投稿者: Mitsuhiro

2023年のブログの復習

世間では

 読売新聞の発表した今年の主なニュースをみると、逮捕、トラブル、失敗、不正という記事が多い。これは事件を報道する新聞である以上仕方がないことだろう。それにしても政治家の逮捕や罷免は多すぎる。また東京オリンピック組織員会の談合、電力会社のカルテル、ビッグモーターやダイハツなどの企業の不正疑惑などいろいろ問題が多すぎた。

 信頼を裏切られるのはつらい。マイナンバーカードのトラブルの連続はデジタル社会の脆弱性を露呈した。ジャニーズ事務所の性加害問題はアイドルに対する夢を打ち砕く大問題だった。

 いいこともあった。何よりも新型コロナの5類以降は非常事態からの脱却の糸口になった。社会を覆った不安のもとが取り除かれたのは大きい。いいことなのか分からないが東証で株価が33年ぶりに33,000円台になった。日本の経済に関しては不安要素の方が大きいが、それでもコロナ禍を脱して次に進む気配は見えてきた。

 スポーツは目覚ましいニュースが多かった。何年ぶりの優勝というのがニュースになった。WBCは大谷翔平らの活躍によって14年ぶりに優勝した。阪神は38年ぶりに日本一になった。優勝間隔の長さならば慶應義塾高校の107年ぶりの優勝というのが突出していた。

 そうだ。何よりも印象的なのにすっかり慣れてしまったために忘れていたが今夏の平均最高気温が史上最高だったことも今年の印象的な出来事だったといえる。

 以上は前置きで、今日は自分のブログの復習だ。各月の記事の中から自分なりに一記事選んでみた。中にはほとんどアクセスがなかった記事もあるが、私としては思いを込めたので再投稿する機会を無理やり設けたというわけである。

1月

 1月の記事では「異次元」という言葉を批判した記事をあげたい。岸田首相が連発する刺激は強いが実態のない政策のキャッチフレーズに疑問を呈したのであった。少子化対策に対して使われた異次元とは結局何だったのだろうか。

2月

 今年は生成型AIが大きく普及した。職場にもChatGPTが導入され、事務的文書はそれで書いてもいいというような指導があった。しかし、このシステムには大きな弱点もある。それを「短歌を教える」という記事で書いてみた。このテーマはその後も何度も書き直している。

3月

 スポーツ観戦の仕方もコロナ時代が明けて過去のものが戻ってきた。WBCでのスタジアムの在り方はそれを実感させるものであった。ただ、日本の野球の応援方法にはこの際グレードアップした方がいいのではないかという意見を書いたのが「応援の仕方」だった。

4月

 コロナの5類以降を間近にして世間ではリモートワークを段階的にやめていこうという動きが出ていた。もっとも私のような仕事はかなり早くからリモートとは無縁になっていた。数年間、避けられていた密集のシンボルである満員電車が戻ってきた。当初はその状態に圧倒されている新入社員らしき人を多く見かけたので書いたのが「満員電車の乗り方」というおせっかいな記事である。

5月

 教員不足が問題化してたびたび報道された。これは10年以上前から予測されていたことであり、はっきり言って行政のミスである。形ばかりで関係業者にとっても迷惑に過ぎなかった免許更新制度の失敗を今ほとんど指摘する人がいないのはなぜだろう。

6月

 生成型AIはマイクロソフトやグーグルという大企業の競争の道具に取り込まれている。いまやEdgeを立ち上げるだけでチャットがいろいろ答えてくれるようになっている。ますます考えなくなっていく人類に未来はあるのだろうか。そんなことを「副操縦士」に書いてみた。

7月

 朝のドラマの影響ではないが、植物に関心をもったのも今年の一面である。道端や公園にたくさん生えているナスによく似た花をつける「ワルナスビ」だが、命名は牧野富太郎であった。この植物は相当なワルらしい。

8月

 デジタル機器が学校に普及して教育が進んだかといえばそうでもない。特に深刻なのが文字を書く機会を奪ったことだと考えている。その端的な現象が漢字能力の低下である。それを「見るだけ学習の落とし穴」で書いてみた。

9月

 とにかく暑く長い夏だった。おそらく将来は四季ではなく二季になるのではとさえ思ってしまった。パソコンの画面下にでる今日は史上最高気温になるといった文字にうんざりしていたときに書いた記事である。

10月

 インボイスという一見合理的だが、実態にはあっていない税制の改革に疑問を持った。たまたまその直接の影響を受ける方とのお話ができたので書いた記事である。私もいまはサラリーマンであるがこの後のことを考えると他人ごとではない。

11月

 世の中は過剰な音楽と光に満ちている。感覚過敏な人に配慮したある商業施設の配慮にいたく共感してこんな記事を書いてみた。いまも時々そう思う。そのBGMいるのか。明るすぎないか。

12月

 実は世間には人知れず善行を積んでいる人もいる。ニュースにでるのは極端に悪いニュースか自分には手の届かないような偉業を達成した人のことばかりだが、身近に利他的な行動を誰にも誇らずに続けている人がいるのだ。自分もそうでありたいと思いながらいまだに全くできていない。

 振り返ってみると、その都度言いたいことを書いてきたが実際に自分が何かを成し遂げたという記事がほとんどない。これがこれからの課題だ。もう人生の後半の後半に入った。体力が落ちないうちにやるべきことをやっておかなくてはならない。

 以上、自分では力を入れて書いたがあまり読まれなかった記事を再投稿した。心ある方はリンクをたどっていただければ幸甚極まりない。それでは皆様よいお年を。あなたにとって来年はきっと素晴らしい年になります。

禍い転じて

 この一年はよくないことが数多くあった。運気とかそういうものがあるとしたら下降傾向が続いたと言える。辛い思いは持ち前のとぼけで切り抜けてきた。多くの信頼を失ったかもしれないが、それよりも日々を切りぬけることでやっとだったのだ。

 よかったこととして、こうした谷底に耐性がついたことがある。滅多なことでは動揺しない。ずうずうしい粘りを獲得できた。これは大きな収穫だ。

 下がるときがあれば次は上昇だ。来年はその登り竜にあやかりたい。まずは小さな改善と挑戦を積み重ねよう。こういう点に関しては予感はよく当たる。大きな成功は要らない。日々を明るく、人様に迷惑をかけず、僅かでもお役に立てるような一年にしよう。

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今年の投稿から

 相変わらず自己満足で書いているこのブログであり、読者のことは考えずに自分勝手なことを書き続けている。だから何度もアクセスしてくださる方には感謝に耐えない。本当にありがとうございます。そしてlikeを付けてくださる皆様にはさらなる感謝を。きっと来年は幸せが訪れますなどと無責任なことを言ったりする。

 さて、アクセスの多かった(といっても本当はとても少ない)投稿からいくつか振り返ってみる。

 4月25日の「不安」はプロンプトにこたえたものだ。不安はよろしくないが適度に不安を感じていることは大切だというようなことを書いた。

 10月22日の「海の異変」は温暖化が原因と思われる海産物の異常を取り上げたものだった。今年も魚の大量死や迷い込みなどのニュースが多かった。

 3月17日の「高層マンション」は建設が進む高層マンションのリスクマネジメントに対して懸念を示した記事だ。

 こう並べてみると不安や心配ばかりだ。他にもいろいろ書いているつもりだが、これが今の自分を表しているのかもしれない。来年は夢や希望を書いた記事が多く読まれることをとりあえず希望してみる。

理だけでは人は救われない

 イスラエルのハマスに対する執拗すぎる報復に日々驚くばかりだ。テロリストを根絶するという大義名分のもと一般市民ごと根絶しようとしているかのようだ。戦争とテロの違いがよく分からなくなっている。大義は双方にあり、その利害が正反対にあるだけだ。非戦闘員を巻き込んでも仕方ないと考えているのも同じように見える。

Photo by Musa Zanoun on Pexels.com

 これだけの戦闘を続けられる資金力があることも不思議だ。双方にはそれを支援する国家や組織が存在している。アメリカはユダヤ人社会への配慮として伝統的にイスラエルを支援し、中東の一部やエジプトはムスリムの仲間としてハマスにおそらく相当な支援をしている。だから、いつまでも終わらない。イスラエル建国に関してイギリスがとった不適切な外交策がこの地域の混乱の原因であるというのは歴史上の常識だが、現在に至るまで地域外の利害関係が絡んで戦争が続いていることになる。

 人類にとって大きな皮肉なのはこの地が宗教的な聖地であるということだろう。本来、人間を救済すべき宗教が人々を分断し、戦わせる原動力となっている。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教ももとをたどればつながっているのだという。クルアーンの中にはイエスが預言者の一人として登場しているらしい。これらの宗教について共通するのは一神教であるということだろう。つまり神は一つであり、排他的な考えを持っているということだ。自分の神以外は信じないだけではなく、認めず排除しようとする。これは歴史上繰り返されている真実だろう。

 多神教の国が平和であるかといえばそうでもない。ヒンドゥー教を信奉するインドが多くの民族紛争を経験していることはよく知られている。カースト制などの分断を許容する信仰の体系が問題なのかもしれない。多神教国家として世界的に特異な位置づけにある日本も太平洋戦争の当事国であり、他国への侵略も行った。でも、この時代はよく考えると天皇を神に見立てた疑似的一神教を国家として作り出そうとしていた。戦国時代の武将たちも、何か一つの神や仏を自身の守り神に見立てたり、徳川家康のように自らが神となることで幕府の求心力を保とうとした。どうも一神教は権力との親和性が高く、また戦争の際のイデオロギーにも転換されやすい。

Photo by Yevhen Sukhenko on Pexels.com

 同じく長く戦争を続けるロシアとウクライナの戦争においても、先日クリスマスに関して興味深い報道があった。同じくいわゆる東方教会の流れをくむキリスト正教会を信じながら、ウクライナはこの派が行うクリスマスをユリウス暦に基づく1月7日ではなく、グレゴリオ暦の12月25日に変更して祝祭を行ったという。明らかにロシアに対抗する姿勢をみせたということだが、信仰を同じくすることが戦うことを阻害する要因の一つであることを示す例だともいえる。

 宗教が苦難の人々の精神に働きかけ癒しや救いを与えるという点においてはおそらくほとんど共通するのだろう。ただそれが体系化されていく中で組織としての論理が働く。組織を維持するために排他的にならざるを得なかった歴史を経て、それが定着して戦う理由になってしまっている。これは人間の悲劇とでもいうべきものだろう。神を信じられることは人間の叡智だ。神を捨てると人間は勝手なことを始める。科学技術が地球環境を破壊し続けているように人間の力を過信してはいけない。それを思いとどめさせる制御装置として神は不可欠だ。ただ信じるために勝手なルールを人間が作り出してしまっては恩恵は得られない。

 中東の戦争は私が生まれる前から続いており、その遠因は古代に遡る。分断してしまった民族、宗教をどのように繋ぎとめればいいのだろう。兵器に金を使うのはもうやめて、この方法を考えることに投資をするべきではないか。荒廃したガザの風景を報じたニュース映像を見てそう痛感する。そしてこれは中東地域だけの話ではない。世界中で起こりうる未来の姿なのだ。

The ongoing relentless retaliation against Hamas by Israel is alarming. The distinction between war and terrorism has blurred. External interests perpetuate the conflict, rooted in historical and religious complexities. The irony of religious conflicts persists, as faith becomes a divisive force. The need to address root causes and invest in peaceful solutions is imperative.

区切りを重視する日本文化

 おそらくどの国、民族にも当てはまると思うが、日本文化でも区切りを重視する傾向がある。例えば、季節という概念である。実際は自然はその時々の条件で少しずつ変化し、循環しているというのが事実だろう。ただ、その循環の過程のどこに関心を持つのかは民族の嗜好があらわれる。日本の場合は春夏秋冬という四季に分節した。これはもちろん漢字文化の制約も受けているが、日本の気象にあわせて意味づけされてきたことに注目しなくてはなるまい。

鶴間公園の夜桜 2023年3月撮影
鶴間公園の夜桜

 四季といっても実際には四等分にはならない。例えば、梅雨の季節は果たして春なのか夏なのかを判別するのは困難だ。季節の行合にはどちらともつかない要素がある。それを節気のような概念を持ち込んで無理やり四季を認識する。だから体感とずれていても知識の上での分節を重視する。暦の上では春だが、などという言い方はよくなされるし、古今集巻頭歌のように文学の題材にもなってきた。

 時間の区切りの最たるものは年である。現在の暦で1月1日は冬至を少し過ぎたときであり、取り分けて大きな気候上の変化が少ない。動植物も多くが活動を不活発にしており、体感上の節目は感じにくい。桜が咲いたり、雨が降ったりといった変化が乏しいのだ。だからこれは身体で感じる区切りというより、人工的なものなのだ。

 敢えて区切ろうとするのは知恵のなせるわざに相違ない。とにかくいまの問題は一度過去のものとして現在と切り分けようとするのだから。この叡智に従うべきだろう。あまり冴えなかった一年に去年というラベルを貼り、新しい一年に賭けよう。

仕事納め

 仕事はまったく終わらなかったがとにかく仕事納めになった。やり残していることはたくさんある。でも、一旦リセットしよう。この休みはずっとサボっている家のことや、健康維持のための試みをしよう。

最後まで言い切る国語力の重要性

 最後まで言い切らないのは奥ゆかしさであり、日本では美徳とされている。しかし。意図的に言い切らないのと、能力がなくて言い切れないのではまったく様態が異なる。最近は「言い切れない」事例が増えているような気がする。

 細かなニュアンスを避け、大づかみにものをいう場合に「~的」とか「~系」といった表現で済ませてしまうことはよくある。「みたいな」「っぽい」のような口語表現も含めるとかなり多い。さらには例えば「東京に住んでいる人々」を「東京住み」とまとめる表現もよく見られる。これらは会話の中で 使う分には問題ないし、同じような言葉を使う仲間内ならば親近感を高める役割も果たせる。しかし、これをそのまま文章にしてしまうと誤解が生じる可能性がある。口語的表現と書き言葉の差はまだあるのだ。

 書き言葉に会話体的な表現が多用されるようになったのはソーシャルメディアへの書き込みが普通になったことによるのだろう。それらのメディアで展開される言葉遣いは独自の進化を遂げて話し言葉でも書き言葉でもない表現を多数生み出している。ネットスラングともいうべき表現は、これも一種の仲間意識を高める言葉であり、ジャーゴンなどと呼ばれる言葉の一種である。

 四六時中ネットにアクセスしている世代にとってこうしたネット上の言葉は、日常生活とは別の次元における言語表現になっている。話し言葉でありながら文字として入力せざるを得ないという事情が独自の表現をつくり出した。そして時々それが日常生活に降りてきて、リアルな生活の中で使用されているのだ。

 幅の広い、おおざっぱな表現はネットでのチャットに向いている。多くを入力しなくても読者が察してくれる安心感がある。それを繰り返しているうちに明確な表現を工夫することを忘れていっている気がする。さらに生成型AIが文章を書くようになるとますます私たちは物事をきっちりと言葉で考えることをしなくなるのかもしれない。これは大問題であろう。

 物事を言語化して考えないとなると、判断は感情的になりやすい。また、論理的な思考を踏まなければ時々の判断は、その都度刹那的に消えてしまうことにつながる。経験がのちに生かされることもない。だからどんなに野暮だと思われてもしっかりと言い切ることは大切である。そういうことを教えられるのは中等教育の期間だろう。本当は作文やスピーチの指導にもっと時間を割くべきなのだろう。

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x年前の私

 グーグルフォトに同一人物の過去の写真と最近の写真を並べてコラージュのような映像を自動的に生成する機能がある。これはアプリが勝手に提案してくるものである。

 他人の場合は冷静に楽しめるのだが自分となると少し具合が異なる。年々容姿が老いてゆくことを認めざるを得ないのである。これはときに残酷でもある。

 最近、鏡でまじまじと己の顔を見ることがあった。いつもはあまり見ない。おまけに視力が少しずつ低下しており、細かな部分は見えなかったのだ。それがいわゆる女優ライトで見ると老化の紛いなき面が浮かびあがった。ぞっとしたがいかんともしがたい。

 過去の写真を時々見せられるのはこういう衝撃を和らげるための予防対策だと理解した。ただ何事も忘れっぽくなっている私は、1時間後にはこのことを忘れている。そしていつまでも心の中では若いときのままだと思い、そのように振る舞っている。だから、多少無理をすることも厭わないし、そうでないとおかしいと考えてしまう。

 自分の身体と自分の精神が一致するのは意外にも難しい。でもこの思い違いは案外大事なものかもしれない。敢えて心まで老け込むことは必要ない。暫くは大いに誤解しておくことにする。

大雪のニュース

住んでいた地名が大雪のニュースで出てきた。住んでいた頃はいよいよ来るぞという気持ちになった。いまは遠くのニュースになっている。

ただ、過去の感覚というものはなんとなく残っているものだ。雪のニュースがあると少し嬉しく、多くは緊張する。除雪のために体力を温存したい。いつぞやのように滑って転ぶことのないようにしたいなどと思うのである。

元天皇誕生日

 今日は上皇の誕生日である。ご高齢故にお身体にはお労りいただきたい。亡き父とほぼ同年齢でいらっしゃることを思えば、いろいろと思うことがある。いつまでもお健やかでいらっしゃっていただきたい。

 平成時代のこの時期はいろいろあって大変だった。不景気と震災はこの国の凋落を予感させた。いまも状況は変わらないが、我々に耐性ができたことと、イノベーションの期待から最低の気分は脱している。

 うまくいかなかった時間は飛躍のための準備であると信じて腐らずにいたい。私もまた身体的な減退期に入っているが、無責任に夢を語る癖は衰えていない。続けていればなんとかなる。遠くの場合、これは当てはまる。

 上皇陛下にはこの国の復興の様をお見届けいただきたい。