投稿者: Mitsuhiro

苦手なものは誰にもある

 人には適性というものがある。オールマイティと言われる人もよく見れば苦手なことがある。彼らはその苦手なことを目立たないようにするのが得意だ。だから、何でもできる人のようについ思ってしまう。

 私のようにいろいろな面で難渋している者には、言う資格はないのかもしれないが敢えて言おう。苦手なものがあることは個性であってそれ以上ではない。できないことがあるのは当たり前で、その点だけ取り上げて非難するのは間違いだ。そういう君もできないことがあるはずなのに、何を偉そうにと私などは思ってしまう。直接言えないが。

 最近、ある局面だけで他人を見下す人が増えているように思えてならない。恐らく見下す人もどこか自己肯定感を持てておらず、他人をけなすことでようやく自己を保っているのかもしれない。哀れだがこれは互いを低め合う悪行である。本当に相手を貶す意味はあるのか。自己満足のために他人を巻き込んでいないかは考えて見るべきだ。

 人間は集団の生物であり、ある意味互助で進化の過程を切り抜けてきた。その精神が失われたとき、弱い生物に転落するのだろう。残念ながらいままさにその過程にある。

 自分の不完全さを知り、同族に助けてもらえる知能を獲得できていることを思い出す必要がある。援助をAIに求めるならば、人間はますます分断されていく。私の人生の尽きるまではそう間がないが、その間にヒトの生き方を思い出す機運ができればいいと思う。

 

人生の分岐

 それなりに波瀾の人生を歩んできた自覚がある。もっと安易な生き方も可能だったはずだ。また、今のように細々したことにこだわりすぎる生活はおかしいとは思いながら、すべてを受け入れてきた。そのことを後悔はしない。なるようにしかならなかったのだ。

 自分にはもっと高い所に進む可能性があって、いまは不遇なだけだ。そう思うことは慰安の言葉としては最上級だ。実際は偶然掴んだ高みだとしても人は謙虚にはなれない。自分には計り知れない可能性がある。いまはそれを発揮できないだけなのだ。時が来れば一気に駆け上がるのだと。誰もが思う幻想だ。

 私はこの幻想を否定しない。妄想でもなんでもいい。成し遂げたいと思うことをこなしていく。そういう達成感の中で生きるのは一つの見識だろう。日常生活ではままならないことが多すぎる。それでも自分の中で描いた物語の主人公として生きられるならばそれは意味があることだ。

 どんな成功者も転落の憂き目にあっていると思っている人も、実は偶然の人生を生きている点では同じなのかもしれない。それを仕方がないものと諦めるのか、自分なりの意味を見出していくのかで印象は大きく異なる。

眼鏡を外して

 結構な近視に老眼をかけ合わせた面倒な目を持っている。最近、それでも眼鏡を外して歩くことが増えた。細かいものは殆ど見えない。男女の区別は出来ても、表情は読み取れない。

そういう視力で世界を見るとかえっていろいろ考えるようになった。見えない分だけ想像するようになるらしい。そして、反対に余計なものを見なくなる。これはむしろいいのではないか。

 もちろん、瞬時の判断を求められる場面においては視力不足は致命的だ。スポーツ選手が引退するのは筋力よりも視力の衰えによるのではないか。それほど瞬間の判断やそれに伴う行動は視力不足には厳しい。

でも、さほどの緊迫感がないときは、むしろ余計なものがみえない方が都合がいいような気がしている。

木漏れ日

 昨日はとても暑い一日だった。ただ、まだ湿度がそれほど高くはなかったので日陰に入ると涼しさを感じることができた。近隣の公園に行くと小さなテントを立てる家族が沢山いた。簡易に立てられるテントがあるらしく、登山の時のような専門的技能はいらないらしい。小さなテントで親子連れが横たわっているのは少し羨ましい。

 私は木陰ができているところに行ってみた。すると木漏れ日が独特の影を落としている。しかもおそらく光の屈折かなにかの効果で独特の縁取りになっている。それが絶妙な半日陰を作り出していた。涼しさに加えて心地よさを感じさせるのは光彩の力なのかもしれない。

 木漏れ日に落ち着きを感じるのは原始の記憶が呼び覚まされるからだろうか。そんな非科学的な妄想を次々に考えてしまう。森に抱かれていたころの人間は今のような生活には耐えられないと思う。

 これからさらに暑い日々が訪れる。冷房に頼りすぎて引きこもってばかりはいられない。それでは精神が病んでしまう。大切なのは猛天下でも適度に外界と関係をもつことなのだ。そのときに木漏れ日の優しさを思い出したい。

夏日確定、その上も

 週末は晴れの予報が出ている。しかもかなり暑くなるらしい。今日も関東の内陸部では30度に迫るらしいが、明日は関東南部もそうなる可能性が高いという。順化はかなりできてきたがまだ不安もある。給水、休憩を心がけたい。

本を読む時間

 最近、本を読む時間が不足している。自分の仕事を能率的にするほど、わたしの場合は読書から離れてしまう。物事をテキパキこなすことと教養を蓄えることとは違う回路が必要なようだ。

 残念ながら、いまは日々の仕事をこなすことに手一杯だ。それには教養は要らない。雑念を捨てて作業をこなすことだ。今の世の中はこれが求められているから厄介だ。自分を仕事の機械にしていく。それで満足している人があまりにも多いのは不思議だ。

 いまは耐える局面と心得ている。生産性という大義名分の元に犠牲になっている生き甲斐というものを取り戻す準備をしていこう。面従腹背、わたしは性格がよくないのである。

突然思い出すのはなぜ

 過去に覚えたことが唐突に思い出されることがある。今朝は化学で使われる用語をなぜか思い出した。濫読の際にたまたま目にしたもので、詳しいわけではない。きっかけも思い浮かばない。

 そういうことは時々起こる。いつもは思い出そうとしても思い出せないのに、いわば無駄に出てくることがある。このメカニズムは何なんだろう。記憶というものがどのように成り立っているのかには興味がある。脳の衰えを感じ始めているからだろうか。

 コンピューターのようにデジタル化したメモリーをコマンドで取り出すのとは違う何かがあるのだろう。

古きよきではなく

 懐古するとき、私たちは無意識のうちにいろいろな誇張をしている。実態以上に物事を美化し、場合によっては実態以上の理想世界を創造してしまう。ベル・エポック幻想は誰にでもあるのだろう。

 私はちょっと変わり者で過去に理想を求めない。古典文学研究で少しだけ明らかになる世界は優雅だが、その分極めて不自由な社会的くびきに取り込まれている。恐らくタイムスリップしてもすぐに逃げ出したくなるはずだ。

 過去を知ることは今を考えることなる。現実は厳しくいつも難題を突きつけて来るが、先人たちの苦難に比べれば耐えられるものかもしれないと思うことができる。

一つ手前

 教えることの妙技は完全に答えを出さないことなのだろう。過去に影響を受けた恩師を思い返してみても、最後まで面倒を見てくれた人はいない。ある程度までナビゲートしたら、突然突き放す。結果として、やったのは自分の力だと錯覚する。学習者にそう思わせるのが本当の師匠というものだろう。

 教員の中にも変に自分の力量を誇示したり、過去の成功例を並べる輩がいる。そういう必要に迫られて自己の経歴を陳述せざるを得ない人もいるから一概には言えないが、私はそこに哀れを感じる。師たるもの自らの優位を誇るべきではない。自分を越えてゆく教え子に対して満悦すべきなのだと、個人的には考える。

 一つ手前で突き放し、本人の成長を見守る。そういう教師が我が理想だ。自分は程遠い。せめてそんな小説でも書いてみようか。