組み合わせ

 色彩感覚の不思議を試す例として、同じ色でも周囲の色によって違って見えるということがよく取り上げられる。私たちの感覚は相対的であり、どう見えるのかはその場に揃った条件の組み合わせで決まるらしい。

 皮膚感覚もそうだ。何もしていないときにぶつかられると痛みを強く感じる。しかし、サッカーなどの接触のあるスポーツをしたあとだと同じ衝突がまったく気にならない。寒い日が続いたあとの小春日和はとても暖かいが、気温自体はそう高くない。

 嗅覚も周囲の環境で大きく変わる。その場にい続けると臭いは感じなくなるし、芳香と悪臭の成分は変わらないときもあるだろう。

 私たちの感覚がいかに組み合わせで形成されているかを思うとき、自分の感覚が決して万物の尺度ではないと知る。不安にも繋がるが自信にもなるだろう。

この文章誰が書いたんだ

 AIの発展は著しいものがある。音声入力に感動していたら、今度は自動文章作成能力まで獲得していた。これからの人間は何をすればいいのだろうか。

 定型的な文章の作成ならば、機械に代替できることは予想がついていた。国語の時間に生徒に教える作文の授業は大体型で教えるものである。たとえば、第一段落は自分の言いたいことを疑問文にして問題提起の形にする。第二段落では一般的によく言われている事例を扱い、通説を確認する。第三段落ではそれを超える自説の良さを訴える。第四段落は第一段落の疑問に答え、言いたいことを明確に言う。こんな指導をしている。

 この指導である程度格好がいい文章になる。うっかりすると名文のように思ってしまうことさえある。この思考の型は理解しやすいからだろう。

 しかし、型はあるが内容はないという文章になりがちだ。それでいいのかと言われればやはりおかしいと言うしかない。でも、このあたりまでの作文であればコンピューターが達成してしまうようだ。

 私たちがやらなくてはならないのはその上と言うことになる。今のところAIは意味の世界までは踏み込めておらず、統計的に可能性の高い組み合わせを提示しているに過ぎない。ならば、人間がこの意味の世界で生き残るべきなのだろう。

 意味もしくは価値を創出することは機械が苦手な分野である。ならば私たちは積極的に価値の創出に力を注ぐべきだろう。それこそがこれからの作文術ということになる。

冷え込み

 今朝は氷点下の冷え込みになっている。大分身体が慣れてきたようで数値ほど寒さは感じない。ただ、やはり冷気は肌を刺し、ときに大きな震えをもたらす。コートの綻びをものを大事にしているしるしと考えて、むしろ人に見せるようにしている。劣化ではない爛熟なのだ。いくつもの寒い時代を超えてきた誇りなのだと。

住みにくさ

人と違う行動をする人は注目を浴びやすい。他人に迷惑を及ぼす場合は言語道断だが、そうでなければ見逃すことも必要だ。それが多様性を保証するのだから。

異端を礼讃するつもりは全くないオリジナリティと独善は紙一重であり、後者である確率の方が高い。だが、自らと異なる行動は許容できないという姿勢はやめた方が良いいい。新しい考え方とか、革新的な方法とかはしばしば型破りだ。革命的な時代の過渡期ではそれが無意識のうちに許容されるが、安定期には異端視されやすい。

変わり者に対してどれだけ懐が深いのかは文化の成熟度に関わる大問題なのだろう。独創的に生きることが住みにくいことは宿命的に仕方がない、ただ、それをどれだけ許容できるのかで未来は変わってくる気がする。

22歳の出会い

 コロナウイルス対策で成人式が取りやめになったり、リモート形式になった現在22歳の人たちのために式を用意した自治体があるという。粋な計らいというものだろう。

 この式の報道てインタビューを受けた人は、大学を卒業し故郷を離れることが決まっている。その前に会えてよかった、とか、次に数十年後に会えるといいと答えていた。地方の現実が垣間見えた。

 少子高齢化が進行しつつあるこの国にとって若い世代の存在は不可欠だ。その少ない人材が高校や大学を卒業したあと故郷を離れてしまう。そのうちのかなりの人数が戻らず、若者の人口分布が極端に偏在することになる。

 リモートワークが定着し、様々な情報共有がかつてより遥かに柔軟に取り組める環境が完成した現在、都市に企業が集中するメリットは少なくなっている。まずは産業界の分散が必要ではないか。

 22歳の出会いが結局別れの前日の儀式になっているようではならないと考えた。

観光地として

自分の住んでいる場所を観光地として集客せよという課題は面白い思考実験だ。ぜひやるべきだと思う。

歴史的な遺跡なり、歴史的建造物があるならばこの課題は容易にクリアできるかもしれない。問題は取り立てて他と比べるものがない場所の住民だ。

その場合は価値を創出しなくてはならない。イベントを継続的に行うのはその手段の一つだろう。しかし、実現可能なのだろうか。テーマパーク的なユニークな施設を作るのも手だ。誰が出資し継続的な収益が見込めるのだろうか。

 難題ばかりだが考える価値がある。何でもない場所を魅力的なものにできたならこの課題は達成するできたと言える。分からなくてもいい。考える価値はある。

公園の役割

 子どもの声がうるさいからというクレームで公園が廃止されたというニュースがあった。その後の報道をたどるとどうもこれは極端な伝え方であったようで、クレーマーと言われた人の言い分も理解できない所はないし、行政の在り方にも問題があったようだ。そもそも、公園としての使用期限がもともと決まっていたらしい。

 公園が単なる共有地としてあるのなら、それをどのように使用するのかということについて考え直さなくてはならない。子どもの遊び場という意味以上のさまざまな役割がある。国土交通省都市局公園緑地景観課によると、良好な都市環境の保全ため、災害時の避難場所、延焼防止、などの災害対策、市民の活動、憩いの場、賑わい創出や観光拠点として地域活性化の役割などを挙げている。公園といっても数坪の狭いものから広大な敷地があるもの、なにもない場所から歴史的な遺跡等を有するものまでいろいろあるので一概には言えない。公共の場所ということだけが共通する。

 都市の中の公園に限れば、交流もしくは相互扶助という側面を今後活用してくべきだろう。少子高齢化社会のなかで従来の社会システムが機能しなくなりつつある。それを補うのは地縁による助け合いということなる。その拠点の一つが公園だろう。以前公民館のことを考えたことがあったが、それよりも簡単にできるのが公園の利用だ。屋外や簡易テントなどでできる交流のきっかけを地域行政は提供し、それを行う団体を支援するべきではないだろうか。

 公園が魅力的な場所になるならば、冒頭で触れたような厄介な空間という扱いではなくなる。

新薬

アルツハイマーの症状を緩和する新薬がアメリカで承認された。日本の企業のエーザイが開発に絡んでいるとのことで期待されている。

ここからは妄想だ。新薬の価格はかなり高価で、今のところ誰でも使えるわけではない。日本の場合は保険の対象になる可能性はあるが全額は出ない。するとこの薬は富裕層に独占され、それ以外は恩恵に与れないことになる。

 すると、天命を全うし、健康年齢を活用できるのは限られた集団のみということになる。この妄想はおかしい。罪深くさえある。しかし、もし事実ならば未来はどうなるのだろうか。

新薬がもたらす新世界の幻想はこれまでもSFの世界では常套的な構想だが、それが近い将来に現実になるかもしれない。妄想だが。

欧州は暖冬

 東京は乾燥して寒い日が続いている。北海道や日本海側の一部では例年以上の積雪があり、死傷者まで出ているという。

Photo by Yaroslav Shuraev on Pexels.com

 その一方で欧州各地は記録的な暖冬で雪が降らずに困惑する地域もあるらしい。ウクライナ情勢からエネルギー供給に不安がある状況においては暖冬を幸運と見る向きもある。ただこれが人為的要因による気候変動の現象なのではないかと考える人も多く、大いなる脅威とされている。

 西洋の思想の根源には自然は人間が制御しうるものという考え方がある。その手段として科学があり、それに基づいた技術が制御を実現するのだ。そういう背景のある人々にとって制御不可能な気候変動の現実はあってはならないことで、さらに高次の技術が必要だと考える。最近はその傾向が顕著になっている。

 雪がなければ冬の観光やスポーツ関連の産業が打撃を受ける。それだけではなく、水資源の変化は農業や畜産業に影響し、内水面漁業のみならず、海洋にも何らかの関係を及ぼす。短期的な変動ならば振り子のように揺り戻しがあるはずで、バランスが取れると期待できるが、もし振り切って止まった状態ならば、と考えてしまうのだ。

 昨年末はアメリカで大寒波の報道があり、日本でも大雪の被害が断続的に続いている。これらが一連のものなのか。いわゆる気候変動と関係があるのかについては短絡はできない。ただ、ここ数年異常気象が国内外で報告され続けていることには注意が必要だと言える。

山手線

 渋谷駅再開発に伴う工事のため、今日は山手線の大崎から池袋の間が全日運休している。渋谷、新宿、池袋の主要駅を含む区間であるため、土曜とはいってもかなりの影響が出るに違いない。

 山手線は地元では「やまてせん」とも呼ばれている。山の手の意味が分からなくなった時代から読みが怪しくなったのだろう。東京の土地の格を言うときにこの環状線の外か内かで区別する考え方がある。これは根強い一種の固定観念だ。

 一周するのに約1時間弱かかるはずだ。誰もそれは気にしない。一周通して乗る人などいないからだ。私は学生時代それをしてしまったことがある。と言っても意識がなかったので正確なところは分からない。一周以上したことは確かで、なぜか大崎駅で起こされ、もう今日の運行はすべて終わったと言われた。幸いその時は比較的近くに住んでいたので深夜の行進は遭難せずに終えることができた。これを片手では足りない回数繰り返した。自慢することではない。

 山手線などのことを国電と読んだり、ごく短い期間だがE電と呼んだことを知っている世代はもう多くはないのかもしれない。翁さびてももっと先輩からは緑でなかった頃の山手線を知らないくせになどと言われそうだ。

 東京のことを知らない方には何のことか分からないだろう。地元民に取っては東京の電車のナンバーワンであり、いろいろな思いを乗せた鉄道なのだ。それが今日止まったということには意味があるのだ。