投稿者: Mitsuhiro

横を向く大阪の駅のベンチ

 旅行で大阪に訪れたときに気づいたことがある。駅のホームにあるベンチがホームに対して90度の向きを向いていることだ。長距離電車のボックス席のようにいくつかの組み合わせで向かい合っているものもあった。東京近郊の駅のほとんどのホームのベンチは列車の到着位置に対して正対しており、かなりの違和感を感じた。

 調べてみると、これは酔客の転落対策だという。酩酊しホームから落下する人の行動を調査すると、ベンチから立ち上がりそのまま前進してしまうことが多いというのだ。意識が朦朧となっているときは前進することしか考えられないということなのか。あらかじめホームと直角に座っていればその可能性は低減することになる。よく考えられている。

 首都圏の主要な駅ではホームドアを設置して転落を防ぐ対策としている。ただ、設置と維持にかかるコストがかかるらしく、また車両の型によって乗車位置が変わる路線では導入が難しいという。さらに理由は未調査だが、せっかくホームドアを作っても終日開放している駅もある。運用にはさまざまな問題点があるのだろう。

 ベンチの向きを変えることで事故対策にしようというアイディアは素晴らしい。このようなちょっとした工夫で現今の問題を解決もしくは軽減する方法はいろいろあるのだろう。これからの高齢化社会にふさわしい街づくりもこうした柔軟な発想から始めるべきだと痛感した。

郷土愛

 ある土地に生まれ、その地にどれくらい執着するのかは個人差がある。生まれただけのことであると割り切れるむきは特に気にしない。そもそもこの世に生を受けるか否かは本人の意志を越えており、ましてその土地がどこかなど考慮外である。

 それでも実感として故郷に対する思いの強さは揺るぎない。なぜ生誕地に拘るのか、はっきりとはわからない。郷土愛という言葉で総括されてもなぜそれがあるのか説明できる人は少ない。自分が生まれたというだけでその地が他より優れていると考えることは信仰のようなものだろう。

 そうは言っても、やはり故郷を愛する気持ちは抑え難い。理屈よりは感性の問題である。故郷は遠き彼方にて思うものという言葉はそうならざる状況に追い込まれた人の持つ感慨である。古人の残した詩句にそれを感じることができる。

 ところで、故郷の範囲をどう考えるのか。それが大問題であろう。かつては村を、そして国、今で言う都道府県をその単位と考えた。いわゆるウチと呼べる範囲はそのようなものだったはずだ。ウチの街では、ウチの県ではと言える。国際社会においてはウチの国と言えるかというと、この感覚はやや無理がある。我が国という類似表現があるが、ウチほどの密着性はない。

 さらにウチのアジアとかウチの地球というのはますます無理だ。SFの中の表現ならばいざ知らず、非現実的な表現である。こうしたことから考えると郷土愛というときの郷土の範囲はある程度限られている。

 郷土を愛することそれ自体は素晴らしいことだが、この愛には他者の郷土をも尊重する態度が含まれていなくてはなるまい。それがなければ、自己中心的な感情となってしまう。結果的に巡り巡って自分の里をも傷つける。他者にとって自分もまた他者なのだから。

 郷土愛を育てる大切さを訴えるときに、まず他者の郷土も尊重することと、その先に大切にする場所の範囲を広げることが肝要だ。

 

寒さ慣れ

 寒い日々が続ているうちに身体が順応してきたのかもしれない。寒冷順化というそうだ。かつては少しでも寒いと震えが止まらなかったのに、それほどでもなくなっている気がする。

 もっともこれは今の気温が続いていることが前提であり、さらに寒くなればやはり過去と同じようになるだろうし、逆に暖かい日が数日挟まると順化の恩恵はなくなってしまいそうだ。体感とは相対的なものであり、気温ではなく気温差が感覚に大きな影響を及ぼす。

 気温だけはなく、感覚的なことの大半は変化によって感じ取るもののようだ。演劇や映画の世界では悲劇の前に必ず穏やかな場面を置く、観客はそこからの落差に感動し、時に涙を流す。緊張と緩和の組み合わせが要だというが、これも人の感覚の特性をとらえたものなのだろう。

生徒は手書き、教員は…

 先日も書いたが生徒の国語力を上げるには究極的には手書きの文章作成をいかにさせるか。そして、それを継続的に実施し、指導するための評価を行うかにあると考える。デジタル機器の教育への導入で間違っているのは、特に国語教育においては「書く」ことを疎かにしたことにあると考える。

 私たちの身の回りにはもはやスマホやキーボードがなければ文章が書けないという人が少なからずいる。紙に書くという行為が億劫だからという理由以前に、考えたことを順序だてて文字にしていくことが難しくなっているのだ。デジタルであればテンプレートがあるし、語彙レベルでは予測変換もする。また人工知能を使えば文章すら組み立ててくれる。マイクロソフトは「下書き」を手伝うという設定にしているらしいが、実際にはほぼ完成形の文書とみてそのまま使う人も増えているのではないか。そうなるとますます文章が書けなくなっていく。

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 ならばどうしてもデジタル入力をせざるを得なくなる大学生になる前に、初等中等教育では徹底的に手書き文章を作成する訓練を積むべきである。これが冒頭に述べたことである。インターネットで資料を検索したり、図表を作成したりすることは機械任せにしなければならないこともあるだろう。しかし、文書作成能力に関しては譲ってはならない人間の能力である。

 そこで問題になるのが、教員側のこの教育に対する対応である。生徒から大量に提出される紙の答案にいちいちコメントを書き入れ、改善点を指摘していくのにはかなりの労力が要る。例えばそれを学期に一度やるとか、月一度は実施するといった程度でも負担感は大きい。そこで外注するという方法が出てくる。でもこれでは返却までに時間がかかることや、家庭にさらなる出費を要求することになり問題点が大きい。

 解決案として考えているのは教員側の方はデジタル化で対応するということだ。答案をスキャンし、その上にデジタルで書き込む。コメントはある程度使いまわしも許容し、観点を決めて評価する。そして、それ以外は見ないことにする。例えば、今回は主述の一致をみると決めたら、それ以外の内容的な面は多少目をつぶって採点する。逆に、表現面の工夫については問わずに着眼点だけを採点するといったようにメリハリをつけるというやり方だ。もちろん表現と内容は相関するので結局両方を評価することになるだろう。

 また例えば400字以上の作文の添削を継続的に行うのは無理だとすれば、200字以下の文章を書かせる課題を続けることも手である。目的は文章で答えることを習慣化させることなのだから、添削の正確さは実は二の次なのである。大切なのは練習を続ければ文章作成がうまくなっていくことを実感させることで、単なる点数化ではない。

 生徒にはあくまで手書きで書かせ、教員はデジタルの利便性を使う。この方法を実現するためにはスキャナーや、タッチペンで入力できるシステムなどが必要だが、生徒の国語力向上を考えればやるべき投資ではないだろうか。生徒が端末を持っているならば、教員の添削結果をデジタルで返却するのでもいい。できれば紙に出力した方がいいが。

 ちなみに私も手書きの文章能力の衰えを実感するものとして、ブログを書く前にノートに書きたいことを殴り書きすることがある。この記事もその末に書いたものだが、原型とは全く違う内容になっている。でも、自分の脳と手だけで書くことを先行することには意味があると確信する。

漢字の力を伸ばすために

 最近の子どもたちの漢字の力が落ちているのではないかとはよく言われる。教員現場でも実感することで、漢字の読み書きの能力が総合的に低下しているように思われる。漢字力とは換言すれば語彙力でもある。少ない語彙では思考の深みは期待できない。漢字が書けなくなっている原因は何だろう。

 様々な要因がある中で根元的要因と考えられるのは文字を書く機会の減少なのではなかろうか。デジタル化の中で子どもの頃からスクリーンを通して文字を読み、実際に文字を書くことはほとんどない。作文とか感想文とかを書かせることが少なくなっているのかもしれない。

 そういう環境にある子どもたちに漢字の力をつけさせるには、やはり手書きで文章を数多く書かせることなのだろう。ただ、それを継続的に行い、かつ子どものモチベーションを維持させるためには工夫がいる。それは書いた文章を評価してもらえるという感覚を与えることだろう。リアクションがあれば続られるはずだ。

 さらに作文の出題方法にも工夫がいる。好きなことを自由に書かせるだけでは語彙が増えない。手持ちの言葉だけで済ませてしまう。今回は漢字力の向上が目的なので、普段あまり使わない語彙を使わせる必要がある。

 書いた文章を評価する必要性について述べてきたが、教員の立場からすると次のような本音が立ち現れる。その重要性は理解できるが、いったい誰が読んでどう評価するのか。そんな時間はないのだが、というものだ。

 授業の準備に加え、小テストの採点、生活指導、保護者対応、部活顧問としての役割など教員の仕事はマルチタスクだ。その中で文章の添削などできないというのが真実だ。私はこの問題に対して次の提案をしたい。例えば教科書で教えた文章を200字で要約させる。ただし、次の熟語を必ず使うことといった条件付き作文だ。

 要約の効用は別に述べる。いま問題にしているのは漢字力だ。指定した熟語が要約のキーワードにかかわるものだといい。漢字テストとはカタカナを漢字に変えるものだと考えている子どもたちの考えを変えたい。言葉は意味を持つものであり、文脈の中でその意味は少しずつ変わる。それは自分で使うことによって体得できるのである。だから、要約という作業をさせながら、同時に語彙の運用力も試すことができるという訳である。

 採点の仕方はいわゆるルーブリック評価で対応する。実は何点与えるのかは重要ではない。肝心なのは学習者にいかにたくさんの文章を書かせ、その評価を聞かせるということである。例えば中学校の教員なら、文章の添削に対して神経質になる必要はない。目的はいかに生徒に文章を書かせるのかということになる。でもルーブックがなければ進まない。それならば既存の評価表を使ってやればいい。

 漢字テストをカタカナから漢字にする問題とだけさせないために、実際に文章の中で運用させる機会を与えるというのがこの提案の趣旨である。採点する側はキーワードが正確に使われているのかだけのチェックだけでもいい。ならば多数の答案の添削でも、なんとか間に合うのではないか。

 これからの国語教育は人工知能ではカバーできない人間的な思考回路の補強、進展にあると私は考えている。日本語のように複雑な成長過程を持っている言語こそ、この問題に対処するためのいい事例となるのではないか。

庭の金柑

 実家の小さな庭に今年も金柑がなっている。つき始めると次々に結実していく。少し摘んで口にすると甘く、優しい香りが広がる。寒い中で冬の日差しを集めて形になったと思うと、とても愛おしい。

金柑

寒き陽を集めてなれる金柑や人なきやどを忘るることなき

アラブ地域への干渉

 アメリカがガザ地区を管理し、現地住民は移住させるという計画が発表された。トランプ大統領の提案である。紛争地域を丸ごと統治するというが実効性は疑わしい。大量の移住民をどこが受け入れるのだろう。アメリカではないことは明らかだ。

 アラブ地域は長い歴史の中で何度も他国の干渉を受け、それがきっかけで複雑な分断を繰り返してきた。古代史の時代から、今に至るまで民族が何度も通り過ぎているともいえる。近代の2つの大戦の時代からは欧州の列強が植民地化のために侵入し、独立の気運が満ちると善後策を考えないまま投げ出した。加えてシオニズムの支援もしてきた。

 今回のアメリカの干渉も形を変えた植民地化という味方もできるかもしれない。祖国を追われ移住を強いられた人の心情を無視するならば再び分断を深め、テロリストを生み出す可能性がある。すべてをディールとして使う戦略ゆえにこの先どう展開する中は不明だ。

要約する人工知能

 最近のアップデートでウェブメール送受信のアプリに内容要約の機能がついた。そのことに気づいたので、試しに使ってみると、そこそこ使える。会話体のくだけた文体でも、要点をまとめていた。人工知能にとって要約することはある程度は可能らしい。

 でもそれは、明確な目的意識をもって多くの人が考えそうな結論の文の場合であって、感情の揺れや細かな情緒が含まれると誤読してしまうようだ。当たり前だが機械は文面通りに解釈する。批判精神やアイロニーなどが隠喩などを通して書かれるとそれを逆方向にまとめてしまう。

 そこで国語の教員的には、曖昧な表現を避け、明確な文章を作成しましょうということになる。現代の場面に合わせるなら、AIに誤読されるような文章はいけない。簡潔にして明解、誰にでも理解できる文をかくのですと。

 密かにもう一人の自分が立ち上がる。誰にでも分かる文章なんて価値があるのか。その人しか書けない味わいこそが大切だ。それが書けなくなったらいよいよ人間なんて要らなくなるぞと叫んでいる。ただし声のない叫びだ。

 文章には色々な目的がある。用件や意見を伝える文章はその第一だ。でも、それだけではない。不定形で捉えどころのない感情を何とか言葉にして表すのも文章だと思う。それを忘れると文章は作業のためのプログラム言語に近づくのではないだろうか。容易に機械で要約できない文章にも価値があるといいたいのである。

みんな違ってみんないい

 トランプアメリカ合衆国大統領の関税を盾にとった外交術はどうもディールと考えられる。大きな関税をちらつかせることで相手を追い込み、有利な条件を導くという手法だ。アメリカのような超大国がこの手法を行うのは脅威というしかない。大国というのはどの時代も横柄であり威圧的だが、今の㋐アメリカはそれがとても分かりやすく出ている。

 日本のような大国に囲繞されている地勢にある国にとっては巧みな外交術が求められる。アメリカとは同盟関係にあり、従属しつつも言い分は通していくという今までの外交をよりしたたかなものにしなくてはならない。そして中国に対しては政治的には対極、文化的には親密という微妙な距離感を生かして対立しても敵にしないという政策をするべきだ。極端な親中派も反中も国益にはそぐわない。日本は巧みにふるまうべきだろう。

 米中が対立関係にあるうちはその膠着状態の中で日本のような国が捲土重来を果たす機会である。経済力、軍事力で一番に離れなくても総合力で世界をリードする力を得る可能性がある。そのためにはかつての貪欲な向上力を取り戻すことが必要なのかもしれない。国のために働くとか、自分の人生を仕事に捧げるといった言葉は今の日本ではネガティブにとらえられる。場合によっては危険思想をもつ人物の扱いになる。でも今はもはやそういったことを認めなくてはならない緊急事態になりつつある。

 そして超大国に伍するためには日本一国では力不足だ。運命共同体ともいえる東アジアや東南アジアとの連携を具体的に進めることも必要になる。文化的な多様性があることを認めつつも、大国の横暴を認めず、平和的な国際環境を保つという点においては協力ができるはずだ。そのことを促す役割を日本ができればいいと思う。

 さて、先に述べたように現在の日本では、国のために働くという表現はネガティブにとらえられる。これが先の戦争への反省であり、占領軍によって叩き込まれた反戦思想の影響であることは間違いない。それ自体は間違いではない。ただ、国益のために仕事をしたい人にはその機会を与え、場合によっては報酬を用意する必要がある。幸せの実現の仕方は様々であり、家族との時間を第一に考える多数派の人物の幸福は当然保証しなくてはならないが、それよりも他者のためになる仕事、研究に没頭する人の情熱も同時に評価すべきなのだろう。それぞれの人が別の目的で生きることを認められる社会を作ることがこの国で必要とされている。

 アメリカ大統領が分かりやすい商人気質のふるまいをする人であるからこそ、それに対応できる能力も求められる。アメリカが多様性の国であることを捨てつつあるのは衰退への一歩であるという説もある。ならば、その強みを日本やアジアの国々が引き継ぐことが必要なのではないだろうか。様座な生き方考え方を容認できる環境を作る必要がある。日本文化を考えるとそれは十分可能であると思われる。みんな違ってみんないいを目指すべきだ。

強力な寒気

 強い寒気が日本列島を覆っており、北日本では記録的な積雪を観測している。帯広では24時間で124㎝の積雪があったという。北海道でも帯広は積雪が少ない場所であり、100㎝以上の積雪は55年ぶりという。ライブカメラで見る限り、北陸から東北にかけての日本海側は海岸近くはまだ積雪は少ないようだが、山間部はかなり積り始めている。

 関東は乾燥した天候になりやすいが、今日は雲がかかっている。脊梁山脈を越えて平野部まで雲のかけらが到達しているのだろうか。異常な乾燥が和らいだのはいいが、やはり寒さが気になる。そしてかつて日本海側の住民であった私にとって山の向こうの天気が心配でならないのである。