投稿者: Mitsuhiro

大学に入る前

 はるか昔のこと、大学合格が決まって入学式までの間は私にとってかなり危険な期間だった。受験勉強しかしていなかった数ヶ月の期間にすっかりと世間知らずとなり、さまざまなものが弱くなった私を標的にしてきた。

 新興宗教の勧誘はさすがに避けることができたが、英会話教室の巧みな勧誘はあと少しで騙されそうになった。大学に入れば受験英語は役に立たない。大切なのは会話力だと力説されるとそうかなと考えてしまうものだ。いまだに英語は苦手だが、会話ができなくても大学では少しも困らなかった。もちろん、同じ教室に英語が堪能な人がいたのは確かだが。

 私の高校の男の同級生の大半は浪人していたから彼らを誘うのも何となく気が引けた。かといって女子の同級生と気軽に遊べるような高校生ではなかったので、結果的に空白のときを送ることになった。

 何をしたのかは実はあまり覚えていない。でも、いまより一日一日が濃い印象だけは残っている。大学に入って暫く経っていろいろな出会いがある。人生に大きな変化が起きたが、その変化を経験するとそれ以前のことが急におぼろげになった気がする。

 卒業というのはそういうものなのだろう。間もなく私も違う意味での学校を卒業することになるが、きっといまの生活の感覚はその後忘れていしまうはずだ。ならばいまの生活のあれこれを味わっておくのも大事なのだろう。

読み上げアプリの間違い

 動画サイトなどでしばしば読み上げアプリを使う例がみられる。その中でかなりの確率で読み間違いがあるのは残念だ。文字入力をするだけで読みの検証を怠っているのだろうが、もしかしたら発信者自身が読み方を知らないのかもしれないと疑っているのだ。

 入力された文章を音読する機能はほとんどのコンピューターで実行可能だ。OSに備わっているものが多い。ただ、それは意味とは無関係に文字を音声化しているので、文脈に応じた読み分けはできない。「いきもの」も「せいぶつ」も「生物」と表記できるが、明らかに使用の場面は異なる。表音と表意のハイブリッドである熟語は意味が分からないと読みが決まらない。

 現段階の読み上げアプリにはその判断ができないらしい。ならばそれを作った人間が読み分けを指示するしかない。それができていないのかもしれないのだ。現在の情報環境では文字を自ら書いたり読んだりする機会が減っている。読み間違いは他者とのコミュニケーションを通じて訂正される。その機会が失われると修正ができないのだ。

 憎悪は「ぞうお」であり、険悪は「けんあく」だ。この使い訳ができなくなっている。もっとも、輸入は本来「ゆにゅう」ではなく「しゅにゅう」だ。詩歌も本当は「しか」だったのが「しいか」と読まなければ間違っているといわれてしまう。傑作なのは捏造が「でつぞう」なのに「ねつぞう」だとされていることで、これこそ捏造そのものだ。読みは不安定なものなのだが、それでも最近の読み上げアプリの読み間違えはひどく、若い世代の国語力をさらに低下させてしまっている気がする。

短期記憶

 短期記憶は読書の際にも大切だ。筋を追って読んでいく際に、ワーキングメモリーはフル活用される。歳をとるとそれが衰えている気がして残念だ。こればかりは諦めずに食い下がるしかない。メモを取りながら読むことが多くなったのはそのためなのかも知れない。

パンデミックが

 コロナ禍によるパンデミックが子どもの成長に及ぼした影響に関する検証はこれからよく見かけることになるだろう。隔離を余儀なくされ、リモートによるコミュニケーションが主流となった時期に成長期を過ごした世代には少なからぬ影響が見られるはずだ。

 印象で述べることなので以下の内容は批判的に読んでいただきたい。集会の際のマナーやモラルに関しては意識が低下したと考える。ライブで行われる一度限りの情報伝達では集中力が何よりも大切だ。それがない子どもたちが多い気がする。状況を考えないでリアクションをするのはテレビを見るときの姿だ。

 字が汚く、文を書くのが苦手なのも基礎的なトレーニングができなかったことの表れなのかもしれない。相手に対して敬意を示すことや、忍耐強く最後まで聞きとどけることなどもリモート学習では達成できなかったことなのだ。

 こうした差異がこの後、彼らの人生にどのような影響を及ぼすのだろう。

濃霧

 今朝は気温が高くなったために平野部でも濃霧が発生した。朝霞というべきなのだろう。唱歌の歌詞にある「霞か雲か」の現象である。上着を着るのが少し暑い気がする。季節の移り変わりを物語る一コマである。

型から学ぶという意味

 日本の教育は知識や型を教えすぎて、本人の個性を伸ばせないという批判がある。確かにそういう面があるのは事実だ。このような方法では既成の秩序の中ではうまく立ち回れても、未知の世界では対応できない。今日のように予測不可能な未来に直面する状況では、もっともよくない仕儀であると。

 ただ、ならば自由に学べというのもおかしなことだ。学べる力を持っているのなら、実は教育は要らない。多くの場合、人は何をどう学んでいいのか分からない。だから、先人の教えが必要なのだ。

 日本的な基礎を固める方法も、個の応用に賭けるやり方もどちらも必要である。先人の教えを手っ取り早く実践できるのは型の模倣だ。もちろん外面だけの摂取ならば実効性は期待できない。型の模倣にはその精神の体感を゙伴うことが期待されている。

 この方法は見直されてもいい。身の丈に合わないことでも敢えてやってみる。やった後で得られる何かが単なる模倣をそれ以上のものにするのかも知れない。コピーしきった時には本家を超えることもあるのだ。

 学び方に王道のようなものはない。一時的な批判にぶれることなく、信じた学び方で貫くことが成功の扉を開く。今日のように情報過多な世情ではあれこれ考えているうちに学びの機会を逃してしまう。学びには一種の愚直さが必要だ。

子どもの頃には気づかなかったこと

 子どものころに見ていたドラマやアニメをふとしたきっかけで見直してみるといろいろな発見がある。いまに比べれば特殊効果などの技術が単純なため、ほほ笑ましく感じてしまうものすらある。

 ただ、設定やストーリー展開の中には子どもの頃には気づかなかったメッセージが感じ取れることもあり、興味深い。作っていたのが大人である以上、彼ら境遇やら世相などが自然に入り込んて居るのだ。

 文化史の資料として見てしまう自分がいる。

ノートは先生の言ったことの記録ではなく

 学生の頃、恩師の講義はもれなく記録しようとしていた。ときには小型カセットデッキを持ち込んで録音したこともある。ただ、いま考えると一字一句書き留めることには、それが講義そのものの記録を目的にするものでない限り必要ではなかったと考えている。講義の中で何を講師が伝えようとしているのかをまとめればよいのだ。

 その意味においてノートは講義の記録ではなく、講義で得た知見を自分の中に内在化させるための手段の一つなのである。教わったことを自分が使えるものにするために場合によっては自らの経験や知識を加味してまとめ直すことが行われる場なのだ。

 このことは中等教育の時点で教えておく必要を感じる。単に黒板の文字を写しておしまいではなく、それを自分の言葉で説明できるようにしておく。そのための作業をするための空間がノートなのだと言える。

 きれい書くとか、カラフルに書くといった指導は要らない。本人にとって自分の思考が展開できるものであればよいのだ。よく、有名大学生のノートを模倣すべきだという発言があるが、これも絶対的なものではない。個人にとって使えるものであればなんでもいいのだ。講師との対話、もしくは自分自身との対話が模擬的に行われるスペースなのだ。

 ノートに関しては私自身も最近は講師の話を批判的に聞き、メモには自分の考えも加えている。その方が余程記憶に残るし、使える知識になりやすい。

東京大空襲の日

 1945年3月10日に東京の現在の墨田区や江東区、墨田区を中心に広域にわたる空襲が行われた。何度かあった東京への空襲の中でこの日を大空襲と呼ぶことが多い。死者数は10万人を超え、その多くは非戦闘員であった。交戦中の国への攻撃とは言え明らかに戦争法違反の行為である。このことを忘れてはならない。

 戦争という事態は人々を異常な精神状況にさせるらしい。いま、日本は暫く戦争とは無関係な日を送っている。戦争の恐ろしさも抽象的なものとなってしまった。何が本当で何が嘘なのかも分かりにくくなった。

 空襲にしても死傷者の数や被害のあった土地の面積といった数で表現され、その当時の人々の感情は伺い知れない。これでは戦争の恐怖は十分に理解できないのだろう。

 人々が戦争の害悪を知りながら、繰り返してしまうのは実感の保存が完全にはできないからという原因もあるに相違ない。せめて今何ができるのかを考えるべきなのだ。

記憶はいつか

 記憶はいつか消えていく。歳をとるとその速度が速くなっていくのを実感する。さまざまな媒体に記録しても、それはすでに自分の記憶ではなく、何かが省略され、何かが誇張された現実に似て非なるものである。

 ならば現実は直ぐに消え去る儚いものなのだろうか。私たちはその問いを全力で打ち消そうとする。記憶が消えても、いかに現実を過ごしたのか。それが周囲の他者にいかなる利益をもたらしたのかという尺度を持ち出して有意義なものであることを死守しようとする。これは実はとても大事なことだ。

 人生を一人の視点からしか見なければ、人の死は全ての終わりだが、人類という単位で見れば、個々人がそれぞれ積み重ねてきたまとまりのようなものである。それぞれ皆違いながら、多くの共通点を持つ。記憶を組みあわせれば人間としての共通経験が形成される。その意味では人間の記憶は意外にも長い。

 いずれ忘れることであってもそれを考えることにはやはり意味がある。