応用して何を除外するのか。そういうことは人間の判断に任されている。

ハナミズキの紅葉

 ハナミズキの紅葉が見頃になっている。もつとも、今年は紅葉の色が濃い樹木とそうでないものとの格差がある。日当たりのいいところの樹木は燃えるような赤が印象的だが、日陰がちの場所の木は褐色の方が目立つ。街路樹の場合、方位や周囲の建物によって、日照の状態が変わり、それがハナミズキに反映されているらしい。

 ハナミズキはアメリカからもたらされた植物である。ソメイヨシノと交換されたらしい。だが、今となっては日本の風景を彩る大切な樹木である。花の方に注目が集まるが、真っ赤になる紅葉の時期にも見どころがある。街路樹としてもよく使われるが、あまりの赤さに立ち止まる人も多いようだ。

 私にとっては通勤の道筋にあるささやかな楽しみなのだ。

泣かせどころ

 感動の入り口は方々にある。人を感傷的にさせようと企むならば文学を学ぶべきだろう。感情を操る方法は何通りもあり、それをどのように運用すればいいのかについても、様々な見解があるはずだ。

 ただそれは根気のいる仕事であり、飽きっぽい現代人には向かない。すぐに数十秒の動画かなんかができてそれを見れば分かった気になれるという方が人々に受け入れられるはずだ。そしてその浅い知識は結局役に立たないことが判明し、だから文学なんて役に立たないという結論に短絡される。結局、凡人にはできないことだと、知ったかぶりが吹聴することになる。

 でも、そうだろうか。誰でも人を感動させた経験を一つは持っているのではないか。それは何らかの技巧を弄したわけではなく、ただ思ったことを語ったところ、感激したというリアクションをもらったという経験のことである。巧まずして人の感動を引き出すことはあるのだ。

 私自身、日常のさりげない光景に思わず感動してしまうことがよくある。突然訪れる感覚なので自分でも説明不可能だ。見慣れた風景がかけがえのないものに見えてくると感動のトリガーが出現する。そして多くの場合、それを引いてしまい、涙腺に刺激を与えることになるのだ。

 泣かせどころを心得ているのは表現者の大切な資質だ。俳優はそれを経験を通して知っている。だから、特別な仕掛けがなくても他者の感情に働きかけることができるのだ。

 プロの表現者のような技能は無理だとしても、私のような凡人にもできることはないわけではあるまい。他者を感動させるためにはどのように振る舞うべきなのか。それを考えることを諦めたくない。

特別な記憶

 覚えていることの中には、いわゆる特別な記憶というものがある。その多くが自分の生き方に深く関与し、多大なる影響をもたらしている。

 妙なものだが、若くして死んだ友の葬儀に立ち会い、焼き場にまで付き合ったことはいまでも深く心に刻まれている。棺桶が焼かれるところへ移動するときの扉を閉める音は、この世とあの世の境界として深層に刻印されている記憶だ。

 他にも特別な記憶はいくつかあって、何かあるごとに想起される。随分昔のこともあるのに、そこに出来するのは常に瑞々しい記憶なのだ。

 特別な記憶の多くは類型的な誇張がなされていて、真実そのものからは遠い。でも、その中で考えたことは虚偽ではなく、必ず一面の真理を踏まえている。そのような記憶が飛び交い、場合によってはその記憶で横溢されるのも意味のあることだと思う。私たちは新しいことを始めるのは苦手だ。だから、過去の記録をそのまま受け入れるのではなく、いまの生き方にあわせて過去を改変することも、残念ながらあるのである。

作られた動画

 写真をもとにそれを動画として表現するということが人工知能の力によって実現されている。過去に撮られた写真から、それを動画化して好きなように動かすというものだ。動画サイトにはいくらでもそのような例がある。過去の偉人の写真を動画にしたり、若かりしときの女優の白黒写真をカラーの動画にすることもできるのである。

 合成した動画が偽物であることは分かつていてもそれをみたときの衝撃は確かに大きい。1年ほど前の生成動画にはいろいろな不自然さがあったが、日々その違和感は修正され、限りなく本物らしくなっている。

 フェイクであることを非難するのはもちろん正しい。が私たちには虚構を楽しむという心性もあってその線引きが時々分からなくなる。目的によっては偽動画を受け入れたい場面もあるのだ。死んだ先人の笑顔が見たいと思ったときに人工知能にそうさせることは罪ではない。

 そう遠くないうちに全編人工知能の生成した映画が上映されることになるかもしれない。その次は作品世界に没入するような仕組みが開発され、作品鑑賞そのもののあり方が変わるのかもしれない。